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[書評] 板坂元_Ray Monk's B. Russell: the Spirit of Solititude (レイ・モンク「バートランド・ラッセル」)

* 出典:『学燈』(丸善)v.94,n.1(1997年1月)pp.78-79.


 一九六一年のキューバ・ミサイル危機のころ、ミサイルが今にも飛び交いそうな恐怖感に、われわれは声をひそめて、ひっそりと日々を送っていた。その中で、テレビはバートランド・ラッセルが、ケネディ大統領とフルシチョフ書記長に電報を送ったというニュースを流した。緊迫した中で、私は思わず涙を流した。今世紀の生んだ最高の知性が、ついに世界の市民の良心と善意を救ってくれた、という安堵感を私は忘れない。
 レイ・モンクの『バートランド・ラッセル-孤独の魂-』)(B. Russell: the spirit of solititude, by Ray Monk. Jonathan Cape, 1996. 712 p.)はそういったラッセルの詳しい伝記だ。パートIは、出生から一九一四年まで、パートIIは、一九一四年から二一年まで、つまり一九七〇年に九十歳で死んだラッセルの前半生を詳しく辿つている。
 ラッセルは、自伝を何回か出版しているが、その中で読者の関心を魅くエピソードが、ラッセル一流のドライ・センス・オヴ・ヒューマーに満ちた文で紹介されている。モンクの本は、そういうエピソードを博捜して、読者の好奇心に十二分に応えてくれる。たとえぱ、ラッセルは第一次大戦に際して反戦のカドで投獄されているが、日本人のわれわれが同じころの治安維持法下の暗くて残虐な刑務所生活を連想するのと違って、彼はどちらかと云えば優雅でのんびりした獄中生活を送っていたことが分かる。自由に書物を持ち込んで、室内の掃除も同輩の囚人に金を払ってやってもらっている。
 あの『数理哲学序説』は、この刑務所生活の間に書かれたものだが、就役者の書いたものは所長が目を通して認可するという規則を逆手に取って、ラッセルは所長を困らせるために、わざとこの本を書いた、と伝えられている。「私はウソツキです」というギリシャ哲学以来のパラドクスを巧妙に解決したこの本を、所長が苦労して読んだに違いない。そういういたずらを淡々と実行するラッセルの姿はモンクの本の到るところに紹介されている。

 ラッセルは自伝のどこかで「私を理性的と評する人がいるが、完全な意味では私は理性的ではない。私は、愛と死に直面すると理性的ではあり得なくなる」と語っている。なるほど、彼の結婚と離婚、そして新しい妻との間に初めて子供が生まれたとき、彼は冷静さを失なったはずだ。彼は、ドストエフスキーの『白痴』の主人公に似たエクセントリックなところを持ち合わせていることを何度も繰り返して云っている。そういえぱ、妻ドーラを伴なって中国から日本に着いたとき、新聞記者のカメラのフラッシュに目が眩んで、ドーラがつまづきそうになった際、彼女が妊娠中であったせいでもあるが、ラッセルは、彼らを怒りの余り殺したくなったと書いている。大声で怒鳴ってステッキを振り廻して妻を守ろうとするラッセルの姿は冷静とか理性とは程遠い。それだけにラッセルの人間味がにじみ出ていると云えようか。
 モンクはまた、ラッセルの周囲の人々を活写している。ルードビッヒ・ヴィトゲンシュタイン、ジョセフ・コンラッド、D.H.ロウレンス、T.S.エリオット、メイナード・ケインズ、ルパート・ブルック等々、彼の周辺には素晴しい天才たちが輝いていた。もちろん『プリンキピア・マテマティカ』の共著者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドを忘れてはならない。
 思えば、夏目漱石がロンドン留学中にこういった知的エリートたちが、ケンブリッジや、ロンドンのブルームスベリー街を中心に活躍していたわけだが、われわれ日本人にとって大文学者に違いない漱石が、心なしかちっぽけに見えてしまうのはしかたないことかもしれない。
 モンクの本は、文献目録も索引も完備している。こういう伝記を読むにつけていつも感じることだが、日本の伝記書は、 欧米のそれと比べて非常に見劣りがする。中野好夫『蘆花徳富健次郎』とか小宮豊隆『夏目漱石』など、立派な本だが、欧米の伝記作家の業績は質量ともに日本のそれに比べて遥かに優れている。文化の違いか伝統の違いか、日本の伝記の卑小さを思うたびに、肩身の狭い思いをするばかりなのだが、何とかならないものだろうか。モンクは『ヴィトゲンシュタイン』を続けて出す予定のようだが、『ラッセル』を読みながら、私はしばしば頭をかしげたことだった。(板坂元:いたさか・げん/創価女子短期大学教授)