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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

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バートランド・ラッセル名言・格言集

9.そ の 他

読書

・非常に若い人たちは概して知識を獲得するために本を読み,大人になった人たちは自分の抱いている偏見を確認するために本を読む。


ラッセルの言葉366

臨機応変の才について

・どんな子供も時には余り好きでない贈り物をもらうが,両親は彼に贈り物をもらえば必ずうれしそうな顔をするようにと教える。子供達は一方で決して嘘を言ってはいけないとも教えられるから,そこに道徳的困惑が生ずる。我々は成人するにつれ,臨機応変と誠実の二つの徳目を厳格に区分画定して,そのつど機会に応じてどちらを用いるかを決める仕儀となる。
 臨機応変の才が一つの徳目であることは否定しえない。いつも一見偶然のようにして,度々場所にそぐわぬ話題を連発する輩はおそらく仲間達の嫌悪を一身に集めるだろう。しかし如才のなさは徳目であるとしても,それがある種の悪徳ときわめて密接に繋がっていることも確かである。臨機応変の才と偽善の境界は極めて狭い。

科学者

・科学が教会の迫害を受けた時代の科学者たちは寛大で進歩的であったが,科学者が名誉と尊敬を博す今日にあっては,彼らは体制擁護に回るのが普通である。

悔悟の本質

・人間はおよそ十人中九人まで,仮に彼らが二十歳の時に殺人を犯したのにそれがまったく発覚しなかった場合には,七十歳にもなると自分が以前そんな罪を犯したという記憶をすっかり無くすものである。自力で成功した高名な金満家連中が,彼らの若い頃の詐術や不正をすっかり忘れてしますことは確かである。・・・。悔悟は本質的に社会的な現象である。つまり我々が自分の過去の出来事が原因でもはや他人一般に,自分のことをこう眺めてもらいたい思う自己への好都合な評価を強制しえなくなった時に,悔悟の感情は発生する。

歴史の慰め

・子供は自分が不幸な間は,彼の視界全体が現在の悲惨事で一杯になり,自分の過去と未来の人生は霞んでしまう。我々は大人になるにつれ,たとえば歯が痛くなっても,それは永久に続かないという体験を想起する能力を持つに至る。我々が自分の過去の経験から引き出すこの種の慰めと同じものを,我々はもっと大規模に人類の過去の歴史から引き出すことができるだろう。(1933.2.22)

When a child is unhappy, his whole horizon is bounded by his misery, and the earlier and later times of his own life become dim. As we grow older we become able to remember when we have the toothache that it will not last for ever. The same kind of comfort which we thus derive from our own past experience can be derived in even greater measure from the past history of mankind.

(組織の)優等生について]

・少年と接する職業についている人ならば誰でも,いつも「良い子」でいる少年よりも,時々悪いことをする少年の方が結局は好きになるものである。(例:悪戯好きな子供)...
 いわゆる「悪い子」が持つこの種の性質は大人の世界から年々ますます歓迎されなくなってくる。ネルソンは一生悪い子で通したし,シーザーも同様であった。しかし,現代の若者のほとんどは,巨大な組織の末端の地位から人生のスタートを切らざるをえない。彼の上司が経験豊かな学校の先生が持っている寛容の精神の持ち主であるのは稀であり,組織の中の「良い子」に昇進の道を与えがちである。・・・。
 人に従うことを覚えた人間は,自分の個人的創意を全部失うか,権力に対する怒りを燃やすに至り,破壊的で残忍な志向を身につけるに至る。・・・。
 組織が現代社会において不可欠である以上,要職にある人達が若者のはね上がりを大目に見る心を養わない限りは,この不幸は解決しない。人は重要なポストにつくと忠告の言葉に耳を傾けなくなるので,自分の心がけを改める機会がなくなる。(1931.11.18)

Everybody who has much to do with boys comes, in time, to prefer the boy who is sometimes 'bad' to the boy who is invariably 'good'.・・・.
 The adult world is growing less and less suitable to the qualities of the 'bad' boy. Nelson was a bad boy to the end of his days; so was Julius Caesear. But nowadays almost every young man has to begin with a very subordinate post in some vast organisation. His superiors seldom have the tolerance of the experienced schoolmaster and are likely to give promotion to the 'good' boy.・・・.
 The man who has learnt to obey will either have lost all personal initiative or will have become so filled with rage against the authorities that his initiative will have become destructive and cruel.・・・.
 Since organization is inevitable in the modern world, there is no way out of this trouble except to imbue the men in important positions with toleration for the vagaries of the young. When men have already become important there is, of cource, no hope of improving them, since they will no longer listen to advice.(1931.11.18: In: Mortals and Others; B. Russell's American Essays 1931-1935, v.1.)


人間を分類することについて

 ・・・。私見では,我々にとって最も不愉快な人種は,相手を見境なく分類して,レッテルを貼る人達である。この不幸な習性の持ち主は,自分が相手にピッタシと思われる付箋を貼り付けた時に,その対象たる人間について完全な知識が得られたと空想する。・・・。
 しかし,この種の分類をする側と分類される当人の感情の間には,根本的対立がある。自分が特定の一つの形容詞で要約された人は,誰でも自分の人格がそれほど単純化されたことの不快感をおのずと経験する。たとえば,女主人が私に向かって,「ああ,ラッセルさん,あなたは大変ご本がお好きですね」といおうものなら,私はS.ジョンソン博士の故知にならって,「いや奥さん,もっとお金がもうかる機会があったら,私は本なんか読みませんね」と答えたい気がする。我々には,自分が分類などに甘んじない高等な人間だという自負がある。・・・。
 当人は神秘的で窺いがたい人格的深遠さを持つのに,自分以外は皆簡単に理解されうるなどという考えは,統計上ほとんど可能性はないにもかかわらず,たいていの人がもっている自己の優越性の信念の一部をなしている。他の全ての独善的見解の例に漏れず,それは世界をあるがままの興味深いものとして見ない。他人を理解することは容易ではないが,それの困難さを理解しえぬ人間によってこれが達成されえぬことだけは確かである。・・・。

...,but one of the worst (to my way of thinking) is that of classfying everybody with some obvious label. People who have this unfortunate habit think that they have complete knowledge of a man or woman when they have pinned on the tag that they consider appropriate...
  There is, however, a fundamental opposition between the emotions of the person classified and those of the person who does the classifying. When one finds onself summed up in an adjective, one automatically resents the idea that one's personality has so littel complexity. When the gushing hostess says to me 'Oh Mr. Russell, I know you are so fond of books,' I wish I could reply, with the manner of Dr. Johnson, 'Madam, I never read a book when some less unprofitable manner of disposing of my time is available.' We all feel ourselves above classification...
 ... The idea that, although oneself is full of mysterious and impenetrabel depths, other people are quite easy to understand, is part of the belief in one's own superiority which most people carry about with them in spite of its statistical improbability. Like all contemptuous opinions, it makes the world seem less interesting than it really is. To understand another human being is not easy and is never achieved by those who do not know that it is difficult.(Written in 10 Aug. 1932/In: Mortals and Others, v.1, 1975)


Sane or Insane("正常"と"異常")

... Every isolated passion is, in isolation, insane; sanity may be defined as a synthesis of insanities. Every dominant passion generates a dominant fear, the fear of its non-fulfilment. Every dominant fear generates a nightmare, sometimes in the form of an explicit and conscious fanaticism, sometimes in a paralysing timidity, sometimes in an unconscious or subconscious terror which finds expression only in dreams. The man who wishes to preserve sanity in a dangerous world should summon in his own mind a Parliament of fears, in which each in turn is voted absurd by all the others...(From: Nightmares of Eminent Persons and Other Stories, 1954)
 ・・・。いかなる隔離された情熱も,隔離された状態のままでは,(一種の)狂気である。正気とは,種々の狂気を総合(統合)したものとして定義してよいだろう。いかなる支配的な情熱も,(その情熱の対象を)達成できないという,支配的な恐怖を引き起こす。いかなる支配的な恐怖も,時には明白かつ意識的な狂信の形で,時には人を無力にさせる臆病のために,時には夢の中にのみ現れる無意識あるいは意識下の恐怖のために,悪夢を引き起こす。危険な世界において正気を保持したいと思う者は,自分の心のなかで恐怖の議会を招集し,そこにおいて,個々の恐怖を順にとりあげ,他の全ての恐怖によって,不合理であるとして票決されるべきである。

(意訳:「正気」というのは,平凡かつ起伏のない感情の寄せ集めでできているものではない。それぞれの情熱(強い感情)を一つ一つとりあげれば「狂気」に映るかもしれないが,それらの情熱(+の狂気と-の狂気)をまとめると,全体としてみれば,プラスマイナス零となる。そういった状態が「正気」というのであろう。)