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ミヤザキ・ヒロシ「ラッセルとわが家の教育」(バートランド・ラッセル卿追悼) 

* 原著:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第16号(1970年8月)pp.3-4.
* 筆者は当時、民主教育協会事務局長


ラッセル協会会報_第16号
 古い話で、1933年に長男が生まれたときのことです。そのころ、ラッセルが、毎年のように出していた社会評論や教育論の本を待ちかねるようにして手に入れ、読みふけっていたわたくしは、「こどもは赤んぼうのときから、もう、親のかおいろをみる。その泣くのは、多くのばあい、苦痛のためではなくて、かまってもらいたいからだ」とあるのを読んで、なるほどと思ったのです。たしかに、子どもは、よく、外でけんかをして負かされたり、ころんで、ひざをすりむいたりしたときに、歯をくいしばるようにして家にかえり、家人のかおのみえるところ、家人に声のきこえるところで、ワッと声をあげて泣く。よし、それならば、その逆をいこう。心配そうなかおをして、子どもにそれを気どられるようなことはしないぞ、と決心したわけです。長男がひとり立ちして、つたいあるきができるようになったときのある日、ひるねからおきて、ベッドのわくから身をのり出して、ドタリとたたみのうえに音をたてておちたのですが、かけよることをひかえて、みておりますと、ふしぎに泣かないのです。泣かないことを見きわめてから、抱きあげてやりました。これに、ちからをえて、その後、手をひいて、そとの道をあるくようになったとき、また、ひく手をふりきって、ひとりで走ったりするときに、ころんでも、こちらは、子どもから目をそらし、かおをそむけて、「さあ、じぶんで立ちあがりなさい」と言って待っているようにしました。すると、手のひらに血がにじんでいるようなときでも、ひとりで立ちあがって泣かないのでした。また、生れていらい、くらやみをおそろしいと、おどろかされることのないかぎり、子どもは、くらがりをおそれるはずはないと思い、よる、くらい部屋の机のうえに、絵本がおいてあるから、とっておいでなどと、やらせたこともあります。これも、思ったとおりでした。毒物を口に入れようとしたり、けがをするようなことをするのでないかぎり、こどもは自由に、なんでも、することをさせておけとか、こどもを叱ることはいらない、ほめるだけでよいとか、ラッセルの言ったことで、つとめて実行したことが、いくつもあります。いずれも、わりあいに、うまくいったと思うのは、かれの言うことが経験にもとずいたものであったからでしょう。

 長男と、つぎの女の子とをつれて散歩に出たとき、道角で、ひとりは右へ、ひとりは左へゆくことを主張したことがあります。このときも、「おとうさんのからだは二つにわけるわけにはいかないから、どちらへいくか、ふたりでそうだんして、きめなさい」と、まんなかに立って待っていたこともあります。わたくしのうちでは、こどもに「べんきょうしなさい」と言ったことがありません。これは、かなり努力のいることでして、こどもにも、それがわかったとみえ、長男は大学を卒業したときに「おとうさんは、いちども、ぼくに、べんきょうをせよとは言わなかったね」と感懐を述べました。「ウン」と答えただけですが、なんだか、むくいられたような気がしたものでした。
 すえのむすめは、幼稚園のときから画の道具だけは、言うがままに買いあたえて、かいた画は、ほめることにきめておりました。幼稚園のときは、色数のいちばん多いクレヨン、小学校一年のときには、水彩えのぐから、油えのぐがほしいと言うのです。それが、とにかく、つづいて、高校のとき、「おとうさんは、わたしを画かきにしたいのでしょうが、ほんとうは、わたしは、動物学者になって、アフリカヘいきたいのだ」などと言っていましたが、「そうか、そうか」ときいているうちに、じぶんで画家への道をえらび、いまでは、なんとか、ものになりそうなけはいです。
 ラッセルは、こどものとき、おじいさんのまえで文章の暗誦をしたことを述べております。日高(一輝)さんが、ラッセルは手書きよりも、口述の文章が得意だったと、最近、書いていますが、わたくしはラッセルの名文のひとつの原因は、こども時代の暗誦の習慣だろうと思っております。ひじょうによいことだと感じながら、つい、これは、わが家では実行せずに、いまでも残念に思っております。