船が埠頭に近づいたとき、幟(のぼり)をおしたてた長い行列が行進してくるのが見えた。日本語が読めるものが驚いて言うには、それらの旗にはラッセル歓迎と書いてあったのである。・・・。私たちは始終フラッシュの光に追い掛けられ、眠っている姿までも写真を撮られた。京都と東京で、私に会いに来るようきわめて大勢の教授たちが招かれた。両地で私たちは極端にへつらったもてなしをうけるかと思うと、警察のスパイに絶えず尾行された。ホテルの私たちの隣の部屋はいつも、タイプライターを持った大勢の警察官に占領されていた。ホテルの給仕たちは、私たちをあたかも皇族であるかのよううに取り扱い、部屋から出てゆくときは後ずさりするという具合だった。私たちはよく、「この給仕めが!」と言ったものである。すると直ちに、警察官のタイプがカチカチ鳴り出すのだった。私のために催された教授たちのパーティーでは、私が誰かと少しでも活気ある会話に入るやいなやフラッシュをたいた写真を撮られるのが常で、その結果、会話はもちろん中断されてしまうのだった。ここにはまず、著名な社会主義思想家を熱狂的に迎える労働者の一群がいる。つぎに、とにかく世界的に有名な哲学者だというので朝に晩につきっきりで写真を撮りまくるジャーナリスト、カメラマンの一群がいる(実際ラッセル滞在中には各新聞が、彼の動向の一々-(大阪に着いた、労働演説会に現われた、誰々に会った、帝国ホテルに着いた、帝劇を見物した等々)-を多くは写真つきの記事にしてほぼ毎日報道していた)。また次に、反戦運動と共産主義に関わった外来の危険人物を露骨に警戒する官憲の目がある。そしてまた、純粋に学者としての興味で会見に臨んでくる教授・思想家たちがいる。そして最後に、何でも英国の偉い貴族さまだそうだというので「極端にへつらって」もてなす庶民たちがいる。
彼れが横浜の埠頭に上った時に新聞記者の連中が一斉にレンズを向けてマグネシュームを燃いた。由来マグネシュームが大嫌いな彼れは之れを止め様と試みた。然し職業柄記者の連中は、一切関係なしにドシドシ燃いた。ためにラッセル及び其の一行であるブラック嬢並にパワー嬢は白煙の為め苦しい様に見ゑた。茲に於て彼れは生来の短気が爆発して彼れの所持してゐるステッキで写真班を散乱せしめんとし、其れでも聞かざる時に彼れは憤怒の余り'You Beast!' と叫んだそうである。……写真班の人々は決してラッセル及び其の一行に対して悪意を持ってやったわけはない。……其れに「此の畜生!」は少しひどい申分である。……これが為めにラッセルは横浜のホテルに入り、かくの如き無礼の新聞記者の存在するからには東京へは行かない。横浜からすぐ帰国すると頑張つたと云う事である。流石は英国の由緒正しい貴族の仲間に発育して今迄我儘勝手に振舞っただけに随分思切りのよい事ではあるが、我々から見ると如何にも御坊ちゃん気分に思われる。なるほど単純ではあるが、西欧人の不覇奔放に対する当時の日本人、いや日本国の反発を典型的に示しているようで興味深い。マグネシュームのフラッシュといえば現在のストロボライトに比べ白煙を発するなどの分さらに攻撃的な光景を呈したに相違なく、そうした包囲攻勢に対し殺意をもって応ずるラッセルの図は、大戦後の動乱さめやらぬ国際情勢の縮図であるともいえようか(ラッセルはこの時の自分の気持ちを、「ベンガルの有色人叛徒にとり囲まれたインド在住英国人が抱いただろう感情」と記述している)。
…・僕は、実ははじめてあの帝国ホテルと云ふ建物にはいったので、ちよっと面喰ってもゐましたよ。こわごわ玄関にはいって行くと、とっつきの広いホテルのあちこちに、日本 人だか西洋人だかがごちゃごちゃゐるんでせう。……誰も知ったやうな顔は見えませんしね。仕方なしに、ずっとはいって行って見たら、改造社の誰れだかにつかまったのですよ。..…すぐ隣りの室に案内されて行くと、…殆んど知らん顔はかりが集まってゐて、……ぼんやりしてゐる間に、『どうぞあちらへ』と一つの椅子のところへ導かれて、そこでラッセルと向ひ合ひになって、……座ると直ぐ、十幾人かの写真屋が代る代るボンボンやるので、ラッセルは例の口の両角に濃いくまを見せて、「堪りませんな」と云ふやうな意味の事を、其のボンボンのたびに目をつぶっては云ってゐました。ことさらに軽く書き流している感じで、深みに立入ることを慎重に抑制しているようだ。甘粕事件に遭う二年前の大杉にとっては、こういう席への出席も命がけであったのかもしれない(因みにラッセルは自伝に、Ozuki(ママ) と Miss Ito が憲兵に殺害された事件について怒りと悲痛の情をこめて述べている)。帝国ホテルでのこの会見は、大杉のほか堺利彦や石川三四郎のような人々が呼はれていたために多くの警官が派遭されて内外を警戒していたという。さらに加えて、大杉が書いているように近距離からのカメラマンの干渉が頻りで、落ち着いた論議はどうも行なわれなかったようである。それでもこのような会見の場が少なくとも一つの意義を持っていたことが、例えは「殆ど知らぬ顔ばかりが集まっていた」という大杉の何気ない報告から、見てとれるような気がする。つまり、今日以上に階級分化していた学界、普通ならほぼ繋がりのないアカデミズムの学者たちと在野の思想家たちとが、ラッセル来日のような出来事に遇って初めて顔合せをし、日本思想界が統一的に交流する可能性が与えられた-そういうメカニズムがここにチラリと示されているだろう。
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