バートランド・ラッセルのポータルサイト
シェアする

森恭三「バートランド・ラッセルとの対談」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第4号(1966年5月)p.1((巻頭言)
* 執筆当時(1966年),筆者は,朝日新聞論説主幹。ラッセル協会発起人の一人。森恭三関係文書は,東大情報学環図書室で所蔵している。)



ラッセル協会会報_第4号
 私がバートランド・ラッセルと対談したのは,1957年の暮である。その翌年正月の朝日新聞紙上に掲載するのが目的で,速記のできる秘書をつれて出かけていった。ロンドンのテムズ川北岸の,典型的な中産階級のつつましいフラットである。氏はすでに数年来,ウェールズの片田舎に引込んでいて,そちらへ会見を申し込む手紙を出したのであったが,時々ロンドンヘ出てくるから,そのとき会ったほうが便利でしょう,ということであった。氏は貴族であり,田舎の屋敷は広大かも知れないが,ロンドンのフラットは下宿がわりに使っていたらしく,非常に質素なものであった。
 そのときすでに85才であったから,今日(=1966年)では94才という勘定である。その後,核兵器反対の街頭デモや坐り込みの先頭に立ったくらいであるから,私との対談当侍,こちらがびっくりするほど若々しい,張りのある声でしゃべったのも当然のことであったろう。私の語学力ではメモもとれぬくらい早口ではないかと思って速記の用意をしていったのであるが,その必要もなかったほど,わかりやすい,静かでゆっくりした話しぶりであった。
 科学の進渉にくらべて,政治は非常におくれています。人類破滅の危険をだれもが,痛感しながら,破滅の方向にむかって走っている。疑いと恐怖の悪循環を断ち切るためには,どうすればよいとお考えですか。
 唯一の方法は,世界政府をつくり,それに武力を独占させることです。各国は,国内治安を維持するための警察力をもたねばならぬが,他国を攻めるに足る武力をもつことは許されない。多くの人は,世界政府を夢だというが,紙のうえの協定によって平和が保てると考えるほうが,それこそ夢ではありませんか。力によって平和を築くことはできません。最初になすべきことは,善意をつくりだすことであって,それができねば,人類は絶滅するほかありません。

 しかしわれわれは,世界政府を夢みることもできないほど,はるかに低いところで悩み苦しんでいるのです。私はイギリスが核兵器の競争から手を引く模範を示してくれたら,進歩へのきっかけができるのではないか,と考えていました。
 私もイギリスが率先してそれを実現すべきだと思います。もちろん,核兵器をもつ国が全くなくなるといいのですが,これはユートピアでしょう。現在もっとも重要なことは,核兵器をもつ国をふやさぬことです。
牧野力著『ラッセル思想と現代』の表紙画像
 ラッセルがイギリス政府の国防政策に反対する不服従運動をおこし,国防省前で座り込みストをはじめたのは,1961年2月であった。その年の夏,日本では原水爆禁止運動が分裂した。最初は日本の原水禁運動に冷淡であったイギリス人が,スローではあるがねばりづよく核兵器反対の大衆連動をもりあげてきたとき,日本人はこの問題についての国際的影響力をみずから放棄するようなかっこうになったのである。
 ラッセルは,18世紀的な合理主義の真理と,19世紀的な自由主義の真理とを,一貫して叫びつづけてきた(1961.02.19:オブザーバー紙)といわれる。あえて20世紀といわぬ,このような評価には,イギリス労働党の多数派から離れてしまった老哲学者への,いたわりのひびきがある。それにしても,だれもこの理想主義者の偉大さを疑うものはいない。科学技術の発展とともにややもすれば見失われがちな人間性の問題を強調しつづけてきたこと,そして,科学技術を導くべき倫理というものを確立すべく努力しつづけてきた点に,その偉大さがあるであろう。
 ラッセルは,イギリス人としては非常に小柄である。この弱々しい老人の強い意思と,宗教的ともいうべき熱情は,永遠の青年といったものを感じさせる。また学問とはどんなものであるべきかを,その行動によって。教えてくれるような気かする。(終)