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宗像誠也「戦犯裁判と教育学」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第15号(1970年5月),p.15-16
* 宗像誠也氏(1908-1970)は、1955~1956年に東大教育学部長。執筆当時は東大名誉教授、ラッセルと同じ年に亡くなっている。


ラッセル協会会報_第15号
 ラッセルが、ベトナム侵略戦争犯罪についての「アメリカの良心へのアピール」(An appeal to the American conscience)のなかで、つぎのように言っているのに私は突き動かされた。
「たしかに合衆国は革命的伝統をもっています。そしてそれは、はじめは人間の自由と社会的平等のための戦いに忠実でした。この伝統こそが、今日合衆国を支配している少数者によって傷つけられているのです」。「アメリカ民主主義は、その生命と意味とが空っぽになってしまいました」。アメリカ独立戦争の国民的英雄は叫んだではないか。「われに自由を、しからずんば死を」と。それは今、アメリカの侵略と占領とに抵抗するベトナム人の叫びなのだ。「自由と民主主義とのための真の戦いは、合衆国自体の国内にあり、アメリカの社会を奪った者に対するそれであります」。「自由のための戦場はワシントンにあります」。
 私は教育学者であって教育学者に過ぎないので、場ちがいのようにも思いながら、突き動かされて「ベトナムにおけるアメリカの侵略戦争犯罪調査日本委員会」の結成に参加した。委員会はベトナムに調査団を送り、戦犯裁判国際法廷にも人を送り、そして国際法廷に呼応して「東京法廷」を開いた。東京法廷は、いうまでもなく、アメリカの侵略犯罪のみでなく、日本政府のそれへの協力加担、すなわち共犯関係をもさばいたのである。
 今私は病床にあって、1967年夏「東京法廷」の運営に当った感激を思い出すが、私の思念を占めているのは、過ぎた「法廷」のことだけではない。ベトナム戦争は変転を重ね、その間にソンミ大虐殺 -一般には知られていないさらに大規模な虐殺事件もあったが- などがあり、最近はカンボジアの政変によってインドシナ全体が極度に不安定になっているように見える。しかしそのこと自体を私は論じようというのではない。ソンミ大虐殺から南京大虐殺を連想したのは私ばかりではなかった。アメリカは、しぶしぶのようではあったが、ソンミ村事件を調査し、そしてともかく当事者の責任を追及した。事情が違うとはいえ、南京大虐殺は日本みずからの手で調査もされなかったし、責任追及もされていない。
 今日本の軍国主義が論ぜられている。中朝共同声明が峻烈に日本の軍国主義復活を非難し、日中貿易協定にともなう政治会談コミュニケのなかでも、中国側は佐藤政府に対するきびしい態度をかくそうとしない。自民党は日本側がそれに引きずられたとしてコミュニケを諒承しないといい、佐藤首相は内政干渉だと公言している。
 しかし日本は中国とのあいだにまだ戦争状態の終結の手続きさえしていず、戦争によって中国に与えたおびただしい人命と物財との損傷に対して、いささかの償いもしていない上に、共産圏を相手とする日米安保条約を結び、佐藤・ニクソン共同声明では、韓国と台湾とを名指して日本の安全をこれにかかわるものとしている。
 すべてこれらは周知のことであり、教育学者であって教育学者に過ぎない私などが、あらためて指摘するにも及ばないことであろう。だが教育学者の守備範囲はどこまでなのか。それは五才児入学の可否を考え、六・三制の功罪を論じ、せいぜい大学の多様化のありようを考える、というところまでなのか。それらも無論重要でないことはないが、日本が長く朝鮮を植民地とし、中国に対して十五年戦争を挑み、ベトナムその他のアジア諸国・諸民族に対する侵略を敢てした罪をどう考え、その意味を日本人の意識にどう定着させるかは、日本の「国民教育」にとってきわめて重要なことではないのか。それとも未来学と情報化社会論があまりに多忙で、過去をとやかくいっていては二十一世紀の落伍者になるというのか。
 私が恐れるのは日本のかつての軍国主義が、その非常な重みをもってきびしく国民全体に意識させられることなく、なしくずし的に角を丸めて平らにされ、時の流れのなかで風化させられてしまうことだ。日本の国家権力は、教科書検定を通じて、大東亜戦争肯定論を少国民に教え込もうとし、その線の上に「愛国心」なるものを育てようとしている。私には、それは国民教育の基本的な誤りであり、すなわち国民を堕落させるものである、としか考えられない。そしてそのことが、現在の国家権力に対する私のどうしようもない不信の原因になっている。(1970.04.25記)