松永芳市「バートランド・ラッセルの『変り行く世界に対する新しい希望』によせて」
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第10号(1968年4月)pp.10-11.
* 松永芳市:当時,ラッセル協会監事
* この一文はラッセルの New Hopes for a Changing World, 1951. に関係したエッセイ
現代は無宗教,無道徳の時代か? 宗教には現世利益を説くものもあるが,多くは死に関係があり,人間は死んでも霊魂は不滅であり,現世において神又は仏を信じ善行を積まなければ,後世において苦しみを受ける,現世の苦しみは,後世において極楽又は天国へ至る道である,と説く。そして教祖の言を絶対の真理として,それを人間生活の基準とする。一方道徳は,死後に霊魂が残るかどうかは説かないが,現世における人間の行動の規準を善悪に置き,人々に悪をやめ善を行うことを勧むるのである。これが宗教ないし道徳に対し従来多くの人々が懐いていた概念である。
過去において,盛んであった宗教なり道徳なりは,それぞれの時代の社会情勢を背景として起ったものであり,人類に多大の影響力を与えたものが少くない。その最たるものは仏教と基督教(キリスト教)と儒教(松下注:「イスラム教」も)であろう。しかし釈迦,基督,孔子らが如何に偉大であろうとも,その教えは,それぞれの時代の産物であり,社会情勢が過去二,三世紀以来の科学の進歩と物質文明により著しく変っている現代においては,その中に適切でないとされる部分が少くない。人類愛の尊いことを説いている点は昔も今も変らぬ真理であろうが,方便として説いた部分には,現代に適切でないものが相当にある。仏教で,西方十万億土に浄土ありと説いたり,基督教で,天国を空中にありとし地動説の否定をしたり,儒教で封建的な君臣関係を説いたりしている点はその一例に過ぎない。
その結果,過去の時代に偉大な権威を持って,人間の行動を支配し相当の効果を挙げたそれらの宗教ないし道徳は,現代人の間にその権威を失墜し,それらは既に死滅したと考える人も多くなって来た。現代人の中には善悪正邪を区別する標準を失い,「正邪というものは古代の迷信以上のものであるかどうか」という疑問を持つものが多くなった。人々は「独力でかような問題を解決しようと試みたとしても,その余りにも困難なことを知る」だけであった。かくて多くの人々は「自らの追求しなければならぬ目的の明確なもの,自らが導かれねばならぬ生活上の原理の明確なものを少しも発見し得ない」というのが現状であり,今や世を挙げてフーテン族になりかねないありさまである。世界は無宗教・無道徳の時代に突入しているのではあるまいか?
それにしても人間は,か弱い存在である。溺れるものは藁をもつかむとか。何かしら頼りになるものに頼りたいとひたすら希うのが人間である。そうした人間の弱味につけこんで,現代に偉大な勢力を張ったものが幾つかある。それは新興宗教である。広い意味での新興宗教の中には,第一次大戦後に極度の不振におちいったドイツとイタリーに生じたヒットラーのナチズムとムッソリーニのファシズムがあり,マイン・カンプやムッソリーニの自叙伝などはその経典であった。この二つが強大になり遂に第二次大戦を惹起するに至ったことはわれわれの記憶に新たなところである。一方,マルクス主義も第一次大戦後,世界の不況または未開発の地域に非常な勢いで蔓延した。マルクスは一八四〇年代のイギリスの工場労働者の悲惨な状態を見て資本論等を書いたといわれるが,その資本論等がこの主義(宗教)のバイブルである。その後その信徒の中にも百年を経過する間に若干の修正を要すると見る人が生じた。その人々は,もとの仲間から修正主義者と名付けられ,両者の間に激しい闘争を展開することになった。中共(中国)では,毛沢東一派が修正主義反対を強く打ち出してソ連を攻撃Lているが,毛沢東自身,今や一種の新興宗教の開祖となり毛沢東語録はその経典とされ,中共の人民で少しでもこの語録と違ったことを言えば強い批判にさらされているのが今日の中共である。
日本の'明治百年'に対し,若い人々がいろいろ批判をしているが,明治・大正の時代には国民生活の上に一つの原理があった。それは日本精神ともいわれていたが,儒教から来た忠孝一本の思想に,神道ないし仏教の精神をとり入れたもので,教育勅語の中に,普遍の原理として大綱が示されていた。この日本精神が一般に正しいものと考えられ,深く信じられていたことが,日本を短期間に興隆させた原因の一つであることは疑いを入れぬ。バートランド・ラッセルはいう「安定した社会が持っている原理は外部から見れば馬鹿馬鹿しく見えるかも知れない。しかしその社会が安定をつづけている以上は,主観的には適切なのである。換言すれば,その原理はほとんどすべての人々によって何らの疑いもなく受け入れられており・・・はっきりと行為の規則をなしている。」と。こうした原理が日本において第二次大戦の敗戦を契機として失われてしまい,人々は右往左往しているのが現状である。そしてその隙に乗じて盛んになったのが,マルクス主義という新宗教と,創価学会等の新興宗教である。
人生を酔生夢死に終ることをもって足れりとするフーテン族にはなりたくない。人生にある目標をおいて何かしら生きがいのある人生を送りたいと真面目に考える日本人も少くない。そうした人たちのために新興宗教のように偏狭でない,何人にも受け入れられるような原理はないであろうか? これに対しバートランド・ラッセルは,『変り行く世界に対する新しい希望』の中で「私はここに一つの考え方なり,感じ方なりのあることを,わかってもらいたいと思う,その考え方,感じ方は別の方向(例えばマルクス主義とか創価学会とか,筆者註)に訓練されていない人々にとってはむずかしいものではない。・・・良き生活というものは幸福な生活である。・・・幸福な人は善い人になれる。・・・幸福な人は隣人を羨みもしないし,したがって隣人を憎むなどということもない。・・・われわれ自身の幸福は他人を苦しめることによって達せられるものではない。そして幸福も幸福を求める手段も他人との調和の上におかれるものである。・・・このことを理屈として単に了解するだけでなく,深く信ぜられるときにはじめて,自分自身にも他人にも等しく幸福をもたらすような生活をすることが容易になるであろう。」と説き,こうしたものの考え方なり,感じ方なりをすることが人生に希望を持たせることになり,世界平和への道となることを,現代の科学と過去の史実と自已の経験とに基づいて詳しく,その秀れた説得力を縦横に発揮して説明を試みているのである。
人生の目的は,明治時代の若者のように,大臣・大将になるとか,大実業家になるとかいうことでなくてもよい。正しい意味での「幸福な人」になり,そして他人を--出来るだけ多くの他人を--「幸福にする人」となるところに生きがいが感じられるようになることこそ,望ましいと思う。ラッセルは幸福は利已的であるよりも,寧ろ利他的であることにより,他と競争するよりも協力することにより達せられると説いている。『変り行く世界に対する新しい希望』のご一読をおすすめする次第である。(本会監事)