[講演] 松永芳市「何故,私はラッセルの思想研究を始めたか-ベトナム問題に言及する」
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第4号(1966年5月)pp.7-8
* 松永芳市(故人)はラッセル協会設立発起人の一人で,執筆当時ラッセル協会監事
バートランド・ラッセルは,94歳(=1966年)になりますが,カクシャクたる元気で核兵器禁止運動を世界的に推進しています。核兵器の禁止ばかりではなく,やがては世界各国の軍備の完全撤廃の実現まで目標としています。それは,名誉を求めるとか,利益を追求するとかいう種類のものでなく,全く,世界人類を滅亡から救おうという崇高な人類愛の精神,人道主義から発した聖なる運動であります。
然るに,ラッセルが最近,ベトナム問題で,中共側の肩を持っているように宣伝する人があります。しかし,ラッセルは決して共産主義者ではありません。寧ろ共産主義に対しては,手きびしい批判を加えております。ラッセルにいわせるとマルクスの学説は,時代後れの思想であるばかりでなく,全く問題にならぬ曲説であるというのであります。しかし,ジョンソンのエスカレーショソ式戦争拡大方策には極度に反対し,北ベトナムの爆撃は,第三次大戦を誘発する危険があるのみならず,多数のベトナム人を殺し,南北ベトナムを荒野化するのは人道上からも許せないとしているもののようであります。
市井の一弁護士である私が,バートランド・ラッセルを何故,熱心に研究するに至ったか,その動機を一言申上げましょう。
終戦と同時に,日本は軍国主義から一挙に民主主義,平和主義に変わり,当時若い青年学徒の中に共産主義に走るものが多数出て,思想混乱の時代が来ました。私はたまたま最高裁判所の管轄に属する司法研修所の教官となりました。司法試験に合格し,判事,検事,弁護士になろうとするものを教える立場に立たされたのであります。今から16,17年も以前のことですから,その頃の司法修習生諸君は今日,判事,検事,弁護士としてわが国の司法の中堅幹部になって皆立派になっておりますが,当時の思想風潮に対し,私が秘かに心配したのは,将来,わが国の司法を担当する者の中に共産主義に走る人が多くなっては困るということでありました。私は何とかして青年のマルクスに走る傾向を喰い止めたいと考え,マルクスを読む代りにバートランド・ラッセルを読めと,若い人たちにすすめました。私としては,右にも左にも偏しないバートランド・ラッセルの思想が,民主主義国にこれから表面だけでなく,内実もほんとうの民主主義国になろうとしているわが国に必要であると考えました。そして若い人が赤の方へ脱線しないように,ラッセル車を出したのであります。そのために,よりよく知る必要を感じたのが,私のラッセル研究の動機であります。
ラッセルの思想の一端を申上げましょう。不安,恐怖が憎悪を生み,憎悪が強くなりますと,ヒステリー状態になります。ヒステリー状態になると,物を大所高所から見ることができず,屁理屈が非常にうまくなって,手におえぬものであります。中共などの共産主義は勿論恐ろしいものでありましょう。しかし,その恐ろしいことをあまりにも大きくいって,不安,恐怖をかりたてると自分がヒステリーになるばかりか,他人までヒステリーにします(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)。今,アメリカは中共封じ込め政策を強く打ち出し,その結果は,中共の指導者をして,ますます 'アメリカ帝国主義打倒' を強く叫ばせることになっております。両国が互に強く憎悪するから,益々問題の解決は不可能になり,世界の平和は遠くへ逃げ去ります.ラッセルは国と国との戦争を,双方の国民が集団ヒステリーにかかっているからだと評しています。不安,恐怖を過当に説いて各国民を集団ヒステリーにかりたててはなりません。共産主義は,勿論,間違った理念でありますが,共産主義的思想を弱める方法はいろいろあり,その一つの方法は一般民衆の生活水準を上げることであります。マルクスは1840年代のイギリスの工場労働者の悲惨な状態を見て,この主義を考えついたのではありますが,彼の生存中,景気の漸次によくなった独逸でも,アメリカでも,イギリスでも,共産主義は実をむすびませんでした。それが最初に実をむすんだのは,第一次世界大戦に敗れ,極度に疲弊したロシアにおいてだけでありました。共産主義は生活水準の低い国か,疲弊した国にだけ生長するものだとラッセルはいっています。今日のベトナムの実状を見ますと,一般の生活水準は極度に低く,ベトナム人の多数は,アメリカなどのいう "自由国" になっても生活水準が上がるという目途が全然立たぬので「どちらでもよいわ」親子兄弟を殺し合う戦争だけはやめてくれ,そうでないとベトナム人の若い男は全部殺され,ベトナムは荒野になるであろうとなげいています。
共産主義は恐るべきものではありましょうが,一般民衆の生活が楽になると自然衰えるもののようであります。ロシアが平和共存の路線をフルシチョフ以来ずっと打ち出しているのは,一般民衆の生活が楽になったからだと思われます。このことをラッセルは16,7年前に予言のように著書の中で述べております。共産主義に対抗する方法は。ジョンソン大統領の考えているように戦争をして敵を全滅させることだけではありません。申し上げるまでもなく,共産主義は上流階級の腐敗堕落に乗じて力を延ばすものですから,政界は勿論社会の指導的階級にあるものは,大いに自粛自戒する必要があります。しかし,大体において政界や社会の指導階級に自粛自戒が行われ経済面で景気がよく,一般の生活水準が上がっておれば,共産主義はそう心配したものでないと思います。(1966.03.01)