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松本重治「笠君と日米関係」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第10号(1968年4月)p.3
* 松本重治(まつもと・しげはる,1899-1989.01.10):当時国際文化会館理事長,1976年に文化功労者。


ラッセル協会会報_第10号
 笠君が急逝されてから,友人の一人としての私の淋しさは,日一日と増すばかりである。淋しさを消すよすがとして,笠君の著書をときどきひもといている。とくに旅行のときなど,笠君の本は,読み易いうえに,活字も大きく,たのしいよき読みものである。
 私は,笠君の『日本の姿勢』を再びよみかえす機会を最近もった。そしてとくに感じたことは,笠君が,日米関係のあるべき将来について,心を砕いていたことであった。アメリカの友人たちのなかでも,笠君は反米であったと決めてかかる人が少なくない。反米という意味が何を意味するかはいろいろであるが,笠君の真意は,左に摘記する十数行でよく現われている。
「アメリカの日本に対する作用は,実は,日本そのものに対する米国の政策から来るばかりではなく,米国の対中国,対台湾その他(対ソ連など-筆者注)の世界政策が,むしろそのまま,日本に響いてくる。
 それはともかく,日本のもつむつかしい国際関係は,ほとんどがアメリカとの関連の中にも立っているといえるほどである。そしてそれがすこぶる複雑だというのは,現在の日本の状況が,アメリカに負うところすこぶる大きいと同時に,またアメリカの責任に帰さるべき部分も甚だ大きいからである。
 しかし過去を問うても致し方はあるまい。いずれにしても,日本はいまの状況から脱出してその姿勢を正すことであるが,そのためには,やはりアメリカとの最もよい関係のなかで,はじめてこれを達成することができるように思われる。」(一四一頁)。
 笠君は,ジョージ・ケナン氏の米ソ共同で日本の安全を保障する構想を歓迎すべきことだといいつつ,「それがすぐに出来ない場合は,それを将来に予想しながら,米国と日本との間だけに新しい関係を打立てることが好ましいと思う」と主張し,左に続けて書いている。
「それには,何よりも安保条約の再改定を取り上げることである。私はいまの時代の新しい同盟は,前に述べたように,軍事関係を挿入することが却って安全の保障にならない場合が多くなってきたと考える。もし,そうでなかったら,現在のように多数の『非同盟』をもって主義とする国が出現する理由が説明しにくいであろう。私は日本とアメリカが,経済と文化を中心とする精神的な結びつきを主として,米軍は日本本土に一兵もとどめないが,ただその安全保障については好意的立場をとるにとどまる,といった方式をとることを提案したい。
 私は,これが日米間を史上かつてない形の国際関係を作り,それはやがて新しく生れる国際関係の先例を作ることになろうと思う。……もしこうした問題に対するアメリカの賢明な洞察が示されるなら,いまの日本の気持は一人のこらず一変するにちがいないと思う。」(一四三頁)
「それにしても,ただ反米というような気分で,遠方からおよび腰でただ反抗しているようなことでは,日本の問題が解決するわけはないので,やはり,アメリカとは真正面から四つに取り組まねば,必要なことは解決しないように感ぜられるのである。それならば,出来る限りいろいろの偏見を去って,言葉は古臭いげれども堂々と対決していくという方向にむかうほかはあるまい」(一七〇頁)。

 以上は,私が勝手に選んだ笠君の文章であるが,だいたい,彼の対米姿勢を相当程度によく表現していると思われる。
 要するに「アメリカとの最もよい関係のなかで」「堂々と対決し」ながら「新しい日米関係」をつくりだしたいというのが笠君の考え方であろう。その考え方に基いて実行したものの一つは,「ジャパン・クォータリー」の編集責任を十年近くもとりつづげたことであった。三十回にもわたるその編集会議では議論の花が咲くのが常であったが,それは,楽しい私の思い出となった。彼はまた「ダートマス会議」といわれる日米民間人会議にも出席して率直な意見を述べた。命とりとなった沖縄論文の要旨も,その会議で発言したものであった。
 笠君は,遙かなるものを想見しつつ,現実をふまえながら,その現実の動きをあやまらせないようにと,あるいは一管の筆に托し,あるいは,じゅんじゅんと聴衆に説いたのであった。ジャーナリスト笠信太郎は,ロバート・オッペンハイマーが「パブリック・エクセレンス」として待望した型の人間に近いプロフィルをもった極めて稀れな人間であった。