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またラッセルは、女性に対する日本人の態度を具体的事例に即して批判したりなどしている。しかし日本での最大のエピソードは、七月二四日、京都から十時間の汽車旅で午後七時半に横浜に着いたときの出来事だった。横浜駅につめかけた写真班がマグネシウムを一斉にたいたので、妊娠中のドーラが気分が悪くなって転倒しそうになった、ラッセルは心配してフラッシュを止めさせようとするが一向にきかない、それでラッセルは激怒して、ステッキを振り上げてカメラマンに殴りかかったのであった。私たちは始終フラッシュの光に追いかけられ、眠っている姿までも写真を撮られた。(中略) 京都と東京で極端にへつらったもてなしをうけるかと思うと、警察のスパイにたえず尾行された。ホテルの私たちの隣りの部屋はいつも、タイプライターを持った大勢の警察官に占領されていた。ホテルの給仕たちは、私たちをあたかも皇族のように取り扱い、部屋から出てゆくときは後ずさりするという具合だった。私たちはよく、「この給仕めが!(Damn this waiter!)」と言ったものである。すると直ちに、警察のタイプがカチカチ鳴り出すのだった。私たちのために催された教授たちのパーティでは、私が誰かと少しでも活気ある会話に入るやいなやフラッシュをたいた写真を撮られるのが常で、その結果会話はもちろん中断されてしまうのだった。(vol.2,p.134)
あのときの私の感情は、ミューティニイに際して、(中略) 有色人叛徒にとり囲まれたインド在住英国人が抱いたに違いない感情と同じものであった。そのとき私は、異人種の手にかかって害を被ることから家族を護る欲求は、人間の持ちうる感情のうち最も激しく熱情的なものであろうと実感した。(p.135)ここで、ミューティニイは、一八五七年のベルガル原住民の暴動をさす。確かにこの連想は、国際的なヒューマニストであるラッセルの、極東における必然的限界を示しているのかもしれない。
私たちの恋にとって、私たちの家だけでなく街全体がロマンティックな環境だった。えもいわれぬ美しい宮殿や寺院が、輝かしい太陽や清澄な空にくっきりと浮びあがり、通りの生活は色彩にみちていて、駱駝さえもみられるこの北の寒く乾いた砂漠が奇妙さを添えていた。(中略) 次第に大きくなってゆく愛情と親密さの中で毎日を送っていたというばかりか、私たち二人の心は有頂点の状態だった。(Dora Russell(1894-1986), The Tamarisk Tree, Elek Books Ltd, 1975, pp.123-123)
外国人の中国にたいする印象についていえば、中国を讃美するのは、中国に二、三十年も住みついた外国人か、あるいは、ひとたび中国にくるや中国の文化がヨーロッパやアメリカよりすぐれていることを見ぬく大きな眼光をそなえた偉大な哲学者ラッセルは例外である。ふつうの外国人は、きまって中国人は教養のない野蛮な連中だという。(中略) 外国人で、中国をひと目みて、中国の文明がわかるものは、ラッセルのような大哲学者以外にはない。(安藤彦太郎訳、岩波文庫、昭和三二年、上巻一二五、一二八頁)かくして、ラッセルと中国との邂逅が美しき一つの詩、あるいはドラマであったとすれば、日本とラッセルとの出会いはタイミングの一段ずれたコメディであったと言ってよいかもしれない。
中国にやってきた人で、中国を憎み、考えただけでも頭が痛くなり顔をしかめたくなるといえる人があったら、私は心からその人に感謝を捧げるだろう。なぜなら、そういう人は決して中国人の肉を食うことを欲しない人にちがいないからだ。(中略) 外国人のうち、知らずに讃美しているものは恕(ゆる)せる。高位におり、贅沢に暮らしつけているために、惑わされ、霊知がくもってしまって讃美するのも、まだ恕せる。しかしその外にまだ二つある。一つは、中国人は劣等人種であって、従来のままの有様でいるより外に能がないと考えるところから、故意に中国の古いものを賞める人々である。もう一つは、自分の旅行の興味を増すためには、世界各国の人々がそれぞれ異っていて、中国に来れば辮髪が見られる、日本に行けば下駄が見られる、朝鮮に行けば笠が見られる、という具合であるのが望ましく、もしも服飾が同じだと、さっぱり面白味がないとあって、アジアの欧化に反対する人々である。これらはいずれも憎むべきである。ラッセルが西湖で、轎夫(かごかき)の微笑を見て、中国人を讃美したのは、別に考えがあってのことかもしれない。しかし、轎夫がもしも轎に乗っている人に微笑を向けないでいられたら、中国もとっくに今日のような中国ではなくなっていたろう。(「灯下漫筆」一九二五、松枝茂夫訳、岩波書店『魯迅選集』第五巻、一八六-一九〇頁)のちに、ラッセルの娘キャサリン・テート(1923~)は、「父は貴族で、自分は優越者であると考え、その優越性をより不運な人々を救うための義務としていた。父は人が生れつき能力的に平等と考えたことはなかったし、愚かな人、無知な人、偏見をもった人には、彼らを救うために一生を捧げようと心から思ってはいたものの、決して気を許しはしなかった」(10)。-と書いているが、このキャサリンの観察を個人(階級)から国家へと転じてみるならば、右の魯迅の疑惑になるわけである。
二人はお互いの愛を信じてはいたが、深刻な意見の相違を気にしながら中国に着いた。そこで二人はただちに、自分たちがそれまでに知っていたどんなものよりも遙かに異質な環境にいることを発見したために、必然的に、自分たちを対立させているものよりも自分たちが共通して持っているものの方に気づくようになった。(キャサリン・テート前掲書,p.53)そうしてみると、二人の意見が中国の家具についてなり国民性についてなりすんなり一致してしまったというのは、その環境への彼らの理解が表面的であったことを逆証しているとも言えるのではないだろうか。
中国は二人の意見が対立しなかった少数の事柄の一つだったようだ。(Ibid., p.55)
毎分が苦しみと疑惑で過ぎていき、私は殆ど眠りませんでした。(中略) 彼には私の顔だけがはっきりしていて、他の人の顔はぼやけていたり、刺(とげ)だらけのように見えたそうです。(中略) 彼は、どのスプーン一杯にも彼を救おうという私の鉄の意志が溢れているのを感じたので、彼も自分の役を果たしたのだ、と言いました。何物も私たちを挫くことはできないと感ずるのは、本当に素晴らしいことでした。(Dora Russell, Op. cit., pp.316-317)ここで、中国の冬の大気に襲われて倒れたラッセルを献身的に看護するドーラの姿は、四ヵ月後に横浜駅でラッセルが、身重のドーラをかばって日本人カメラマンの攻勢に反撃した姿の、正確な反転図として、ぴったり重なり合うだろう。ラッセルとドーラの共同の闘いと愛の確認深化を促した重傷肺炎は、まさしく異質な東洋からの圧迫の象徴ともみえてくるのである。
ラ君の正午ホテルに着くと其処に各新聞社の写真班が伏兵のやうに現れたがラ君は「何故私が写真に取られなければならぬのか」といつて却々(なかなか)肯かない、食卓でアレは西(ウェスト)から来た慣習を日本でやりだしたのに過ぎないと私が云つたら、ラ君は笑ひながら「其通りでしやう併し師匠よりは日本の方が余程上手です」といつて居た、(『大阪毎日新聞』大正十年七月十九日朝刊)ラッセルの勘にさわった悪しき日本は、やはり、西欧文明の落し子だったわけである。とすれば、西欧原理の伝導をもって任じるラッセルが手放しで古き中国を賞賛しえなかった筈なのと同様、この理由から、イギリス人の自意識を離れては、日本を単純に批判することもできなかった筈である(14)。
日本人は、外人さへ見れば親日化しようと努める。日本をありのままに見せてありのままに評価させようとはしない。(中略) 吾人の要するは薄つぺらな、物欲しさうな親日外人でない、心から底から日本を憎み日本人を憎む外人である。願はくはラッセル氏を親日化する勿れ。それは日本の損失である。尤も御注文にも及ぶまいが。(大正十年七月二十六日二面)これは当時のアジアから欧米への心理の典型といえようか・先ほど見た魯迅の言葉に相当するものである(17)。ただ日本ではこれが、中国でのように深い一種うめき声として出てくるのではなくて、ちょっとベタ記事などに見え隠れしているにすぎない。が、いずれにせよ、ラッセルが日本を「憎」んだとしても、それは彼が日本を「ありのままに」見たからとは必ずしも言えないわけである。ラッセルの眼差は、あくまでよきイギリスと悪しきイギリスの像へと注がれていたように思われるのだ。「極東にいるイギリス人で日本人の方が中国人よりも好きだという人にはまずお目にかかったことがない。」-『中国の問題』の中のこういった文章(p.199)も、おそらくは事実を平叙してもいるにせよ、それ以上に、英国国民性への説得文の色彩が強かろう。第1節にわれわれは、大正日本はラッセルを刺激剤として自己のアイデンティティを探っていたのみだと述べておいたが、それと同じことをラッセルは、極東を反射鏡として無意識に行なっていたわけである。これは、当時のコスモポリタニズムの限界を表わしているだろうとともに、まさしく西洋原理の進歩史観が転換を迫られはじめたあの危機の時代において、東西文化の出会いが示しうる本質的必然的な様相に他ならなかったと言えるのかもしれない(18)。