法廷も警察も私が望める以上に優しく振舞った。裁判が始まる前、一人の警察官が私たちの座っている狭い木のベンチの苦しさを和らげるために、私の腰に当てるクッションを探しまわってくれた。それに対して私は本当に感謝した。クッションは一つもみつからなかったけれども、彼の骨折りを私は嬉しく受けとった。ラッセルは、手加減されることを拒否した。ラッセルは第一次大戦中、一九一八年に反戦活動の廉で(領土防衛法違反)すでに一度投獄されているが、戦時下ならぬこの六一年には彼は、もはや体制にとって現実的脅威となる壮年の危険分子ではなかった。尊敬され労(いたわ)られるべき老人であったのだ。「私はわざと罰を受けていたのだった」というのは、ソクラテス的な逆説的服従の姿勢を示しているわけだが、二十世紀のイギリスは、古代アテネに比べて遙かに情け深く、学識名声ある老人を大切にする国だった。弁護団と医師団の供述書が通って、二か月の刑はただちに一週間に切り替えられたのである。
二か月の判決が私に言い渡されたとき、「シェイム、シェイム、八十九歳の老人だぞ/」という叫びが傍聴席から起こった。私はその叫びに腹が立った。それが好意から出ていることは私にもわかっていた、しかし私はわざと罰を受けていたのだったし、いずれにしても、有罪かどうかということに年齢が関係あるということは納得しかねたのである。
彼は党員証をポケットから取り出すと、ゆっくりとそれを四つに引き裂き、そして紙片をテーブル上に投げつけた。彼がテーブルから離れると、狂喜した聴衆の拍手喝采が爆発して、数分間にわたって続いた。誰かが「紙片を上に掲げて新聞記者にみせてやれ!」と叫んだ。ラッセル卿は言われた通りにした。さらに聴衆は彼に党員証をもっと破らせようとしたが、ラッセル卿は四つの紙片を高く掲げるだけで終った。もっと破れと叫んだ人々の意識は、面白がってドン・キホーテをまわりから焚きつけて狂態を演じさせた人々の意識に似ているとともに、基本的にはやはり、ドン・キホーテに無心に従う忠実な従士サンチョ・パンサの心理だったと言えるだろう。
ドン・キホーテ | = ラッセル |
黄金時代 | = ヴィクトリア時代 |
騎士 | = 哲学者 |
ドウルシネーア姫 | = 人類 |
サンチョ・パンサ | = ラッセル平和財団 |
霊水 | = 経験主義論理 |
幻術師 | = 政府首脳 |
巨人 | = 核兵器 |
政治的議論において倫理的考慮に訴える必要があるのはまれである、なぜなら、利己主義も啓発されたものになると、一般的善に則って行動するよう、十分に動機づけてくれるものだからである。(ラッセル『倫理と政治における人間社会』)この「啓発された利己心」という思想の特色は、'利己心'という一見非道徳的な原理に強く訴えることにより、惑乱した人々の目を醒まさせようとするところにある。しかし、この啓蒙思想の真のポイントは、核時代においては競争よりも調和の方が実際有利であるゆえに、利己的存立の欲求に本当に従って行動すれば、それは愛や人道にもとづいた行動と結果的には一致することになろう、という、願望にも似た洞察にあることは明瞭だ。ラッセルは『自叙伝』まえがきにおいて、「単純ではあるが圧倒的に強い三つの情熱が私の人生を支配してきた」と言い、それは「愛への熱望、知識の探究、人類の苦悩に対する耐えがたい憐憫の情」であるとしている。そこにみるように、「啓発された利己心」の説教の、真の動機も、愛と憐憫につながる理想主義的な情緒であったに違いない。しかし、直裁に愛や人道を叫ぶだけでは間に合わぬ 状況を核兵器が生み出したと感じたラッセルは、全滅は万人の利己心に反する、という信念にもとづいて、人々の利己的知性への訴えを人道主義的理想のために利用しようとしたわけである。
現在では、世界を統一して戦争を全く廃棄すること、貧困を一掃することが、技術的に可能だろう。こうしたことは、人間が敵の悲惨よりも自分の幸福を望むときに実現されるであろう。(『記億の中の肖像』1956)
理想主義的な動機だけでなく、最も素朴かつ執拗な自己本位の動機も、東西両陣営は問題を戦争の脅威によって解決しようとすベきでないということを至上命令とするのである。(『常識と核戦争』1959)
戦争で殺される恐れのある若い人たちが、人生のよきさまざまなものを欺しられたという苦い感じをもつのは、当然だろう。しかし、人間の悲喜こもごもを知り、なすべきあらゆることを仕遂げた老人の場合には、死の恐怖はなにか卑しく恥ずべきことである。死の恐怖を征服する最良の法は、自分の関心を次第に広汎かつ非個人的にしてゆき、ついには自我の壁が少しずつ後退して、自分の生命が次第に宇宙の生命に没入するまでにすることである。個人的人間存在は河のようなものであろう--最初は小さく、狭い土手の間を流れ、烈しい勢いで丸石をよぎり、滝を越えて進む。次第に河幅は広がり、土手は後退して流れはゆるやかになり、ついにはいつのまにやら海へ没入して、苦痛もなくその個的存在を失う。老年になってこのように人生を見られる人は死の恐怖に苦しまないだろう、自分の気にかけ育む物事が存在し続けるのだから。そして生命力の減衰とともにものうさが増すならば、休息という考えはむげに斥けたものでもないだろう。(『記憶の中の肖像』1956 所収)これは確かに、無私の広大な視野を獲得した老賢人にふさわしい言葉だと言える。しかし-果してラッセルは、この文章通りの平穏な晩年を送れたのであったろうか。右に描かれた河と海のイメージ(そう、なにか老荘的な美しさを秘めた神秘的とも言えるイメージ……)に注意されたい。ところが現実には、死して没入すべき海、つまり人類の普遍的生命そのものが核戦争によって消滅しようとしているのではないのか。ここに老いの安らぎはありえない。逆にラッセルは、自分自身に残された余命が少なくなれば少なくなるほど、人類に残された年数も等しく少なくなりつつあると感じ、怯えたのではないだろうか。ラッセルは純粋な非利己主義者だったのではない、人類に生き続けてほしいというラッセルの願望は、彼の利己心そのものだったのではないだろうか。
私は、傑出した人物から構成される厳粛な裁判を開催するのは必要だと信じています.これらの人物は権力によって傑出しているのではなく、私たちが楽天的に「人類文明(human civilization)」と呼んでいるものに対して、知的道徳的に貢献している程度によって傑出しているのです。もしも文明がはかない幻想以上のものであるべきだとすれば、文明にひたすら貢献しようと努力してきた人々が、文明の名において語る権利、および文明を擁護する権利を主張することは許されるべきです。(「ラッセル平和財団日本資料センター・資料」n.5:一九六六年十二月十二日、より部分的に訳出)つまり、ラッセルの活動は、人類への義務であるだけでなく、きわめて正当な権利であり一種利己心の発動だったのである。右の声明の趣旨はそのまま、この「ラッセル法廷」の十二年前にノーベル賞級科学者十一名の署名を付した「ラッセル=アインシュタイン宣言」や、それに続くパグウォッシュ世界科学者会議の意識でもあったろう。
悲観論者は論ずるかもしれない-なぜ人類を保存しようと思うのか。悩みや憎悪や、今まで人類の生活を暗黒にしてきた恐怖やらの、莫大な重荷を終らせる見込みがたって、われわれはむしろ嬉しくはないだろうか? 苦痛と恐怖の長い悪夢の終末にきて、ついに平和となり、静かに眠れるこの地球の新しい将来を、歓びをもってじっと見つめようではないか? と。しかし、悲観論者は、真理の半分を持っているにすぎない、そしてそれは私の心にとっては、重要性の少ない方の半分である。人間は、残酷と苦悩に密接に関わる能力を持っているばかりでなく、偉大さと素晴らしさの可能力をも持っている。人類が合理的に幸福を望むならば、貧困・病気・寂寥は、ごくまれな不幸となるだろう。現在あまりに多くの人々が悲嘆に暮れさまよっている恐怖の闇は追い払われるであろう。進歩の発展につれて、現在はごく少数の優越者の輝かしい特質であるものが多数の人々の共有となりえよう。こうしたことは、われわれの前途に横たわる幾千世紀の間に可能であり、また事実ありそうなことなのである。悲観論者には耳を傾けまい。もしそうするなら、われわれは人類の未来への叛逆者になるからである。(『人類に未来はあるか?』1961)そう-あたかもドン・キホーテにとって、立ち寄る街道宿のことごとくが城であり、行き会う女すべてが美姫貴妃であったように、ラッセルにとってこの世界は、悲観論者には想像もできないほど輝かしく価値高いものでありえたのだ。理想家の目には全てが輝いている。しかもラッセルの場合は、世界の美化は、ドン・キホーテにとってのドゥルシネーアのごとく永久に手の届かぬ憧れのようなものにはとどまらない。覚醒した名士の目には、全てが親しく触知しうるもの、わがものである。だからラッセルは第一になによりも自分のために、人類滅亡を避けたいと思ったのである。こうして、ラッセルの反核平和運動の根底にあるのは、紛れもない利己主義である。しかるに、既にみた彼の「憐憫」の情、利他的慈愛の精神もそれはそれで確かに本物である。ラッセルにおいては、利己心と利他心とが全く同じ目標・同じ対象に向いている、つまり融合していると言えるのである。ここまででわれわれは、反核平和運動という舞台に作用している利己心の、三つの相を切り出すことができた。まず、端的に私は死にたくないという青年・民衆の利己心。次に、そうした民衆に憐憫を覚え、彼らの利己心を啓発鼓舞しようとする老聖人の理想主義的な利他心。そして三番目に、人類の生命を自己の生命と同一視する、文明所有者の利己心である。この三番目の利己心を、人類との融合を表わすあの河と海のなにか神聖なイメージに因んで、私は、「聖なる利己心」と名づけてみた。以上三つの利己心利他心のうち、後の方の二つがラッセルに顕著にみられるものなのである。
私の人生は、一九一〇年の前と一四年の後では、はっきり違っていた。それは、メフィストフェレスに会う前と後のファウストの人生と同じであった。私はオットーリン・モレル夫人によって回春を味わい、それが世界大戦によって持続させられた。戦争が人を若返らせるとは奇矯に聞こえるかもしれないが、事実、その大戦は、私に新しい種類の活動を始めさせてくれた。この新しい活動に対しては、数理論理学に立ち返ろうとするときいつも私を悩ませていたあの味気なさを感じることがなかった。ラッセルは確かに、ファウスト的人間である。一九〇〇年からまる十年にわたる苦闘の末二千ぺージに及ぷ『数学原理(Principia Mathematica)』を完成させるとともに数理の専門的探究からさっぱりと足を洗ったラッセルは、まさしく学問と知識では世界の理法を認識しえないと失望したファウスト博士である。
当局がぼくに対して同情をよせるような兆しがみえます-ちょっと残念な気がしますがね! 自分が真に求めているものを妙なことで発見することがあるものだし、またそれが常にとても利己的なものだというのも妙なものです。ぼくが永遠に求めてやまないのは、意識はしていないがたぶん心の底の方では-刺激です。即ち、ぼくの頭脳を活き活きとさせ、元気旺盛ならしめておくようなものです。蓋しそれは、ぼくを一箇の吸血鬼たらしめるものなのです。ぼくは成功という本能的感情から最も刺激を得ます。失敗はぼくをだめにします。このラッセルの「吸血鬼」的な性格は、実際、晩年の反核平和運動にあっても見出されるのである。九十歳誕生日直前、一九六二年五月十三日付『オブザーヴァー』紙に彼はこう書いている、
私はかつて、老年に達したら、世界から引退し優雅な文化生活を送ろうと考えていたものである。どのみちそれは、怠惰な夢であったろう。重要であると信ずる目的を抱いて働く、という長年の習慣を破ることは難しい。それで私は、たとえ世界が今よりも良い状態にあったとしても、優雅なレジャーを退屈だと思ったことだろう。それがどのようなものであろうとも、私は、起こりつつあることを無視することは不可能だと思う。(イタリック筆者)これは、ゲーテのファウストが語る言葉、「もし私がのんびりと寝椅子に手足でも伸ばしたら、もう私もおしまいだ」という言葉と比べることができるだろう。重要なことは、外(ソト)の悪如何ではなく自己の内の行動欲求如何だというわけである。
自分の哲学がしばらくのあいだ世にもてはやされたあと、時代遅れだと捨てられるのを見ることは、必ずしも愉快な経験ではない。この経験を上品に受け入れることはむずかしい。それだからラッセルは、些か(いささか)上品ならざる平和デモに挺身したのだろうということが、これは決して茶化しではなくして、言えるかもしれない。ラッセルは平和運動家として自らを開いたとき、それとは対照的に、哲学においては彼は自らを閉じ、もっぱら自己の哲学のみを回顧的に気遣いはじめたのであって、若い頃『哲学の諸問題』(一九一二)などでさかんに行なったような、哲学そのものへの省察も消えた。ファウスト博士の生への失望も、あの作品の宇宙的規模の拡がりから推測されるように世界の奥深さに対する'学理そのものの弱さ'を思い知ってのことというよりは、単に自己の学理技術の挫折への苛立ちによる方が遙かに大きかったはずである。真の事態は、徹底的に個人的である。学理と世界とどちらの方が奥深いかはもはや問題ではない。
ファウスト | =ラッセル |
学問 | =理論哲学 |
ワーグナー | =オックスフォード学派 |
神の恩寵 | =人類の理性 |
メフィストフェレス | =第一次世界大戦 (以後の戦争・核戦略) |
地獄 | =核戦争 |
憂愁 | =ビキニ水爆実験 |
賭の言葉 | =世界政府樹立 |
(第1節末尾の対照表と比較されたい) |
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