牧野力「英才が世にふえて」
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第2号(1965年9月)p.1.
* 牧野力氏は当時、ラッセル協会常任理事、早稲田大学政経学部教授
* ラッセル協会設立発起人名簿
今の世に英才と鈍才とどちらが多いか、誰にもハッキリしている。多くの人々が英才と呼ばれる特質の持ち主になるという言葉は現状と逆である。ところが、ラッセル卿は、『人類に未来があるか』(1961年、邦訳は、理想社刊)の中で、こう説いている。
「今日、人類は相互不信から国際的無政府状態に陥ち入り、核武装により、自国の安全のみを念願している。軍拡競争は悪循環を繰り返し、安全どころか、次第に危機が増大するばかりである。」
そこで卿は、現実に可能な順序で、世界政府樹立の一貫した具体案を述べてから、
「そして、進化がすすむにつれ、今日、人類の多くを迷わせてきた恐怖の闇は払いのけられるし、卓越した少数の者がもつ異彩を放つ特質と現代人のみなすものを、多数の人々が共通に持ち合わせることになろう。」(第11章「安定した世界」)
と説いている。これは詩人の直観か、あるいは卿独特の逆説なのであろうか。教育の現状から見て、話が違い過ぎると思われよう。
大学は曲がり角に立っていると、よく聞く。明春(1966年春)、ベビー・ブームが大学の門を叩く。日本では、小学校から大学まで、大体理解という面からみると一方通行に似た一斉授業方式が何十年とそのまま続けられているし、教育には、「知識を与えること」と「才能を開発すること」の2方式があり、また、集団学習と個人学習との2面もある。しかし、一斉授業方式が圧倒的であり、学生はおおまかに目の荒らいふるいにかけられている。そして、年年、鈍才は降る星の如く、数え切れない程生み出される。これが現状である。
理解から創造への道が誰にもふさわしく、等しく開かれてこそ(少なくとも、理解の面で、遅い者には遅い者にふさわしい教育過程が工夫されてこそ)、教育は質的に民主化される。学費低廉、学校増設、学校差解消なども就学機会の民主化という点で勿論必要であるが、万人の習熟可能への方式が確立されてこそ、教育の民主化は質的に達成されるのではあるまいか。
しかし、これには、教育の過程が成否の鍵を握るのだろう、明治初年の学校や今日のゼミナール学習のように、一握りの学生相手の場合は別として、一組織数十人以上、何百人かを相手に行われているマイク授業の現状では、尋常の人間わざではどうにもしようがないのが真実であろう。
ラッセル卿は、一体どういう見透しからそう考えるのであろうか。
第二次産業革命と言われる電子工学の発達は、人間が機械化する過程を巧みに代行してくれる。この働きは、人間が数量と集団とに対決する上での一方式ともなる。教師も集団の攻勢の前では、大抵、機械的繰り返しを要求される、教師がこの繰り返し作業を避けて、主体的に、個性的に発動し得るのは、自ら機械化する危険のある過程を、機械自体に委ねる外ない。概論的知識や底辺的思考過程の理解を機械による系統学習に任せて、機能的な技法把握や関係認識から創造的思考に向かう発想の領域を、教師と学生との問答学習に任せたい、学校は、プログラム学習の後を受けて、集団教育を個人指導に切り替える場にしたい。理解とその考査も系統的プログラミングに立脚し、客観テストに主観テストの要素を加味してはどうだろうか。
要するに、教育の過程に教育工学を大幅に生かす以外に、集団攻勢の克服、個人指導の実効保持、教育課程の質的向上、教育の民主化などを保証する道はないかも知れない。
卿の専門的研究は現代科学の基礎論や方法論の確立に大いに貢献したと聞いている。
恐らく、卿の脳裏において、電子工学の研究成果の意義と働きとを教育の場に生かすことについて、ある筋道と体系とが構想され、これを媒介に、あの発言となり、あの言葉や考え方に具体性が宿ってくるのではあるまいか。