ラッセルが日本について示した関心は主として政治上のものであり,芸術文化上のものではなかった。彼は1921年,ごく短期問,日本に立ち寄ったことがあったが,日本に住んだことはなかった。しかし,ラッセルの日本観は的確であり,説得力を持っている。彼が日本について書いたまとまったものとして,1922年刊の著作『中国の問題』(The Problem of China)の第5,第6章があり,これは巨視的に眺めた日本小史としてきわめて興味深いものである。(『中国の問題』については,会報12号で牧野力教授が解説されたので,ここでは特に,上記の二章のみについて論及したい。)『中国の問題』は永らく絶版であったが1966年,再版された。
ラッセルの日本に関する知識は,彼が1920年秋から一年間,哲学を講じた北京大学で得られたものであろう。その知識が,日本の内でではなく,最も日本と関係の深い隣国で,主として日本人以外の史家の書物を通じて得られたことが,ラッセルの日本観を冷静なものとしている。彼には,日本通の外国人に見られがちな,日本文化に幻惑されるということが殆んどないのである。その曇りなき眼は,彼の信条である公平無私な立場,経験主義的な研究態度の帰結でもあろう。
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いわば日本小史とも言いうる前記の二章は,『明治維新までの日本』と『現代の日本』と題され,長さにして第5章が11頁,第6章が20頁,あわせて約30頁である。この短い頁数の中に,古代から近代に至る日本の姿を大胆且つ魅力的に描いている様子は,まさに後年ラッセルが主張した「芸術としての歴史」(history as an art)を自ら実行したと言ってよい。紙数の都合で,ここではその片鱗を伝えるに過ぎないことをおことわりしておきたい。
ラッセルは日本史の流れを,天皇(ミカド)と武家(ショウグン)の支配の歴史としてとらえ,明治維新における薩長の政権奪取の目標が,「大化の改新」の精神の復興であったとして理解している。従って,ブルジョア革命として明治維新をとらえる史家とは異なり,ラッセルは維新をあくまで,日本の近代化への脱皮の政治的方策と見ており,神道の興隆を天皇支配による国民の帝国主義的編制の精神的支柱と考えた。ラッセルにとって,日本史を彩る仏教もキリスト教も神道も共に,支配階級にとっての統治の手段としか映らない。鎖国の原因も,純粋に防衛上の問題のもたらした帰結であって,幕府のおそれは,第一に無敵艦隊をもつ強国として宣教師やジョン・アダムスに教えられたスペインによる日本制覇であった。九州諸大名の入信は,宗教的真理を求めてなされたのではなく,スペインからの武器の購入をし,軍事力を拡大するための方便に過ぎなかったと片付けられている。無論,その後の宣教師迫害も日本の防衛が主眼であり,宗教的不寛容とは無縁のものとされているのである。