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沖田武雄「五十年の師バートランド・ラッセル」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第23号(1975年5月)p.14.
* (故)沖田武雄氏は当時、ラッセル協会会員
*福田徳三(1874~1930):大正デモクラシーの指導者・自由主義者。1919(大正8)年、吉野作造らと「黎明会」を創設。また急進的な雑誌「解放」の編集に従事。一ツ橋大学の理念である Captain of Industryの発案者。

Bertrand Russell : Principles of Social Reconstruction の表紙画像  師資相承でなくとも、ある思想家の所説に触発されて自己の思惟と行動とが促進されるときにその人を'師'とよびうるならば、私にとってラッセルは50年にわたる師であることを信じている。大正6年の春、19歳で最初の学校を卒え、北海道の炭山町の小学校教師として世に出た私は、僻地で生きながら当時の若い人なみに大正デモクラシーの波に流されていた。この頃『解放』という雑誌が創刊されたが、その巻頭論文は、当時の論壇の雄、福田徳三氏の『解放の社会政策』と題する長文であったが、その中で福田博士は解放原理の傍証としてラッセルの『社会改造の原理』(The Principles of Social Reconstruction, 1916)をとりあげ、この書に述べられる「所有の衝動」と「創造の衝動」の論を推奨され、解放の原理は 'Have'(所有) でなく 'Do' (創造)でなければならぬと強調された。また当時の進歩的思想家による啓蒙団体である「黎明会」は講演と講演集とによってデモクラシーの鼓吹につとめたが、ここでもラッセルは恰も救世的思想家のように称揚されたので其著 The Principles of Social Reconstruction は何名もの人によって訳出された英文の勉強と直接ラッセルの言葉にふれようとした私は、余暇に辞書をたよりにこの書を耽読したものであるが、今にして思えば、当時充分に真意を理解したか、怪しいものである。しかしその後も著書や論文に接するごとにめざめる思いをさせられた。たまたま当時論壇の一角にあって、小冊子『文化』によって諸思想の哲学的基礎の解明につとめていた土田杏村氏の小論にラッセルの『自由思想と公的宣伝』を紹介されたので、当時小冊子であった、Free Thought and Official Propaganda(1922)を手に入れて精読し、強い感銘を受けた。大正の末、東京高師専攻科(現・筑波大学)に学んでいた私は、この書を訳して、この頃新思想の紹介に熱心であった雑誌『小学校』にのせてもらったが、3回連載の予定が1回きりで中止となった。理由は「どうもむかない」とあったが、当時の教育界では、ラッセルの教育論は破壊的危険思想とみられていたらしい。「日本の初等教育は Instruction に加えて、天皇崇拝(Worship of Mikado)を教えて、知識を授けた上に迷信を増進するものであるなどの論評は、臨戦態勢漸増の時勢には不適格とならざるを得まい。

ラッセル協会会報_第23号

 『教育論』(On Education)は1926年の出版で、私の手にしたのは1951年11版(=刷)で、戦後のことで、多くの教訓を受けた。堀秀彦氏の完訳によって世に普及され、多くの人々の顧みるところとなった。尤も知識の教育と性格の教育とをわかち、独立した判断力を養え、理想的性格の基礎をなす活力・勇気・感受性・英知を幼少時から育てよ、というような所説は、もはや奇とすべきものはない。この外『教育と社会体制』(Education and the Social Order)、『科学的見解』(The Scientific Outlook)、『変革世界の新しい希望』(New Hopes for a Changing World)などに接する度に、強い刺戟を受けつつ50年を越えて教訓を受けてきている。
 「最もイギリス人的な」(長谷川如是閑)"Passionate Sceptic"(Alan Wood)のラッセルを、私などがとてもとおそれながら。