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牧野力「バートランド・ラッセルの社会主義論」

『(早稲田大学政治経済学部)教養諸学研究』n.56号(1977年12月)pp.1-26

*(故) 牧野力:当時早稲田大学政経学部教授、ラッセル協会理事

【中古】 ドイツ社会主義 /バートランド・ラッセル(著者),河合秀和(訳者) 【中古】afb



目 次

 まえがき(ラッセルの社会哲学の射程)
 1 社会主義の定義と基本理念
 2 現代社会主義国の現実と問題点
 3 現代社会主義論争の争点
 4 ラッセルの社会主義論
   (A) 発想体質と思考内容
   (B) ラッセルの所見と争点との対応関係
 むすび(直輸入的姿勢の公害性)

まえがき(ラッセルの社会哲学の射程)


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 今日(=1977年当時),日本において社会主義論が再燃している。混迷と評する人もいる。『朝日ジャーナル』誌が約1年間「現代社会主義論争」なる特集的連載を行った。約20余名の斯界の学者や評論家が論議を展開した。それには,それだけの背景があったからであろう。また,将来日本の進むべき道の選択という視座のあったことも論議の今日的性格を露呈している。常識的にみて,背景として次の事情を誰も思いつく。
A-1 高度成長の波に乗って,国民の間に中流階級的意識が普及したこと。(真に中流階級になることとは別である。自家用車で銭湯へ行ったり,6畳(の部屋)でステレオに酔ったり,日曜目に帝国ホテルで夕食したりする気分といったアンバランスな中流階級意識は虚偽意識である。*1)
A-2 マルクスの予測した'窮乏化論'通りに必ずしも資本主義社会が行っていないと感じ,社会福祉,普通選挙,労働組合運動の社会的影響力増大などが不充分ながら実施見聞されていることから,'マルクス離れ'が見られること。
A-3 低成長に落ちこんで,失業とインフレとに苦しみ,資本の論理と権力との癒着による環境汚染や公害が顕著になるにつれ,社会主義への回帰が目立ってきたこと。
A-4 ソ連の国内事情と対外政策とに一般国民が関心を抱き,旅行やマスコミにより,体験的裏付けをもち,戦前のような親ソ容共か,ソ連恐怖か,敵視か,という極端な受け取り方やヒステリー的反応から,落着いた心情で自主的に再検討する余裕ができたこと。
A-5 共産主義指向(→志向)の嘗ての兄弟国であったソ連と中国とが根深い対立論争を始め,また,「プラハの春」その他で,大国主義的なソ連外交の現実への批判が,社会主義を改めて問うという風潮を盛んにしたこと。
A-6 前述の4と5と関連して市民社会の伝統をもつ西欧に西欧型共産主義が前面に大写しになり,ソ連型共産主義の'プロレタリア独裁'の看板をおろしたことや'労働者自主管理論'が1960年以降から内外の注目を集め,論議されていること。
 細分すれば,もっと広くかつ細かく指摘できよう。以上は読者の印象でもあろう。

 サテ,これらの問題意誠に関連のある議論が既にラッセルの著書に半世紀前から出ている。『ドイツ社会民主主義』(1896)の処女作以来、約30余冊の,彼が popu1ar books と分類する中で,明確に記述した彼の所見が1970年代の論議や現実とも符合している。
 一例をあげると,(ラッセルが)1920年5月に訪ソし,レーニンやトロッキーら革命指導者らと対談し,流動する当時の社会を視察した体験をまとめた『ボルシェヴィズムの実際と理論』(1920)の中で,'プロレタリア独裁'という大枠の中での'前衛党官僚の代行'がやがて,レーニンらの理想から遠ざかる現実となる事情を説き,最後に,「社会主義成功への道が労働者自主管理しかない」ことを指摘している。また,当時その真意が英国内外に理解されず,中国からの招待で,北京大学客員教授として滞在し,1年後帰国してまとめた『中国の問題』(1922)がある。その中で,'社会主義中国'としての建設の青写真をハッキリ明示した。この中国自立への必須項目3要件の緊急順序を示し,その理由を解説した。
 その先見性に米国の中国研究家も驚いたのも無理がない。というのは,1949年の毛沢東政権樹立後の歩みがそれに符合していたからである。例えば,政治的独立以上に文化的独立の必須なこと,体制派の立身出世を目指す家族倫理に終始する孔子の儒教がもつ消極面の指摘,中国人が西欧型近代化に白主的批判をする態度の意味;日本人やロシア人とちがう思考性格;ソ連型共産主義への失望の可能性;東西文明の架橋的役割を果すべき新文明創造を中国に期待する背景,などが論述されているからである。
 中・ソだけに限っても,これだけ少くともあげられる。これらを単なる予言とみるのは,短絡となろう。事象の内面的構成論理の把握に天才的能力をもつ彼こそ,その思考性格の故に先見性が可能に成る,と言えるからである。数理哲学の領域で数学と論理学とを二重写しにする論証を,1800頁の著書『プリンキピア・マテマチカ』(1910~1911)(→1910~1913の誤記)で行う執筆者にしてはじめて可能なことであるのかも知れない。思考対象が何であれ,'オッカムのかみそり',と呼ばれる思考法や精細な分析と素因の位置づけ・再構成との正確さに由来するものでもあろう。ここに,ラッセルの社会主義論をして半世紀後の世界の現実に符合させる所以がある。彼の社会哲学の射程の巨大さが感ぜられる。彼の社会哲学は,彼の社会主義論が時勢の波に洗い流されない内面構造をもつに至る根拠になっている。
 しかし,ラッセルには1920年,1922年に明白であったことが,何故半世紀経過しないと,世界の人々にその意義が流布しないのであろうか。(特に、日本の進歩派の知識人や社会主義者の間で)これは反省してみるべき問題を内包するのではあるまいか。
 最後に,それについて付言したい。幸いにも,今日,第二次大戦後,誕生した十余の社会主義国について,(ソ連,チェコスロバキヤ,中国を含み)判断資料に恵まれており,更に,日本における左翼的(あるいは,進歩的)知識人たちの,戦前,戦中,および戦後にかけてのソ連その他の社会主義国への心情・姿勢についての資料が出ている*2。これらを通して,そこに日本人としての共通の問題として反省すべきものがあれば,それを反省したいと思う。

1.社会主義の定義と基本理念

 社会主義の定義に前提として触れる必要はあるが,社会主義を構想してからの歴史が長いのとその構想者の範囲が広いこととから,民族的文化的精神風土を反映して,社会主義の派閥・流派にも多様性がある。普通,空想的社会主義と科学的社会主義の二大分類は便利である。マルクス主義に立脚する言説,共産主義の前段階としての社会主義を,対象に据えるとして,西欧市民社会の伝統をもつフランスのサンジカリズムやイギリスのギルド・ソシアリズムについても必要な対比はやむを得ない。〔ラッセルは,英国のフェビアン協会に関係したが,ギルド社会主義者と自称している。〕 ここで,簡単に三者を対比する。
科学的社会主義:
 マルクス・エンゲルスによって代表される社会主義で,唯物史観に基き,剰余価値理論をもつ。資本制的な矛盾の必然的展開の行きつく到達点に社会主義的秩序があらわれると考えるから,労働階級がこれにより自信をもち,また,足下の資本主義社会の矛盾を理論的に解剖してみせる武器が剰余価値思想として練り上げられている。労働階級の斗争意欲はこれによっていよいよ盛んになってゆく。かくして,『資本論』を古典とするマルクス主義は近世社会主義の主流をなし,社会主義思想であると共に社会主義建設のための労働者の政治斗争でもある。第一次大戦後,社会民主主義と共産主義とに分裂する*3

ギルド社会主義:
 先進資本主義国である英国では,マルクス主義は根をおろさず,中央集権主義や政治斗争中心主義に反対する。むしろ,`産業自治'の理論による'国民ギルド連合'による社会主義社会を目指す。労働組合の自主的地位の尊重と資本に対するその直接的斗争を強調する。*4

サンジカリズム:
 組合(サンジカ)を資本主義社会における斗争の主体とし,プロレタリア革命後の未来杜会における基礎組織としようとする理論と運動である。ラテン系諸国に盛んである。サンジカリズムはマルクス主義に対し,(ベルンシュタインの右翼的修正に対する)左翼的修正と呼ばれた。サンジカリズムの特徴は、(イ)斗争手段として,経済行動・直接行動,つまり,ボイコット,サボタージュ,ゼネストを行い,終局的に資本主義打倒に向う、(ロ)代議士への不信から,政党・議会・政治運動を排撃する、(ハ)民主主義政府形態が労働者をだますという讐戒心が強い、(ニ)反軍国主義・友愛主義が強い*5
 社会主義であることの不可欠の基本理念として,次の表現は引用に値いすると思われる。
社会主義の本質は,労働力商品化の廃止,あるいは,労働階級が主体的に再生産を運営することである。*6
 一見簡単にまとめられたこの字句の中の概念規定,概念構成における比重のかけ方のちがいで,定義の差も生れるが,それらを実現する方式の差が一層諸派に分化する原因になろう。そしてこの字句の諸概念の関連する事項が,実践・移行の領域に及ぶと,多様化せざるを得なくなる。そして,その背景として,民族的・文化的な背景・民度や国民性が厳存するのではないかと思われる。
 

2.現代社会主義国の現実と問題点

 フランス社会党の理論的指導者ジル・マルチネは,戦後誕生した共産主義を目指す国をも含めて十余の社会主義国の実態を検討し,分類して,5つの共産主義の型にまとめた*7
 ここでは,社会主義国と一般に呼ばれて最も古く今年60周年記念を迎えたソ連,スターリンに異端者扱いされ最近世界の社会主義に関心をもつ人々から注目されているユーゴスラビア,そして1921年に共産党を結成して以来の斗争成果を示す中国,これら三国について考えてみたい。ソ連・ユーゴ,中国の三国にはそれぞれの特色がある。ユーゴはソ連型共産主義(Bolshevism)から破門され,人民民主主義による社会主義建設をしてきた国である。また,中国は毛沢東の新民主主義による革命の実践国であり,マルクス・レーニン主義の継承者をもって任じている国であり,ソ連を修正主義者;社会帝国主義国と断じて辞さない国である。これら三国の対比を試みるのは,その中に,われわれが,わが国の将来への展望に関連する問題意識を発見しうるのではないかと思われるからである。

ソ連:

 ソ連のロシア革命による社会主義建設の成果について,まとめれば,次の点にあることは専門家の所見からも明らかである。(筆者の短期滞在のささやかな体験からもこれらは首肯しうるところである。皮肉なことに,米・ソ両国の長所・短所の対比は相互に対蹠的でもある。)
 (イ)完全雇傭 (ロ)文盲退治 (ハ)無償教育制度
 (ニ)年金制度 (ホ)男女の平等 (ヘ)清潔な都市環境など
 〔これらは国家資本主義でもやりうるとの主張もある。〕
 農奴や浮浪者的な貧困者層の生活が全般的に平均的にレベル・アップしたことは事実である。これは主として物質的な面であるが,精神的な面にふれると異論が目立つ。
 また,今日,ロシア革命から60年経過した現実を,社会主義建設という視座から観ると,中国;ユーゴ;ユーロ・コミュニズムを指向する国々,更に他の共産主義者などからの否定的批判がある。
 否定的批判のひとつにふれる。5年間(1962~1968)日本共産党員としてモスクワのルムンバ民族友好大学に留学した4人の学生自身の体験記に注目したい*8。確認賛同という意味からでなく,現実批判に対するチェック・ポイントを拾う意味で,引用する。読者も各自,彼ら以外のソ連研究の専門家たちの実証的執筆内容と対照されたい。
(イ)創意を発揮することが,ソ連では絶対いけないんだ。スローガンの一字一句からすべて事前検閲を徹底的にやられる。一番楽をしようと思えば,上の言うがままにやりさえすればいいわけだ。たとえば,ソ連側が官製でつくってきたプラカードを持って歩けばいい。(p.36)
(ロ)われわれの大学の中には,学生の思想動向の調査機関が大別して3種ある。秘密警察;ソ連共産党中央委員会系統の機関;ソ連外務省系列所属機関である。(p.37)
(ハ)青年の考え方は,なるべくいい学校をでて,いいところへ就職して,いい賃金をもらって,いい奥さんをもらって,楽な生活をしたい,ということになる。これは,大学生や比較的家庭的に恵まれた青年に非常に強い。生徒も(先生も一番まじめで標準的な人でも),いい大学を出て,その間に入党して党員になる。そして,卒業して出世コースを歩み,高級アパートをもらう。エリート・コース以外の考え方をしない。(p.136)
(ニ)ソ連の技師は海外援助で後進国に赴任すると,現地で貴族的生活が送れる。自家用車も高級住宅にも住める。実質は往年の白人のだんな方と同じだ。だからソ連に帰りたがらない。現地の人民は援助の実態を実感している。(p・17)
(ホ)ソ連で,党員は非常に「有能な人間」であって,指導性もあり,ずいぶん努力もし勉強もしている。そういう人物が入党資格をうる。日本でいえば,高級官僚になるために国家試験を一生懸命に受ける人と本質は何ら変らない。個人として,思想を抜きにすれば,まさに非の打ちどころのない非常な努力家で,まじめで,指導性もある。しかし,その人はどこまでも,自分自身のために党員になるのだ。自分の出世,栄達,よい生活のためにやる。その心情は,昔の日本で高級官僚になる努力家と同じである。党員になって,人民大衆に奉仕するとか,そういった観点はほとんどない。(P.98)
(ヘ)ソ連の党は誰も知るように伝統ある党で,優秀な人々がたしかに結集している。それでも,党員体質の変質の現象が起こる。この点が一番重要な問題だと思う。これは,じつはなかなか見抜けない。(p.50)〔下線筆者〕
(ト)どんな強大な党の場合でも,人民に奉仕する観点を失ない,人民大衆の批判を受けいれて,自己批判をつねにやっていくという態度を失えば,一体,何が起るか。これは,まさにソ連の現実が具体的に物語っていると思う。このことは,特に権力を取った後の党の問題,プロレタリア独裁下で階級斗争を推進する問題につながることで,非常に深刻な問題だと思う。(p.51)〔下線筆者〕
(チ)ロシア人が革命的な創意性とかいったものをやることはきわめてむづかしい。それには生活がかかってくるわけですから。だから,一般大衆に政治的無関心,逃避,それから,情熱も誇りも失なっていくということが,制度的にも出てくるんじゃないかと思います。(p.53)
(リ)党と人民との関係で,人民は党の指導を受けるべきものであって,一方交通なんです。党は指導,人民は服従'という公式になっている。エリートがおくれた広範な大衆を指導する形だけが残ると,結局,ファシズムヘ行きついてしまう。現行の経済制度の改革で,有能な人間はますます多くの賃金をとれるようにしている。これは,人民大衆の上にあぐらをかいている党員,ならびに,指導層が自分たちに都合のいい政策を打ち出していることを意味している。(p.44)〔下線竈者〕
(ヌ)人民に奉仕するという観点がソ連共産党の場合,いつか知らないけれども,決定的に忘れ去られてしまって,今の様な絶対主義的な支配体制というものを形づくることになり,そのなかで,次々と指導者たちが自分たちの私利私欲を計って,自分たちも腐敗していく。その結果,ソ連社会全般が変質してゆくわけですね。(p.44)
(ル)コメコンは,国際分業の理論に基いて,それぞれの国々に専門分野を割り当てた。その結果,東欧の各国の産業構造は片寄り,ソ連への経済的従属度を強めることになる。特に農業部門を担当する国にとっては歩が悪いです。農業生産は工業生産にくらべると,常に立ち遅れていくわけですから。そして,ソ連から粗悪で高価な工業製品を買い,安く農産物を売り渡すことになる。(p・294)
(ヲ)スターリン時代には,ソ連の基本的には正しい政治路線も,その具体的なやり方,民族政策などでは粗暴な押しつけが随分あった。フルシチョフ時代になると,路線の面でも完全に誤り修正主義におちいり,資本主義の復活を推進し始めた。そうなると,ブルジョア大国主義的な強引な押しつけが全面的に強まり,ここから先,東欧諸国はソ連の植民地的従属国に急速に転化して行ったと思います。(p.293)
(ワ)いわゆる中・ソ論争に対する各国の党の態度のちがいは,われわれには,モスクワにいて非常に教訓的だったわけです。一つ典型的なのは,ソ連のやり方だ。ソ連人民に中国の言い分は一切知らない。北京放送も文献も許さない。中国の見解を知ろうとする人間に対しては,おどかすわけだ。ソ連の論調,党の論調だけ知らせる。それで,ソ連国内の世論形成は非常に早い。朝,党なり政府なりの見解を流せば,夕方には,全ソ連国民がその意見で一致している。それをウノミにする。こういう問題に対処する際に,ソ連共産党指導部は,まるで街のヤクザのような態度をとる。ソ連は,国家権力という物理力にすがって,中ソ論争問題に対処した。その結果はどうなったかといえば,国内だけは一応一時的に抑えることができた。しかし,外国の共産主義者の口を閉ざすことはできない。ここの分野では,どうしても論争しないわけにはいかない。所が,国内では長い間思想斗争が軽視され,理論斗争がまともに行われていなかったために,ソ連共産党の理論水準は今日では極めて低く・実にお粗末なものだ。だから,初めから,国際舞台では論争にならない。ソ連側は理論には理論で対決することができないで,物理的に阻止しようとするわけである。(P.139)
(カ)思想斗争というものは,異った意見,異った思想というものを対比して、その間の思想的な斗いが行われて,その結果真理が勝ってゆく。そういう斗争で鍛えられないマルクス・レーニン主義はそれこそ保育器に入れたような官製のマルクス・レーニン主義で,これがいかにマルクス・レーニン主義でないものになって,腐ってしまうかという好例がソ連の場合だと思う。(p.140)
 今のソ連には,社会主義建設を進め,共産主義社会をつくる場合に,思想斗争が根底になければいかんという観点かひとかけらもない。これが決定的問題だと思う。(p.141)〔下線筆者〕
(ヨ)そもそも,ソ連の唱える「物質的関心の法則」とか「利潤追求」で共産主義が建設できるのであれば,日本やアメリカはとっくの昔に,共産主義国になっている筈だ。(P,142)
(タ)革命の後継者をどう育てるかということは,われわれがモスクワで学んだ最も深刻な教訓の一つだった。これは全人民の運命にかかわることであり,従って,人民大衆に百パーセント信頼をおき,徹底的にプロレタリア思想で教育し,改造していく以外にはないと思います。スターリンにはこれができなかったし,そうした観点がなかったのではないかと思います。スターリンには大衆路線が欠けていたことが出たが,この問題はほんとうに深く考える必要がある。ソ連の変質の原因はスターリンの指導していた時代に存在していた。実はスターリン時代に,既にブルジョア実権派が存在していたんだと思う。内因を明かにすることができず,単なるスパイとして行政的に処理してしまう。スターリンは個人としては,なるほど偉大な人物だったが,後継者を育てることができなかったことは彼のやった大きな失敗の一つだった。自分の眼に怪しい者を秘密警察を使って,行政的措置をとったり殺したりした。人民大衆は真相を如らされず,政治に対する恐怖心ばかり養われることになった。それで唯ひたすら,盲貝的,無批判的態度でスターリンについて行った。(p.239)〔下線筆者〕
レ)何世代も,世代が交代しても永久に変色変質しない社会主義社会をつくろうと思えば,何億という人民大衆の力にたよる以外方法はない。こういう観点はソ連には全くない。(p.240)〔下線筆者〕

 ユーゴスラヴィア:
 チトーは1943年国民解放委員会による臨時政府首斑となり,1945年連邦人民共和国首相になったが,いわゆるチトー主義が1947年コミンフオルムから,その民族主義的政策や農業政策を批判され,以後急速に対外的に西欧陣営に接近したので,ソ連系列の社会主義者からは異端視されてきた。しかし,ナチスからの解放,独立を求める人民戦線を基礎とする人民民主主義の政権である。チトーの理論はソ連型でない社会主義への道,つまりプロレタリア独裁を経ないで,社会主義建設をするという理論を骨格としている。農業国ゆえ,農民こそ国家の土台であるとしている。第2次大戦中の抵抗運動を行った地方農民、ことに富農層に論功行賞が行われ土地改革の免除があったし,人民組織の終身的ボスとなってるところから,ユーゴを官僚の軍事的フアシズムの国家体制とみる人も多い<*9
 ユーゴの関係資料で気づいたことは,日本における1950年以前の出版によるものは,概してソ連型共産主義観による判断のものが多い。ユーゴ社会主義が現実に抱える問題意識に注目した具体的研究でないと,それら解説内容は1948年6月のコミンフォルムのユーゴ批判と同曲であり,突込みも足りない。しかし,ユーゴの現実が内包する問題点に研究課題を絞った1960年以降の資料から具体的な問題点を如ることができる。
 ソ連は引用文のような内部告発を受けた。ソ連研究家の中にはその内部告発に同調する人もいる。ソ連型共産主義にブルジョア的ファシズム国家として破門されたユーゴであるが,客観的に見れば,ソ連的断定だけではすまされない何かがあるような気がする。
 ユーゴの社会主義体制:
 政治的には,一党独裁を前提とした上で,可能な限り政治的自由を保障し,経済的には,生産手段の社会有を前提とした上で,経済運営の根本原則に、労働者自主管理制を採用する。伝統的なソ連型の官僚的国家社会主義主体制とは異った独自の社会主義路線を歩むことになる。この意味で1953年のスターリンの死によって動きはじめた1960年代後半の東欧諾国における経済改革の先鞭をつけたと言えるであろう*10
 1948年6月,ユーゴがコミンフォルムに除名されて,ソ連ブロックと対立し,ソ連型の官僚的集権化計画を解体,国家権力と経済体制の地方分権化,直接生産者いわゆる労働者の自主管理制度の導入を決定した。
 ユーゴ共産党自体も1952年の第6回党大会で名称をユーゴ共産主義同盟と改め,政治・行政・経済の直接の支配から遠ざかり,政治上イデオロギーの先導者へと変りつつある。1958年4月の第7回党大会で採択した新綱領には,共産党による政治権力の絶対的独占が普遍的かつ永遠の原則であるという声明を,`我慢のならぬドグマ'と断じ,人間を政治目的の下に従属させることに反対し,社会主義の最高の目標は正に個人的幸福であると強調している。 綱領に,また,ユーゴ社会主義の核心とも称すべき労働者自主管理制度を改めて織り込んでいる。生産手段たる企業は,労働者に譲渡され,その運営を委任されている。一般労働者から選出される「労働評議会」が中心となり,同評議会は「経営委員会」を選ぶ。労働評議会代表,労働組合代表,(日本の市町村に当たる)コンミューン代表で構成する「特別委員会」か企業長を決定する。
 労働者自主管理制度では,製品の種類,生産高,価格を自ら決定し,利潤を自ら分配するという利潤方式を採用する。企業間競争により,生産拡大・品質向上を促そうとしたわけである。社会主義競争原理の導入であり,東欧,ソ連より10年前に既に利潤方式の実施に決断した。直接民主主義を標傍するユーゴは,市場制社会主義という独自の路線を歩んだが,経済的効率性,社会主義的生産力向上という視点から,国内は勿論,対外的な企業間競争を促進を目指す分権派と経済分権化政策に反対する集権派との間に抗争,論戦があった。
 チトー大統領は,しかし,自主管理制度強化のため,過去の市場メカニズムの導入採否に当っても,何度か,イデオロギー的哲学論争をふくめた党内論争を認めた。これが,結果的には自主管理体制に対する国民の支持を強固にし,かつ,経済改革に協力する国民的合意を生ませた。ユーゴのような経済成長の成熟段階に達していない国はブルガリア式に計画化即国有化を行い,統制色を濃厚にすべし,という批判がある。これに対して,社会主義的混合経済のメリットを最大限に追求し,市場制社会主義へ到る試行錯誤の連続は,結果的には,経済発展と並行し,自主管理体制の強固となり,社会主義社会に前進する最高の経済的革命手段となるという確信をもっている。
 新憲法は,ユーゴ社会主義が幾多の試行錯誤を経て,改正条項の積み重ね集約的大幅改正を行った。これは81才のチトーの死後への布石的意義をもつが,注目すべき点も多い。
 国家元首(大統領)の一年交代輪番制,幹部会員の交代就任
 連合労働基礎組織(Basic Organization of Assoiatiated Labour 略称BOAL)と呼ぶ,企業,施設などの生産活動;研究活動;文化活動などの職場毎に,存在する新しい概念の勤労者グループの基礎単位が生れた。この存在,即ちBOALの承認がなければ,働く者の賃金の額は決定できないこと。
 代議制の欠陥を補い,末端労働者の発言権強化のために,政治(選挙)の基礎単位の考え方を,将来の居住的観点(地理的選挙区制)から生産的観点(職場的選挙区制)に移し,労働者に,職場細胞組織と居住地区組織との2組織を通じ,1人で2人の委任代表を送り込める1人2票投票制度を採択したこと。
 BOALの構成員数を,人数の増大で,“直接民主主義''の実践が困難となることを避けて,上限を百人程度に置くことを理想としている。BOALの真の狙いは,自主管理と国家統制の併立という二重構造を解消するにある。労働者,末端労働者の思想教育や経営訓練の強化によって,テクノクラートの優位性や労働者の集団エゴイズムの抑制を果し,企業聞の協調性を保証するために,労働者の質的向上を目的とした教育訓練に全力をBOALは傾けることにある。
 新憲法の骨子は,社会主義の権力を中央から地方へ,上部から下部へ移そうとしている。*11。〔下線筆者〕.

 中国:

 1921年に中国共産党を結成して以来,中国にとって,ソ連は先輩であり,教師であった。ソ連の国内事情にも昔からよく通じていた筈である。それが,1949年毛政権樹立以来年10間,ソ連型方式でやっても成功せず,自信をもって自主的な路線で社会主義建設をやると,ソ連は援助を打切った。悪戦苦斗して自主路線で今日に及んだわけである。中国のソ連批判には1960年代の煮湯を飲まされた思い,積年の怨念が一気に吹き出した観がある。しかし,中・ソ論争の根は深く,国民性を背景にした考え方の中・ソの違いに由来している。
 理論面のみならず,建設面も外交面も,すべての面でソ連と対立する宿命的な背景があるように思われる。中国がレーニン死後から共産主義を継承するという表現は意味深長なものをもつ。中国の現実は,中ソ論争からも逆に想像される点もある。ソ連を反面教師にしている。
 文化大革命を契機として,中国の社会主義はソ連の社会主義と全く異った建設の路線を歩み始めたことは明らかであったと言わざるを得ない12。
 社会主義社会建設路線でソ連と中国とはどこがどうちがうか,を知ることは,現実理解への前提となる。日本におけるマス・コミが提供した資料の理解にも役立つのではあるまいか。
 ソ連批判の理論的根拠として,三つのカナメがある。一つは,攻治面にみられる官僚制への反省,次は経済面にみられる修正主義つまり利潤導入への反省,さらに文化面での意識変革の必要性の認識・実践である。三者共に相関性があり,それぞれに因果関係を示す系列をもち,そこから更に派生する事象もあげられよう。
 官僚制への反省対策として,プロレタリアのための真実の前衛党としての体質を持続するために,大衆動員による幹部・官僚批判を徹底する。この大衆路線は,社会主義精神の高揚のための精神革命・思想斗争としての'文化大革命'によって内側から鍛えられるようにする。これは,ある意味で,形骸化した労農評議会(SOVIET)を振興させる意義をもつものであるまいか。権力奪取による機構変革で革命が一回で終了したと考えず,その後も階級斗争を継続すべしと考える。ブルジョァ精神の絶滅まで続くとみる。反革命斗争をスターリン式の密告・処刑で対処せず,敵対矛盾と非敵対矛盾との識別と両者が転化することへの対応法とによって,ソ連とは別な方式をとる。ここにも中・ソのちがいが読みとれる。
 修正主義への対応策として,文化大革命の精神の裏付けで,物質主義的利潤導入の報奨制によらずして,奉公意識で経済的難局や分配の公正を確保しようとする。国有国営という大枠そのままよりも,その実をあげる社会有としての対策を立てる。以上の点は,ユーゴと同じように,ソ連への批判的着眼から出発しながらも,中国はプロレタリア独裁,マルクス・レーニン主義の線を歩みつつ,その真正の意味の踏襲者であると称し,ソ連を反面教師として,変質防止策をキメ紬かく工夫している感もある。三国の現実の中に,問題点が示唆されている。しかし,三国のちがいの背景には民族的,文化的,歴史的,諸条件が介入していることは見逃せない。中・ソの国民性のちがいとその将来の展望に関し,(ラッセルの)『中国の問題』(1922)の中で述べられている内容は,中・ソ論争のマクロ的背景を説明してあまりある。勿論ラッセルは当時社会主義中国を念頭においていた。

3.現代社会主義論争の争点

 社会主義に不可欠な基本理念を,「労働力商品化の廃止」;「全労働階級が主体的に再生産を運営すること」とすると,そこから,「労働階級がどういう決定機構をもって決定するか」という実際的な次元の問題とも関連する。誰が,何を,どう,するか,という視点に分けて考えると,'労働階級が'となる。しかし,労働階級に実際にその能力があるのかと考えれば,その否定的心情が前面に出れば,前衛的有能者の代行が示唆される。'主体的'にというのは'直接民主主義的に'というに均しい。しかし,'前衛の代行'は権力悪による'変質'への可能性をもつ。ここで,前衛を勤める有能者エリート集団の代行を(間接民主主義)選挙によるか,ある経過による選別によるのかという問題は,究極的には,労働者管理とか自主管理とかいう問題を想起させる。直接民主主義の濃厚な労農評議会の方式,つまり,SOVIET方式もある。この評議会システムについて,次の点に注意されたい。
 ロシア革命におけるソヴィエト(評議会)は生産の労働者管理のためのプロレタリアートの統一的機構としては現実には存在しなかった。それは何よりも革命的危機の瞬間における政治的権力奪取の機関(蜂起の機関)として実在したにすぎない。権力奪取後(1918年1月)のレーニンにとって,労働階級の自主的組織たる工場委員会による「下からの改造」のみが革命ロシアの経済建設の基礎を構築する「ただひとつの道」であった。しかし,この「下からの改造」の道は,その後僅か3ケ月もたたずして完全に転倒してしまう。レーニンの労働者管理についての右翼的後退は,国内戦と経済における集権化,軍事組織化の強行とによって,拍車をかけられた。そこでは,レーニン主義の理想「すべての人々がある期間官僚になり,従って,誰も官僚になれない状態への移行」というテーゼは現実問題のためにしりぞけられた。労働者権力の後退と党による代行としての独裁へと変らざるを得なかった。そして,レーニン主義は,スターリンを経て,今日ソ連邦に引継がれて益々拡大再生産され,社会主義が単なる生産手段の国有化と党・技術官僚による代行という「プロ独裁」へと歪少化されてしまった。
 しかし,ブルジョア社会から引継ぐべきものは機能であって,そこに内在するブルジョア的特質は果して,「プロレタリア的ソヴィエトに従属させること」でどこかに消え去るものだろうか。たとえ生産管理の主体がブルジョア的専門家から労働者出身の専門家によってになわれれば解決する,と考えるのは楽観主義者か現実への無知でしかない。レーニンは承知していても,革命を持ちこたえること,生産性向上を一切に優先させること,中央集権化を専心志向したこと,からロシア革命直後のプロレタリア国家の細胞=生産の社会的管理と攻治的民主主義の続一的機構としての評議会-工場委員会の展望は姿を消した。コミンテルン第7回大会の反ファッショ人民戦線戦術によって,最終的にSOVIETは死んでいった。*13
 ブルジョア国家の政府を打倒したからと言って,必ずしもプロレタリア革命であるわけではない,という発想には革命を国家権カの打倒だけに集中思考するのではなく,革命を全人民・全民衆の意識の変革の次元にまでも拡大しているからであろう。そこから,レーニンとイタリア共産党員グラムシとの対比が生まれ,それは'`前衛'が'プロ独裁'を'代行'することの限界とも関連してゆく。
 グラムシにあっては,プロレタリア革命は政治権力のレベルにおいて指導的階級たることを目指すと共に,社会的文化的領域においても,ブルジョア社会の伝統的人間関係,価値観,イデオロギーの変革をそこにおけるプロレタリアートのヘゲモニー(知的道徳的ヘゲモニー)を打ちたてることが不可欠の要素として把えられている。
 プロレタリアートは,政治権力の奪取以前においても,ブルジョア文化とイデオロギーとのヘゲモニー斗争において自らを鍛えあげ勝利しなければならない。このことを抜きにしては権力奪取もまた不可能であると共に権力奪取後の社会主義建設においてたちどころに困難な状況に直面することを,グラムシは強調している。民衆的分子は'感ずる'けれども,いつでも理解し,あるいは知るというわけでない。知的分子は'知る'けれども,いつでも理解するとは限らない。とりわけ'感ずる'とは限らない。
 知識人の誤診は,理解することなしに,とりわけ感ずることも情熱的であることもなしに(知ること自体についてばかりでなく,知る対象についても)知ることができると信ずる点にある。知識人は知識人でありうると信じている点に誤診がある。知識人と民衆(国民)との間の感情的結合がなければ,政治-歴史は行われない。
 この「知識人」を党に置きかえ,レーニンの『何をなすべきか』における意識性と自然発生性との関係の対比でみるならば,グラムシは,より大衆の自然発生との内在的結合を追求したと言えよう。レーニンの比較的政治的指導主義に対して,グラムシは比較的知的道徳的指導主義である。*18〔下線筆者〕
 以上には,主体である労働階級の適性的な在り方の問題と前衛の代行という問題とが出ている。それを権力奪敢時機の前後とのかかわり合い方も関連する。そして労働階級自身の姿勢が不可欠のきめ手となってくる。これは論争点の第1である。
 第2は,主として経済領域がかかわる争点である。これに第1の主体的であるべき労働階級自身のあり方も大いに関連する。利潤方式を導入しなければ,生産性が向上しない国もある。国有か,社会有かという問題の延長線上に,効率性を保証する上で,市場システムを導入して,競争原理を導入しようという案も出る。労働者自身の姿勢の内容が成否の鍵となる。自主管理の方式をどう具体化すればよいのか,労働集団の企業エゴの調整を機構制度的に保証するにはどうすればよいか,という問題も出る。経済原則と運用技術とは,どうしても,技術家集団を必要とする。その集団による体制の変質化防止策まで,第2が第1の領域にからむようになる。社会主義社会建設に,政治・経済・文化の三次元における争点が調和しバランスよく前進する上のポイントは何か,という第3の戦路的次元の争点も生れる。
 政治とか経済とか,とかく,単一化され易い次元の論議から,「労働者自体のあり方」という文化的領域の中で,改めて,卜一タルな人間論的次元の綜合的発想をする方向へと,論議が移った観がある。では,ラッセルは社会主義に対して,どういう考え方をしていたのか。
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4.ラッセルの社会主義論

 (A)発想体質と思考内容
 ラッセルは,労資協調主義のフェビアン協会型社会主義でなく,労働者管理を目標とするギルド社会主義者である。そうなる背景として,単にヒューマニスト的心情からそうなったという見方は少し物足りない。根が深いというか,底辺が広いというか,ひと言で言えば,宇宙論的人間観に根ざしている。一つの結論に到達するまでに,人間生活を包む百般の学問的領域の知識と知恵とによってピラミッド的に構成されている。著作の面から言えば,社会主義論が政治論,経済論だけでなく,教育論,結婚論,恋愛論から宗教論までも動員されて構成されている。キメ紬かくいろいろの要素がからみ合っている。彼が出す平凡で常識的な結論の蔭に,常人の見落しがちな現実に対する論拠が在る。例えば,革命よりも労働組合運動に変革を期待するのは,ブルジョア的知識人の微温性や憶病さがあるのかと思うと左にあらず。権力論の理論と人間への深い洞察力がからむ*15。先づ彼は人間存在を宇宙の闇に浮ぶウタカタのような有限で,不完全で,半把な極微なチリに等しい悲劇的存在と悟る。しかし,人間は考える力を持つので,その不安感におののく心情を抱く。そしてある者は,正反対の全知全能の絶対者・神という人間頭脳の幻的所産,願望の投映にすがろうとする。不完全な半把な存在者同士が互に'自己'を自覚して,手をつなぎ助け合い,闇のトンネルを突き抜けようとする人もいる。この同胞意識・連帯感に立脚して,'明知'と'寛容'と'勇気'とに生きる信念(Open mind, Open heart) を説く。だから,彼には多様性の実例である人間社会,個性のちがい,能力差などについて,自已をエリート視して他に号令し,独裁することをどんぐりの背くらべ的な愚な優越感と観る。絶対(的)に優れたる者も,絶対(的)に劣る者もない(No superiors, No inferiors) と観る。人間の個性は多様な要素の複合体と認め,ここに,エリート意識という自信過剰への反省がある。しかし,現実の社会では目標に向って,'多様さ'を統合へと結集する必要がある。それは各自の自覚的主体が討議と票決で,'現実的決定'をする外ない。そこに,民主主義の不可欠性,主体性の根拠に多様な個と個の共存のルールとしての民主主義の原理をつかむ。直接民主主義を少しでも多く,広く実現することに人間共生の意義を認める。民主主義の多数決原理が,合理的懐疑精神の欠けた俗に言う'愚者の多数決'へと変質することに警告を発する。民主主義の成否が教育と政治的訓練とにかかっていると観る。しかし,人間は生れながらにして,生命の拡充の現れとして,食物,性,権力(他への影響カを揮う効力),への本能的欲求がある。この欲望の中で,食欲と性欲とは個人差があり,有限的であるのに,権力欲は無限的であるのに注目する。人間誰も生れながらにもつ,諸悪の根源ともなるこの権力衝動と権力欲の魔性〔人間は握った権力を自分から絶対に手放さない。他人に奪われるまで無限に握りしめようとする。その結果いろいろの他人迷惑・社会悪の根源となる。〕に警戒の眼を向ける。この権力欲は千変萬化の現れ方をする。これを手なづける技術と方式体系が,社会科学の根本命題と観る*16
 彼の権力観が直接民主主義の運用を優先させる。人間解放と反革命防止の歯どめとしてのプロレタリア独裁の意義がわからないのではない。総体的に効率のよい歯どめと考える'前衛の代行'を社会主義社会建設に役立てようとする願い,その有効性を彼は権力論から信用しないのである。
 初代革命家の前衛から次代,三代と前衛世代が交代するうちに,党官僚が変質し権力の魔性に操縦されるからである。プロ独裁という発想が最後まで念願通りに進行すると考えない。ソ連がその現実の例である。中国がその轍を踏まぬように,'上から下へ','下から上へ'と交流させる発想で補完しようとしているとも考えられる。(この発想には国民性の背景がからむ。)
 宇宙の闇におののく有限な存在者同士が互いに自覚して,手をつなぐ生き方が基本である以上,友愛と協力と向上への努力以外人間の生き道はないから,たまたま,己の運命の悲惨が搾取による結果だとしても,これを'憎悪の哲学'で武装して,暴力行使で幸福になろうとすることの遠まわり,不毛性を指摘する。
「'革命'が絶対に不必要だと言い張るつもりはないが,革命が黄金時代への近道にならないことを判ってもらいたい,と思う。個人的にせよ,社会的にせよ,'善い生活'への近道はない。'善い生活'を築きあげるには,知性と自制心と同情心を身につけねばならないからである。これは量的な問題であり,漸進的改革と幼年期の訓練と教育上の実験との問題である。唯,性急な心情から,突然の改革の可能性を信仰するように一部の人々が早まるのである。」*17
 ここに,彼が組合社会主義者となる背景の一つがある。彼が労働組合運動の拡充を平均点の高い,変革への道として考える理由がある。実力行使や暴力革命をできるだけ避けるのは,それにより生起する連鎖反応を断絶しにくいこと,無駄な消耗の原因を増し,社会建設を遅らせることを考えるからである。暴力革命による生産財の破壊は革命の後退因とみる。
 それらの配慮から,「社会化された経済を民主主義的に運営しようとする,'労働者の自主管理'を」また,「資本主義の内で労働組合が経営権を蚕食する'労働者管理'」を社会主義への移行の基調と考える*18。そして,そこに直接民主主義への接近法を見出す。ラッセルに1920年5月訪ソさせた主な理由の一つは,労農評議会(SOVIET)が間接的民主主義の代議制よりも,より直接民主主義への接近であるとして共感し,現実を是非目撃したかったからであった*19
 しかし,「1919年~1920年という時期はロシア革命におけるソヴェトの退潮期であり*20彼は失望し,「前衛のプロレタリア独裁の代行」に将来の変質の可能性をみた21。そして,大衆への根廻しの不足に'性急な哲学'の危機を感じて,そこに,ロシア革命を失敗に導く一面をみた*22
 '廻り道'と感じがちだとしても,権力奪敢後の準備のため,経営管理の主体性を確保するために,経営能力養成のために,反革命への歯止めとなりうるために,労働階級の教育的・政治的な自已訓練のために,直接民主主義の保持のために,労働組合員の向上を目指す,不断の実践と労働組合運動の拡充とを平均点の高い現実的な歩みと考えた。不断の実践は,宇宙的人間観に立脚するひと筋の人生観や世界観により人間的情熱,正義観そして勇気に裏打ちされてはじめて本物となる,と考える。

 (B)ラッセルの所見と争点の対応関係
 現代社会主義論争の主な争点の一つとして,政治・経済・文化の三領域に及ぶ「集権主義か分権主義かの問題」が考えられる。ソ・中・ユーゴの三国をこの視点から対比してみたい。

方式別→集権主義分権主義

国別↓
政治面
経済面
文化面
政治面
経済面
文化面
ソ連プロ独裁
[前衛党の執権代行]
国有・計画
統制方式
[生産性向上の為利潤導入制を実施]
思想統制・
検閲徹底
中国プロ独裁 計画経済思想指導党指導と官僚主義批判の大衆路線との並行利潤導入制でなく,社会有による人民公社方式で生産性向上を計る大衆奉仕精神・社会意識の深化・拡充を目指す
〔文革・永続革命論〕
ユーゴ
プロ独裁〔前衛党官僚〕批判,直接民主主義の拡充を目指す。社会有と利潤方式導入による労働者自主管理の実践
〔企業エゴによるインフレの危険あり〕
全労働者連合体は自主管理と国家統制との二重構造の解消の為,労働者の政治・経済・文化面の質的向上の教育訓練を試みる。

 これら三国の対比と無縁でないユーロ・コミュニズムについて付記しておく*23
「ユーロ・コミュニズムは,市民的・政治的自由の擁護・多数政党主義よりも高く,より包括的な野心である。それは,今日共産主義の大きな裂け目と思われるもの,即ち社会主義の計画の出発点に自由を組み入れる能力の欠如を克服するということである。」〔p.31〕(下線筆者)

「今日では'独裁'という言葉は,われわれが望んでいるものに対応していない。それは,われわれの希望やテーゼに反する容認しがたい意味合いを含んでいる。」(ジョルジュ・マルシェ)〔p.52〕
 プロ独裁を'放棄'したと言われ,ユーロ・コミュニズムの一員である仏共産党は,自主管理を公約する仏社会党との連合政権を目指す協約を締結した後で,国有化問題で社会党と分裂した。'放棄'が分権指向を示すものか,'権力掌握への世界的戦路'の姿勢なのか,部外者には,真意不明である。唯次の点は内輪にみて事実かとも思われる。
 ラテン民族の発想体質と市民社会の伝統に由来する大衆の意識が潜在的に西欧にあって,1960年以降白由への願望や労働者の自主管理方式への大衆の傾斜が強いため,左翼政党も無視できなくなったという事情である。

 サテ,集権主義と分権主義との問題について,いづれかに適格性を認める根拠はどこにあるのか,その論拠を支える要素が何であるのか,また,社会主義論にこの視座は不可欠なのではないかなどが考えられる。
 実は,ラッセルの社会主義論と現代の争点とがかみ合うのは,ここにあるからである。
 人間がひとり山の中で生きる限り,集権も分権もないだろう。(人間にどんな衝動や本能があるとしても。)
 人間の集団が,ある目標達成の効率向上を制度的に保証させたいと考える時,集権か分権かの択一あるいは適性な対応姿勢が考えられる。両者には人間と制度との函数的関係がある。それはある事象の末端・外表部分への対比的呼称でもある。その事象の内奥に,人間,集団,目標達成,効率向上,制度的保証などの要素とその下位項目とがある。それらの組合せや比重のかけ方の差によって,その経過と結果とに対比的認知・呼称が可能になる。
 ラッセルには,社会主義を考える場合,焦点を政治・経済の面に傾斜し,局限化する思考法は許されない。政治的分権よりも,経済的分権を重視した*24。目標と人間と制度とのそれぞれの内面構造がもつ論理と相関の論理とを抜きにしては意味がなかったのであろう。性急な制度的変革で事柄が着実に前進すると思われなかった。人間を洞察し,社会科学の根本命題である'権力衝動'の実態を無視し,制度的権力奪取と集権主義とで楽観的に青写真の夢を抱けなかったのである。
 ラッセルの人生論や社会科学関係のそれぞれの主題の下に著わされた20冊余の本の中に,彼の社会主義観が散見される。彼が社会主義の本質を構成する素因を分析し,主題別に焦点を絞って,再構成している。それらの素因の関連を太い線で結んでいるのが,彼の人間論と(集団や制度の面から観る)権力論とである。ひとりの人間が他の人間を自已の意のままに支配しようとする能力,人間が生得の衝動,つまり`権力衝動'が公私両面の生活の中で,政治・経済・文化の三領域に浸透し作用する。しかも,その衝動が多様な表れ方を示す人間の実態とその人間集団を包む制度との函数関係があって,その先端に集権主義か分権主義かの現れ方をする内部構造がある。その内部構造は時間・空間・本能・集団・制度という要素の太い紐で結ばれ,網のようにからみ合っている。
 ラッセルは『資本論』の分析や『共産党宣言』の協同社会へのユートピアを高く評価している。しかし,彼の人間論と権力論とは独自の射程をもつ。'オッカムのかみそり'式の彼の思考方式,その分析性と綜合性とは,名目的な指標であるプロ独裁と現実的実態である前衛党の執権代行方式とに対し,権力論からそれらの有効性を信用できず,楽観的に謳歌できないで,変質化を見抜いていた。
 つまり,権力衝動の半面から強権的に集団を統率しようとしても,統率者の変質が現れ,他の半面から強権的に統率された集団の反発が自由のために,分権のために自主的連合体を指向する。実力行使は一面的短期的効果にすきず,必ず連鎖反応を呼び,結局不毛の手段に終るに似ている。
 集権にも,分権にも限界がある。その限界を生み出すものは,実は人間自身に厳存するものの恐れである。人間個人と集団との環境のちがいによって,集権主義の効率のよい場合もある。物質的・有形的に後進的な人間集団が,ある段階に至るまでは有効であるが,無形的な発意や創造性などが特に要求され,有用に働きうる先進国では分権的協力参加に効率のよさが生れ易い。しかし,分権的協力参加の生かしうる環境集団であっても,構成員全体の知的・倫理的・技術的な面で民度が低い時は分権はむしろ不毛性につながり易い。具体的に個と集団とが民度の低い社会意識や連帯性に敏感でない関係では分権の効率は低下し易い。社会主義化過程に函数的要素が内在し,民族差が出るのも当然である。
 しかし,集権主義は民主化の芽を断ち易く,それは権力の魔性のなす業である。制度的に完成するとやがて老化と自已崩壊か,他からの圧力かで崩れる外ない。分権の欠点,自主管理が集団エゴになり易く,全体的協同性を傷け易いのは,個の向上訓練による外対策はない。目常訓練による外ない。集権主義秘密主義の権力斗争よりも,公開自主選択決定と責任制の政治的訓練に従うところに,人間の協力衝動を平常化するメリットが分権主義にはある。分権主義は自主管理の適格性を補足するための教育実践の裏打ちが不可欠となる。以上の事情は,ソ,中,ユーゴの現実が物語っているところであるまいか。この事情をふまえると,平凡で,読者に刺激的でないラッセルの言葉が出てくる。
「'革命'が絶対に不必要だと言い張るつもりはないが,'革命'が黄金時代への近道にならないことを判ってもらいたい,と思う。」
 また,社会改革の内面構造を'トータル'につかむと,次の表現になる。
「個人的にせよ,社会的にせよ,'善い生活'への近道はない。」
 社会主義は人間の協同社会,分権,人間解放を離れては無意味とするならば,個人と制度との相関性を,権力衝動への教育実践の体系がもつ相補性を生かすプログラムがない限り,「知性と良心の唯のデッサン」となりかねない。この所は次の言葉になってくる。
「'善い生活'を築きあげるには,知性と自制心と同情心を身につけねばならないからである。これは量的な問題であり,漸進的改革と幼年期の訓練と教育上の実験との問題である。唯,性急な心情から,突然の改革の可能性を信仰するように一部の人々が早まるのである。」
 要するに,強権による集権主義は部分的には有形的・物質的生活水準の底辺向上に役立ち易いが,無形的精神生活の向上には限界を生み易い。それは人間の権力衝動の方向づけを怠り,抑制の体制の故,人間の協同性,自発性,創造性の育成を制度的に抑圧する反民主的実体を作り易い。また分権主義や自主自治方式の成否は,個の実状によってその鍵を握られる。集団を包む制度と集団が包む個人の実体との分権的調整が社会主義の目標達成への条件である。だから,1920年訪ソから帰ったロシア革命論の中で,「社会主義への道の成功は,労働者の自主管理と労働者の自覚的向上の実践にかかる」と確言していた。1952年(スターリンの死亡の前年),BBC放送で,英・仏の勤労者が自主管理と連合制とを復活させる必要を強調している*25

むすび

 社会主義は資本主義の矛盾の解明とその対策である。知性と良心に支えられた来るべき人間社会の青写真である。しかし,資本主義は人間衝動の動物的・権力的な衝動が技術革新を組み込んで展開して来た。そこには,本能的自然さがあった。しかし,社会主義は知性と良心とに根ざす(これも人間の衝動の別な面であるが)意図的実践である。人間の解放と向上とを目指す実践であるところにある困難さと未来性と創造性とか背負わされている。高価な実験の意味がある。従って,より犠牲を少く,矛盾した結果を生み出さない思考が義務として要請される。
 社会主義論には一層トータルな検討が必要である。中・ソ・ユーゴの対比からも指摘できる。
 ラッセルには1920年に明確であった内容が世界の現実的事象と成るのに半世紀以上かかっている。その間に,いろいろの実例,貴重な実験的犠牲があった。それが何故もっと早く,集権と分権との公理的な内面関係が流布しなかったのだろうか。特に,日本において,高価な人的犠牲が払われてきたし,まだそれが終っていない。最近,ソ連共産主義への心酔から夢醒めた知識人の反省が散見される。勿論,それにはいろいろの事庸もあった*26
 ここで,筆者もふくめ,反省的に指摘したいのは,外国思想・技術の学習姿勢と直輸入的姿勢への反省である。それが社会的公害源となり易いからである。
「マルクスは資本主義の分析の結栗,こうなるであろうと,慎重に禁欲的に予想を示唆した。この執筆態度は解釈の多様化と混乱の原因ともなった。この点に深く反省する必要を感づる。」*27
 大内力教授のこの良心的発言に敬意を表したい。
 直輸入の公害性の実例はこれ以外の領域にも甚だ多い。理解と適用との段階で,何事も原点に立ち,主体的に,分析と綜合とを忘れない合理的懐疑精神をもちたい。文化的背景,国際環境,国民性あるいは民度への注目を怠る社会主義論争は,妥当な外国思想・史実の理解に立っていても,百害あって一利なき公害源でしかない。筆者自身,ラッセルの社会主義論にふれ,考え方への反省を教えられた次第である。

[注]
*1 「久野収・岸本重陳:緊急対談-日本人の9割が中流意識に甘えているのはおかしい」〔週刊ポスト 昭52.11.25〕
*2 久野収「日本の知識人に与えた思想的衝撃の軌跡」/特集「ソ連・革命60年」[『朝日ジャーナル』増大号 1977.11.4 p.28以下〕
*3 『政治学辞典』pp.130~601(=大河内一男)
*4 *3に同じ,岩波小辞典『社会思想』第2版 p.39(=大塚金之勒)
*5 *3に同じp.535.
*6 大内力(編)『現代社会主義の可能性』第1章「社会主義の基準」(p.11)
*7 『五つの共産主義』(上・下)〔岩波新書版〕
*8 新谷,足立,佐久間,原田(共著)『ソ連は社会主義国か-モスクワ留学生は語る』[青年出版社,1951]
*9 『政治学辞典』[平凡社] p.891
*10 高木雄郷「ユーゴスラヴィアにみる後進国革命と労働者自主管理戦略(特集「自主管理と社会主義」)」[『現代の理論』1974年9月号]p.66.
*11 *10に同じ
*12 菊地昌典(著)『人間変革の論理と実験』[筑摩書房]
*13 小寺山康雄「労働者評議会の思想-先進国革命戦略と労働者評議会(特集:自主管理と社会主義)[『現代の理論』1974年9月号]
*14 *13に同じ.
*15『ラッセル思想と現代』牧野力(著)(研究社,1972)
*16『権力』東宮隆(訳)(みすず書房,1938)
*17『わが信念』(1925)
*18『民主主義とは何か』(1952)
*19『自叙伝』第1巻「ロシア」
*20 *13に同じ
*21『ボルシェヴィズムの実際と理論』(まえがき,第1章)(1920)
*22 *21に同じ
*23『ユーロ・コミュニズム』(岩波新書 34)
*24 What I think more important than polltical application is an industrial one of the same sort of principle: Devolution (What is Democracy ? IV).
*25 Before the First World War this idea of devolution was advocated in somewhat different forms by syndicalists in France and by guild socialists in England, but the Russian Revolution captured their imaginations and they went helter-skelter for state socialism, and bureaucratic autocracy. They thought rather foolishly that if the bureaucrats were former rebels all would be well. The result was not only Russian autocacy, but also a complete failure of movements of the Left in the West to stand for the things that they had formerly valued. It is time to revive the aims which progressive people set before themselves in the days before the Russian Revolution. It is only in so far as this is done that Western democracy can be sure of remaining democratic. [(C(cf. *24)]
*26 『現代ソ連論-史的考察と理論分析』まえがき(菊地昌典,筑摩書房)及び上掲*12
*27 八王子大学セミナー主催「現代の社会主義」共同セミナー(1953.1.13)