牧野力「バートランド・ラッセルの宗教論」
* 出典:『(早稲田大学政経学部)教養諸学研究』n.54(1977年2月)pp.63-78
* 牧野力:当時早稲田大学政経学部教授、ラッセル協会理事
目 次
まえがき(宗教論のむづかしさ)
I.(ラッセルの)虚像と実像
(1) 虚像-無宗教人ラッセル
(2) 実像-自由人の信仰
II.ラッセルの新興宗教批判
(1) 教会と共産党
(2) 暗黒時代の再来
あとがき(若者と主教)
1.まえがき(宗教論のむづかしさ)
宗教について論議するのは大変むづかしい。宗教の定義は,文都省宗務課で作った「宗教の定義集」には104の定義があげられているそうである。(『宗教学辞典』東京大学出版会1973年p.256) Leuba J. H. はそれぞれの観点に従って,主知的,主情的,主意的(あるいは実践的)と三つの類型に分け,考え方の多様性と一面性の両方が同時に観取されると,述べている。宗教の見方や定義の仕方のタイプなどで多くに分れよう。次にその定義を列記してみよう。
○無限なるものを認知する心の能力--Muller
○存在の一般的秩序に関する概念の体系化--C.Greetz
○ひたすらなる依存感情--F. E. D. Schleiermacher
○人民の'阿片'なり-K. Marx
○いのちの拡充--石橋智信
○神とは空想において満足させられた人間の幸福衝動である--L. A. Feuerbach
○われわれの一切の義務を神の命令として認識することである--I. Kant
○人格感清的行為である。一J. H. Leuba
○理屈で通らぬところに落ち着くより外なし--鈴木大拙
○最も狭義には,単純に霊的存在を信仰すること--R. Taylor
○'絶対精神'の自己意識,哲学が概念の形で有する思想内容(絶対的実在)を,表象の形式によって表したるもの--G. W. F. Hegel
○個人叉は社会が,かれらの利害と運命とに対して,究極的支配を有するものと考えている力に対する,かれらの真剣で社会的な態度である--J. B. Pratt
○自己以外で,かつ自己以上のあるものにあこがれ,みずからこの力の下に生きることを意識し,これと接触することを渇望することである。--C. P. Tiele
○人類の精神が自己の有限なる生命力以上に何か偉大なる勢力の顕動せるを渇望憧憬してこれと人格的交渉を結ぶ心的機能の社会的人文的発展なり--姉崎正治
○自己の依属すると考える理想世界が実在すると感じる時に成立するもの--W. Wundt
○神(宇宙の根本)と人との関係である--西田幾太郎
○正義を行ない,仁慈を愛し,同胞を幸福にすることである。--T. Paine
(ラッセルはこの最後にあげたトマス・ペインの定義に共感している。)
以上の定義は,読者にいろいろの印象を与えたことであろう。どの定義ももっともな印象を与えるが,ある一面をつかんでいても全体を尽しているかと考えさせる。'群盲象を撫でる'観もしないでもない。ここに,宗教のむづかしさがあるような気がする。それは何故であろうか。
一般に,神や仏に用のある者は老人・病人・苦悩者だと考える人が多い。しかし,宗教は彼らの独占物なのだろうか。
宗教は「人間存在」の全面に関連する問題だと思われる。
宗教的心情に目ざめさせたり,かき立てたりするものとして,人間のある状況が類型的に指摘される。老人,病人,苦悩者がこの中に入るにすぎない。しかし現実の「宗教」は人間生活に恐ろしい影響力をもち,組織化,集団化の目立つ今日は特に,個人・社会・世界に及ぼす力が強いから,戦争や革命などに似た拘束力や破壊力をもつようなたっている。だから,老人・病人・苦悩者の独占物と考えられなくなっている。
そこで,改めて,'現代人は「宗教」を見直す必要にせまられるのである。ラッセルはこういう観かたから,宗教を論じている。
宗教が人間存在の全面に関連しているというのは,(イ)人間自身の内部問題つまり自分自身の心情の働きの面の問題,(ロ)人間自身の他者(あるいは社会)との関係という外部問題つまり対人関係や環境(社会・世界・自然・宇宙)という場との面の問題,(ハ)個体性と社会性との,あるいは人間対自然との関係の相関性や相即性の面の問題,(二)個々の精神的安定から他者の救済へと移行する面の問題などが宗教に関連する。
更に,これらの問題領域に対接する本人の体質的性格差が観取される。それは上記の諸定義の中からも抽出される点であるが,(a)思弁的性格の多様性,(b)一面性を示す分析的なところだけでなく,全面性に及ぶ綜合的なところへの配慮の必要性,(c)宗教的心情や信仰に付随する超論理性などが,論議すべき問題を複雑にしてゆく。だからむづかしくなるのである。
ひと言で言えば,宗教が人間存在の全面と相即的に関連している以上,心情的に一面性に走らないように,全面をつかむという姿勢をくずささないためには,分析位置づけ,綜合の心掛けが常に要請される。その点で,ラッセルはどういう考え方をしていたか,それに順次ふれていくことにする。
I.虚像と実像
(1) 虚像:無宗教人ラッセル
ラッセルは無宗教の不信心者とか,無神論者とか,「アカ」とか,評される。(共産主義者からは,ブルジョア哲学者にすぎない,と評されるかも知れない。)
「ラッセル卿,あなたも宗教的衝動をお感じになったことがありますか。」という手紙の質問さえ受けている。それには思い当るフシがある。彼は,『なぜ私はクリスチャンでないか』という本を発表した。ある人からは,冷血漢の'無神論者'と評され,他の人々からは,教会に毒舌を吐いたり,キリスト教会制度の有害性を指摘したりしたことで,毛嫌いされたのである。だから,平凡な普通人の頭からすれば,宗教に無縁な否,反宗教的な人間としか考えられないらしい。更に,八十歳のくせにデモの先頭に立ったり,核禁集会で演説したりするから,「アカ」というレッテルをはられるのかも知れない。
しかし,これらは真実を伝えるものであるよりは,受けとる側の人々の短絡でもあることが多い。次の実像の所で,判明するが,彼には,結局,無宗教者と言い切れない点がある。これは自叙伝の「まえがき」を読んでもらえば,わかることである。
また,第二次大戦後,濠州(注:オーストラリア)に講演行脚に出た時,質問されて,「宗教とは安心立命を得るために多くのナンセンスを信じようとする欲望であり,つまり臆病な者を釣るための餌として考案されたあらゆる形態の信条である。私が気にくわぬのはこの臆病さと'不正直の要素'である。お祈りをすることは,宇宙を支配する存在が,われわれの懇願によって気持を変えるものだと信ずるのと同じである。」と答えたりした。*1
1958年3月18日の彼の返信の中で,「自分自身を,時には'無神論者'と呼び,時には'不可知論者'と呼びます。哲学の見地から厳密に言って,物質的な対象の実在を疑ったり,世界は五分間だけ実在するにすぎなかろう(→過ぎないかも知れない)と考えたりする次元で言えば,私は自分を不可知論者と呼ぶべきです。しかし,あらゆる実際上の意味から言えば,私は無神論者なのです,と述べている。*2
では,ラッセルは真実には,果して無宗教者か無神論者か,宗教と人間とをどう思っていたのだろう。
*1 バードランド・ラッセル『情熱の懐疑家』(みすず書房)
*2 『拝啓バートランド・ラッセル様』(講談杜)
sono2
(2) 実像:「自由人の信仰」
ラッセルの宗教論を語る時,多くの人々の引用するものの一つは,「自由人の信仰」(1903年,「インディペンデント・レビュー」誌掲載の論文)である。そして,1962年5月13目付の彼の返信の中で,`「自由人の信仰」と題したエッセイの中で,私の立場を十分に説明してあります。'と書いているから,晩年に到るまでこの論文には意味があると解せられている。この論文の文体は後年の彼の名散文の特色とちがった所謂'美文調'であることでも有名である。荘重な美文調とでもいうのであろう。
(その要旨を引用してみる。)
「人間の起源,成長,希望,恐怖,愛,信念,等々のものは,さまざまな原子の偶然的な配列の帰結にほかならない。・・・。
人間は太陽系の広大な死のなかで絶滅すべく運命づけられている。・・・。
全能だが盲目である自然が空間の深淵をただいつまでもかけめぐっているうちに,ついに人間という子供を産んだことは奇妙な神秘という外ない。その子供は,なおも自然の力に従属してはいるが,洞察力という天分をもち,善悪の知識をそなえ,考えることをしない母なる自然のあらゆる所業を判断する能力をもっている。この自由は人間にのみ属するものなのだ。・・・
行動においても,欲望においても,われわれは永久に、外部諸力の圧制に服せざるをえない。しかしながら,思考力において,また抱負において,われわれは自由なのである。・・・。
暗黒の諸力とのこの闘争に勝利することは,英雄たちの栄ある仲間に入るための真の洗礼であり,人間存在の征圧的な美にわけ入るための入門式である。魂が外部世界とこのように畏怖に満ちた出会いを演ずることから,自制と英知と慈愛が生まれる。その誕生とともに,新しい人生が始まる。抗し難い諸力によって人間がそのあやつり人形とうつるその諸力--つまり,死と変化,呼びもどせない過去へと封じ込める力,虚無から虚無へと盲目な宇宙の動きの前での人間の無力さ--を魂の内奥にとり入れること,そして,その諸力を感じかつ知ることは,それら諸力を征服することになるのである。・・・。
人間の人生はそれを外部的にながめた場合には自然の諸力にくらべて小さいものである。・・・。
時間や運命や死がどれほど偉大であるとしても,それらについて多く考え,それらの情熱なき壮麗さを感じとることは,もっと偉大なことである。そして,そのような思考こそがわれわれを自由な人間にさせるのである。・・・。
私的幸福への'闘争'を棄て去り,'はかない欲望'のあらゆる'執着'を霧散させ,永遠なるものを求めて,情熱に身を焼くことこそ,'解放'なのであり,また,「自由人の信仰」なのである。この解放は運命を冥想することによってもたらされる。・・・。
自由人は,あらゆる紐帯のうち最強のもの,すなわち'共通の運命'という紐帯によって同胞と結合し,新しいヴィジョンが日々の仕事に愛の光を投げかけながら,常に自分とともにあることを見出すのである。人間の人生は,闇を通り抜ける長い旅路である。・・・。
自分の外的生活を支配する気まぐれな圧制から,精神を自由に保ち,抗し難い諸力を誇り高く無規し,意識なき力の蹂躙にもめげず,自己の理想の形成する世界を孤独に支えること,それのみがわれわれに残された道である。」*3
*3『世界の大思想』第26巻(河出書房、市井三郎訳)
ラッセルは1927年に「自由人の信仰」に次のような付言をしている。
「根本的には宇宙における人間の立場についての私の見解は今も同じである。しかしもし私が今日書いているのだとすれば,多少修正したい二つの点がある。第一は唯物論に関するもので,第二は善悪の概念の範囲に関するものである。」
この頃の彼は,唯物主義的なものとみなされる唯物論という用語に対し,次のように注をつけている。
「形而上学的に言えば,私は決して,物質の'実在'を信じてはいない。物質というものを日常の目的にとって便利な,しかも物理法則の大体の記述のための'論理的構成'であるとみなしているにすぎない。・・・。相対性原理の物理学では,終局的に存在するのは,過ぎ行く'出来事の世界'であって,これはある法則によって共存し相互に継続するのである。垣久的な物量というものがあるのではなく,「力」と呼ばれるような実体があるのでもない。物質を持続するとみたすことは,個人的な精神が持続するとみなすのと同様,想像的な誤謬である。
私がこのユッセイを書いた当時,善と悪とがいわゆる「客観的」なものであると私は信じていた。今や私は,善と悪とは,いわゆる「主観的」なものであると信じている。」
「自由人の信仰」のラッセルの見解によれば,宇宙の深淵の中で偶発的な人類の誕生は宇宙の存在と運命を共にしなければならない。その宇宙の真相は完全には判らない。人類は個体的にも死すべきものであるという宇宙における'悲劇的宿命'を背負う徴小な存在である。唯,考える能力がある。悲劇的宿命を観得する時に人間は'拘束'から'自由'に解放される。その時,同じ宿命の不安におののく仲間のいることを知る。この宿命を負わせた主が誰であるか不明である。知るべくもない。心で想うだけの'不可知の絶対者'を想定して,願をかけ,一切の精力をかけることよりも,同じ運命の者同士の連帯感と仲間意識に目ざめ,手をつなぎ,生き抜こうとする勇気にこそ,宿命におののきふるえる徴小なる人間のとるべき道がある。そこに宿命から少しでも解放されうる'自由人の歩く道'がある。これが'自由人の信仰'である。たとえ,宿命の長い旅をつづけなくてはならないとしても。
この'宿命への連帯感と同胞感'とから明知と寛容が手をつなぎ合い,生き抜く勇気に期待をかける心情がラッセルの生きる信条であり,彼のヒューマニズムの基盤になっているように思われる。
ここで注意したい。人間として,'不可知な絶対者'に帰依するのではなく,隣人との連帯感・同胞意識の'自覚'に出発する生き方を選ぶことである。'キリスト教の隣人愛'の発端と異なった心情があるという点である。不可知な存在へのある思弁の過程とその思弁論理の成果とは逆で,ラッセルの'隣人愛'は,人間自身に直接的かつ相即的である。神を媒介にせずとも,少くとも隣人への連帯感と同胞意識が保証されるのである。それは,主情的信仰よりは主知的自覚であり,祈りであるよりは人間自身の勇気と責任である。(ここである人は人間の有限性,もろさや愚かさを指摘するかも知れない。) 神からの救いに依拠するより,同類者の団結に立脚する意味でそれは'人間主義'である。彼の民主主義論も,社会主義論もそれに貫ぬかれている。この人間主義は'明知と寛容と勇気'とに支えられてゆくものである。この三つの要素に依拠するかぎり,科学と対立する心情は起りえない。
ラッセルのキリスト教批判の中心は,その教義,教会及び制度から生れかつそれに貫ぬかれやがて人間性疎外へ通ずる信仰という仕組みの中に見られる深い思弁過程,それらの結果として現れた反人間的・反社会的害悪への攻撃である。だから,人間存在に相即する同胞意識や隣人愛の実践者に,たとえ心情的経路にちがいがあったとしても,毒舌を吐いた例はない。シュワイツァー博士との交友はそれを裏書きしている。
不可知な絶対者への想定を媒介にするのを,臆病な心情とみなし,明知と寛容と勇気とに立脚する相即的心情が彼の隣人愛である。
「私は普通のキリスト教徒より,キリストの隣人愛を実践している」という意味のことを述べているが,それは彼の勇気の実践であり,そうなる背景の心情は彼の自叙伝のまえがきや年譜から明らかに読みとれる。
キリストとキリスト教,あるいは宗教一般についての彼の見解の詳細は,(枚数の都合上ここでは省略するが)『なぜ私はキリスト教でないか』及び『宗教と科学』に明示されている。
1962年5月の手紙の中で,人間の知的勇気の欠如と人間としての責任の自覚とについてこう書いている。
「拝啓ミス・シナラ様
お手紙有難う存じました。'仏陀'は自分の思想が,独裁的な僧職をもつ無味乾燥なありきたりの宗教にまで零落することを欲しなかったという点において,貴女は全く正しいのです。私が考えますのに,こういう点で仏陀は例外的な存在だと思います。過去数千年の間たくさんの宗教的導師たちが,自分たちが最高至上の実在体と考えるものを求めてきたという点については正しいかも知れません。けれども彼らの多くは,この実在体を一つの人格という形で表現したものです。その人格は、人間を支配する権力をもつものと考えた人格なのです。そして,その権力というのは、彼らが小さい子供だったころ自分の父親が確かにもっていると思われる権力なのです。
人々はこの世が'苦難の場所'だということを知っています。そして,多くの面で怖がっているのです。彼らは自分たちのそうした問題に対処することができないと思っています。それから,また,事故や病気や死や不幸が起ってくる可能性にみたされながら,自分たちの敵対している環境の中で,孤独でいる恐怖に面とたち向うことはできないと思っているのです。その結果,彼らは神という強力な存在を発明します。
これは勇気を欠いているということに私も同感です。神なるものを信じた多くの宗教的指導者たちが迫害に直面して一種の個人的勇気を示したことは事実ではあるけれども,彼らが神という架空の神話の慰めのない世界に面とたち向う'知的な勇気'を欠いていたと,私は信じます。と申しますのも,とどのつまり,われわれに関する事柄で重要なのは,人間としての責任ということです。〔下略〕」
以下,彼の書翰集から,関連項目についての彼の発言を引用記述してみよう。
「全般的にいって,過去に行われていた信仰は'残酷'でもあり,無知でもあったとわたしは思います。1953年1月3日」
「思考を麻痒させる迷信的なものとしての宗教の性質は自明のことのように思われます。1959年12月3日」
「ある種の宗教的教育は絶対必要だとする意見に私は賛成しません。あらゆる宗教が少くとも部分的には,何らの証拠のないものを信ずることから成り立っていると考えます。1964年12月2日」
「宗教がわれわれの道徳律を保持するための責任を負っていることは事実です。その道徳律は聖書を根拠としたものでした。1966年4月27日」
「ほとんどの聖職者たちは,'山上の聖訓'で教えている平和主義を拒否して,自分は平和をもたらすためではなく,剣を投ずるために来た'というキリストの句を喜んで受け入れるのです。1960年6月16日」
また,晩年のテレビ問答(対談)の中で次のように彼の宗教観を述べている。*4
*4『ラッセルは語る』(みすず書房)
宗教の有害性:
宗教は大きな害毒を流してきたと思います。保守的なやり方,古くからの習慣を忠実に守る態度を善いとし,更に,不寛容と憎しみとを善いとすることによって,そうなったことが多いのです。宗教の中にどの位不寛容が入りこんでいったか,特にヨーロッパでは,それは全く恐るべきものです。
自由な考え方を妨げる思想統制:
キリスト教の国々と共産主義の国々では,種類がちがいます。双方ともあることを教えていて,その教えられているものの証拠は公正に検討されるわけではなく,児童は反対側にどんな言い分があるか,知るように心掛けよ,とは言われていません。
宗教を必要とさせたものは何か:
大体'恐怖心'と思います。人間はどちらかと言うと自分を無力と感ずるものです。人間に恐肺心を抱かせるものは三つです。(イ)自然の人間に対する猛威〔例,地震,落雷〕(ロ)人間同士のふるう猛威〔例,戦争〕(ハ)宗教と関係のある人間自身の激情〔例,迫害〕
組織宗教に人心掌握力があるか:
それは人々が社会問題を解決できるどうか,に懸っていると思います。大戦争や大抑制や極めて不幸な生活を送る人々が多くあり続けるとすれば,恐らく宗教もあり続けるでしょう。'神の慈悲に対する信仰は証拠と反比例する'というのが,これまで私の観察してきたところだからです。・・・。人々が社会問題を解決すればそれだけ宗教は消滅するだろうと思います。その例証はいろいろ歴史の中にあります。
霊魂の不滅を信じますか:
死ねば完全になくなってしまうと思います。
そうならぬ訳が判りません。肉体は分解するということは判っていますし,肉体が分解してしまっても,精神が存続すると想像すべき理由はまったくないと思います。
ラッセルは既成三大宗教,特にキリスト教への批判の外に,宗教性を帯びた新しい宗教の出現に警戒の目を光らせた。
sono3
II ラッセルの新興宗教批判
(1)教会と共産党
中世のキリスト教会以来,教会は宗教裁判を通じて,科学の発達を妨害した。それは,教会の独断性,独善性,絶対化,教条性,排他性,煽情性及び迫害性という性格によるものである。この性格は,近代において,その外見は中世のキリスト教会と異っても,その組織団体の指導者叉は構成員にそのような性格が充満していれば宗教である,とラッセルは指摘する。しかし,人間を資本の論理や拘束から解放し人間性をとり戻した生活環境を実現しようとする社会主義あるいは共産主義の組織団体に,その宗教的性格を見て,1896年出版の『ドイツ社会民主主義』の中で,マルクス主義の実践過程の特色に宗教的性格を見て,次のような対比表を示した。そして,この考え方は,1920年の訪ソの所産である『ボルシェヴィズムの実際と理論』(1920)の中で更に明確な記述となっている。
キリスト教 共産主義
エホバ プロレタリアート
教会 共産党
再来 革命
地獄 資本主義社会
千年王国 共産主義社会
ヴァチカンとクレムリンとのこの対比表は別としても,独断性,排他性,迫害性の色濃いボルシェヴィズム(ソ連型共産主義)の宗教的性格に着目するのは必ずしもラッセル一人ではないかも知れない。
第二次大戦後,思想的にソ連型共産主義の系列下に分類されるマルクス主義者,いわゆる正統派マルクス主義者に対し,批判的であるマルクス主義者が西欧に現れている。後者は前者に対し,マルクス主義の理解乃至解釈の点からみて,共産主義が宗教化する危険を警告している。それは,唯物論あるいは物質への認識あるいはマルクス主義の見方において,人間の主体性を切捨ててしまう唯物論や実質的には啓蒙的な合理主義を出ないマルクス主義の解釈にあるらしい。*5
*5 竹内良知『マルクス主義の哲学と宗教』(第三文明社,1976年)
「マルクスにあっては,意識は感性的対象的に活動する社会的存在としての人間が現実をわがものとして獲得する活動の一形態なのです。意識は人間が自然を approprier し,自分と自然とを媒介的に統一する社会的労働に根をもち,人間の主体性の契機となった,人間の感性的活動の一形態です。もし世界を即自的な物質に還元して,そのような物質的自然が弁証法的法則をもっていると考え,意識や思惟をそのような物質の反映だとみなすのがマルクス主義であるとしたら,マルクス主義も現実を「実践として主体的にとらえる」ことのできない唯物論になる。つまりマルクス主義は人間的なもの,主体的なもの,人格的なもの,歴史的なものを一切緒め出してしまう形而上学的唯物論になってしまう。否,むしろ神学的唯物論になり,弁証法は可知性の根拠のないいわば物質という絶対者の「摂理」になります。
マルクス主義がそのようなものであるならば,マルクス主義は宗教を理解することも,宗教に意味を認めることもできなくなります。もしマルクス主義と宗教との間で対話が行われるとしても,そこでは神があるかないかという議論が平行するだけです。
つまり,両者の間には,実は,'対話'ということは成立のしようがないわけです。というのは,互に否定しあう外ないからです。しかも,それは抽象的に否定しあうだけですから,両者の対立の決着をつけるには,相手の存在を絶滅させる外ないということにならざるをえなくなりましょう。だが,その時には,マルクス主義もいわば一つの宗教になってしまっていることになります。」(p.66太字筆者)
「しかし,人間の自已創造の立場に立ち,宗教も人間が作るものであるみなすマルクス主義は決して宗教と対立するのではなく,宗教を無意味なものとして嘲笑もしません。
マルクス主義は,人間が人間と人間世界をつくる歴史的過程を解明しうる立場に立つからこそ,つまり,有神論と無神論とをのり越えた無神論であるからこそ,宗教の幻想性を批判し,その幻想の中に含まれている真実を解読することができます。言い換えれば,宗教がその中に含んでいる社会的人間についての conception を取り出し、そこに示されている人間の現実、人間と人間との真の結合という要求を現実的に実現するための具体的条件を明らかにすることができるのです。
マルクス主義が宗教を批判するのは,信者たちに宗教を棄てさせるためではなく,逆に,宗教的観念のはらんでいる幻想的要素を明らかにして,宗教がめざす深い人間的要求,つまり,真の人間の実現,人間と人間との真の結合という要求を現実的に実現する道を示すためです。マルクス主義は宗教の源泉と宗教がふくむ深い真理を理解し,解明することができるからこそ,宗教を批判するわけです。宗教の源泉を明らかにし,宗教に表現されている人間の深い真実,そこに含まれている社会的人間のつかみ方を理解し,読み解くことができないならば,宗教を批判することはできません。宗教に対する傲慢な否定は決してマルクス主義的宗教批判ではありません。宗教と抽象的に対立し,宗教を否認するだけでは,マルクス主義もまた一つの擬似宗教になってしまいます。・・・。マルクス主義は決して一つの擬似宗教ではありません。」(pp.68~69青の太字は筆者)
以上の竹内教授の見解は,恐らく「正統派マルクス」主義者たちから,非難されるものかも知れない。彼らは,「レーニンのマルクス理解とマルクス自身の哲学思想とのあいだにひとつのズレがあること,レーニンが受け継いだプレハーノフの唯物論はマルクス自身の唯物論とちがって,形而上学的唯物論の性格をもつこと,エンゲルスもレーニンもそしてプレハーノフもへ一ゲルの「マテリーの弁証法」をそのまま書き写して,それに実体化された「物質」概念を結びつけ,弁証法的唯物論を主張しているに過ぎないこと」などを理解しないからであると,竹内教授は説く。(pp.22,23)
「人間の対象的活動から切り離した「物質」を絶対化する唯物論に立っているため,人間の主体性と社会性との契機である意識を具体的にとらえることができず,意識を「物質」の反映とみなすことになるわけです。これにすら,「正統派」マルクス主義者は往々気付かずにいます。」(p.63)
「マルクス主義は,宗教を,人間の一つの疎外形態として批判します。私的所有という社会的生産関係における「経済的疎外」を基礎として成立する疎外された意識の形態として,一つの幻想として,宗教を批判します。」(p.51)
ここで二つの点に留意したい。
一つは,プレハーノフからレーニンに至り,更に,今日に及ぶソ連における唯物論,物質観はマルクスのそれとちがう内容を理解していたこという見方である。
ラッセルは1920年の訪ソで,レーニンやトロッキーなど幹部とも面談し,ロシア・インテリゲンチヤらのマルクスの理解が西欧の知識人とちがう点を知り,驚いたことが自叙伝に出ている。ソ連型共産主義がロシア的精神風土の産物かも知れない。そう考えてよいならば興味深い事実である。そして,上に引用したように,正統派唯物論が神学的唯物論から擬似宗教へと移る危険性のあることを示された点である。
次は,ソ連型共産主義がその impatient philosophy により,中世の教会の宗教裁判を想起させるような,半世紀後の今日でも,有能な警察国家であるという宗教的体質である。マルクスの理念の解釈のちがいと実践方式とにおけるこれら二点は,ロシア的精神風土の反映ではあるまいか。
大戦後のソ連の宗教政策が失敗した事実を背景に行なわれたイタリア共産党書記長トリアッチの有名な演説「宗教的意識の発展にかんしては,われわれは,その根本的変化を規定するのに,認識の進歩と社会的構造の変化だけで十分だという素朴な誤った考え方,啓蒙哲学と十八世紀の唯物論に由来する考え方は歴史の試練に耐えなかった。」という根本的反省も,正統派に致命的な問題点かも知れない。
(2)暗黒時代の再来
ラッセルは1920年の訪ソの結果,ソ連型共産主義(BOLSHEVISM)の宗教性に危機感を抱いた。根本的経済変革に対してではなく,性急な発想と施策に対してであった。西欧の市民社会の知識人として,政治的な権限委譲(DEVOLUTION)の未熟・粗雑さへの忠告であった。マルクス哲学の理解のちがいが示すように,上述の物質観や唯物論,あるいはマルクス主義哲学の宗教批判の解釈にも関連はあるが,ラッセルがソ連型共産主義の理論と実践とに宗教的体質つまり知的独善性,教条性,排他性,及び迫害性を見たからであろう。そして,それが,次の暗黒時代を招く危機感となった。しかし,これは,ボルシェヴィズムのみと考えるよりも,同質の性格を内包する全体主義的,独裁主義的組織体ならば何んにでも適用されると解すべきかも知れない。情意的に世直しの宗教団体に変質する危険への指摘である。
「日本における昭和のはじめ,マルクス主義者側で,戦闘的無神論同盟という形で宗教批判が行われました。……。それはソ連における宗教政策と結びついて行われた運動であったわけです。」(p.12)
「日本共産党が宗教を啓蒙的無神論の立場から,したがって、また「正統」マルクス主義の唯物論、「弁証法的」という形容詞はついているが、実際は形而上学的、いや神学的でさえもある唯物論の立場からしか見ていないことを示しています。」(p.72)
',
「愛の問題を科学的考えによって解決するという科学主義乃至啓蒙主義的合理主義に立っている人が「宗教感情」は尊重しますといっても、愛の問題だって、科学的考えの上で解決しえているという言葉に、私は科学を'物神化'した考え方を見ないわけにはいきません。こうした科学主義的な考え方は「正統」マルクス主義の中に深く浸みとおっています。日本では、とくに強いと思います。そして、このことは日本のマルクス主義が昭和のはじめに、ソ連のマルクス主義を絶対的な権威として無批判に受け取ったことと無関係ではありません。しかもそのマルクス主義は形而上学的な唯物論が形式的にとらえられた弁証法をくっつけたものであって、人間の主体性を切り捨ててしまう唯物論でしたし、啓蒙的な合理主義をのりこえることはできませんでした。むしろ、実質的には、啓蒙的な合理主義にとどまっていました。」(pp.80~81)
「宗教を無意味なものとみなし、啓蒙主義的及至科学主義的な無神論を世界観的基礎とする政党が、「宗教は迷信だが、宗教感情は尊重すると宣言して、宗教と対話しようと呼びかけるとしたら、宗教的信仰をもって人生を真剣に生きようとしている人なら、政党が宗教者を政治的に利用しようとしているのではないかと疑うにちがいありません。そして、実際、最近の日本共産党の宗教政策は、宗教に関心を持つ人々や宗教的信仰を持っている人々を政治的に利用しようという動機に基づいているように思われます。」(p.70)
ラッセルは、ソ連共産主義も宗教団体も、目的が人間解放にあっても、宗教的性格を帯びれば、中世の暗黒時代を再現する危険と警告するのである。
あとがき
(ラッセルの)自由人の信仰は、明知と寛容と勇気とにより,連帯感と同胞意識とにより、宿命の長い旅路を手を取り合って、一歩一歩進むという人間主義の信念である。宗教も科学もその内奥において、生命の拡充であって、人間同士の連帯と善い生活、人間の桎梏からの解放を求めている。
人間の桎梏や疎外の素因は、個性・社会制度・国際関係の領域にある。それらを貫き、その最たる素因は,資本の論理と私有の疎外性にある。個体性と社会性の二重写しである人間は、特に既成宗教家は,よき社会条件の創造を忘れてはならない。そこに人間と宗教との契機があるからである。その解放への営為、創造への活動に、幻覚性、独善性,排他性を(従来の宗教的性格を)持ち込んではならない。手段が目的を抹殺するからである。この宗教的性格は、宗教の本質の外延でしかない。
ラッセルは革命に必ずしも反対しないが、善い生活は善い社会から生まれ、善い社会には、結局、個人の知識・自制・同情が必須となり、それはいろいろと相関相補的関係でくみ込まれているから,善い生活に至る'近道'はない。科学を聡明に使うことが大切であると説く。
’宗教に表現されている人間の深い真実'に若者は触れ,宗教の功罪の分岐点をつかむことは、若者が'生きる'意味の把握につながる。
宗教こそ、若者の生存の契機の一つでもある。(終)