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バートランド・ラッセルを読む会_読書会レジメ 006 - 「ラッセル権力論」(1980.04.13)

[テキスト]東宮隆(訳)『権力』(みすず書房版・ラッセル著作集第5巻/On Power, 1938)

(注意)ラッセルが本書で言う「権力」(Power)はいわゆる「政治的権力」だけをいうのではなく、宗教家の「権力」なども含む、幅広い「力(Power)」のことを言っていますので、「権力=政治的権力」と考えて読むと、'誤読'することになります。)

ラッセル『権力論』第1~6章

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第1章 権力衝動 The impulse to power

 人間の果しない欲望のなかで一番目だつものは、権力(power)と光栄(栄光:glory)に対する欲望である。
 マルクスはもちろんのこと、・・・正当派経済学者たちも、およそ経済的な自利追求ということが「社会科学の根本的原動力」をなすものだ、とした点で誤りを犯している。'ものに対する欲望'も、権力と光栄とから隔てられている場合には限りがあるもので、それ相当の資産さえあれは十分にみたすことができる。
 本書で私が証明しようとするのは、ちょうど'エネルギー'が「物理学の根本概念」であるのと、同じ意味で、「社会科学の根本概念は'権力'にある」、ということにほかならない。・・・。'権力'も、エネルギーと同じように、絶えず甲の形から乙・丙の形へと移ってゆくものと見なけばならず、社会科学もこうした'変形の法則'を探求することにその使命・仕事があるべきはずである。・・・。
 私は本書全体を通して二つの目的を携えている。第一は、全体としての社会の変化の分析として、こんにち経済学者が我々に教えているものよりも、より適切だと私の信ずるものを示したいということ。第二は、十八世紀と十九世紀の考え方に支配されている人々に対して、現在および近い将来がどうなっていくか、ということを何とか納得のいくものにすることである。

第2章 導くものとつき従うもの(指導者と'とりまき連中')

 権力衝動には二つの型がある。衝動のはっきりしているのが'指導者'で、こっそりとしかあらわれないのが'服従者'('追従者'・'とりまき連中')である。みなが進んで指導者に従ってゆく場合、それは、彼らがその指導者の支配している集団の力で権力を獲得しようとするからであり、彼らは、'指導者の勝利'イコール'自分たちの勝利'と感ずるのである。・・・。人が権力を好むのは、問題の仕事を扱う自分の能力を信ずるかぎりでの話で、自分が無能力だと知れば、むしろ指導者に従いたいと思うものである。・・・。すべて、へりくだって従うということは、'恐怖に根ざすもの'で、その場合、我々の指導者と仰ぐ人が人間だろうと神であろうと、その点に変りはない。
(第三の型もある。それは、'脱落者'である。支配したいという気持の元となる横柄さ imperiousness は持ちあわせていないが、屈従を担否するだけの勇気ならあるという人間)

第3章 権力の形式

★碧海純一『ラッセル 』

 権力は、いろんな方法で分類できる。
  • 人間を支配する権力(力)と、生命のない物質あるいは非人間的な形の生命を支配する権力(力)
  • 組織のもつ権力と個人のもつ権力
  • 伝統的な権力、革命的な権力、むきだしの権力、世襲の権力
  • 政治的権力、黒幕の権力・・・
     第4~5章では、過去に最大の重要性をもっていた伝統的な権力の二つの形について考察する。

    第4章 僧侶の権力

     僧侶の最も原始的な形は禁厭師 medicine-man で、その権力は二種に分れ、人類学者の区別によれば、一つは宗教的、いま一つは魔術的なものであったという。
     僧侶でも僧侶以外の人でも、およそ革新者と呼ばれるほどの人 --ともかく、一番なが続きする成功をおさめた人-- は、いづれも出来るだけ伝統に訴えて、自分の新制度のうちにある新奇な要素を最小限にとどめるように、出来るかきりのことをするものである。その通例のやり方は、多少とも'虚構の過去をねつ造'して、この過去の制度を復活しようとしているふりをすることである。(例:神話の創造)
     '法王権'の消長は、宣伝による権力の獲得ということを理解したいと望む人にとって、研究に値いするものである。

    第5章 王権

     '戦争'が'王の権力'を増大させる上で大きな役割を演じたに相違ないことは明らかである。
     '君主政体'も、'教会'と'封建貴族'をうちやぶってしまうまでは、依然として弱体の域をでなかった。
     イギリスとフランスとスペインの新しい君主政体は、教会の上にも、貫族階級の上にも位いするものであった。この新君主政体の権力は、二つの新興勢力であるナショナリズムと商業に依存していた。(最後に、現在(1938年)では、ナショナリズムと商業はたもとをわかち、イタリアやドイツやロシアでは、ナショナリズムが勝利を納めた。)

    第6章むきだしの権力

     実例1:シラクサの専制政体--特に、アレクサンダー大王と同時代の人で紀元前361年から紀元前289年まで生き、生涯の最後の28年間、シラクサの僭主だったアガンクレスの生涯
     実例2:ルネツサンス時代のイタリアにおけるチェーザレ・ボルジア(Cesare Boria)

  • 経済的領域におけるむきだしの権力:産業主義の揺らん期には、支払われるべき賃金を規正する習憤は一つもなかったし、被雇用者も未組織であった。従って雇庸者と被雇庸者との関係は、国家の許す範囲丙で、むきだしの権力の関係であった。
  • マルクスは、政治的権力を経済的権力に比して過少評価していると思う。・・・(1868年以降イングランドの都市労働者が選挙権をもった)・・・ひとたび労働組合組織が与えられるや、賃金はもはや'むきだしの権力'によって決定されるものではなくなり,団体交渉によって決定されるものとなった。それはあたかも、商品の売買のごときものである。 の画像