一昨々年(1968年)の暮,ロンドンの Continuum-1 社にフェインベルグ氏を訪ねた時,氏が懇切に編集と出版の構想を話してくれたのが Dear Bertrand Russell であった。それが,一昨年(1969)ロンドンの George Allen and Unwin 社から発行され,つづいてアメリカ版も出た。わたくしは,編者フェインベルグ氏の好意で,日本語訳に当ることになり,それが昨年七月,講談社から「拝啓バートランド・ラッセル様」として出版された。編者は,B.フェインベルグとR.カスリルズの両名となっているが,主として編著の仕事に当られたのはフェインベルグ氏であった。
ラッセルが自ら書き著わされたものとしては一昨年春に出た「バートランド・ラッセル自叙伝第三巻」が最後のものであるが,この Dear Bertrand Russell は,その後に出版されたから,いわゆるラッセルものとしては最後の本となったわけである。ラッセルは,この一書が出ると間もなく昨年二月,この世を去られたのである。
ラッセルは,この書の出来栄を心から喜んでおられた。編集の仕方もいいし,特に題名が気に入ったと言って手放しで讃辞を呈された。あの気むずかしやのラッセルにしては本当に珍らしいことであった。その意味では,まもなく世を去ることになるラッセルにたいするいい贈物になったと思う。また,ラッセルの最後を飾るにふさわしい有意義な仕事でもあったと思う。
この書に集められた内容は,各方面から寄せられた手紙にたいするラッセルの返事である。その意義については,各方面の人々がそれぞれ専門の立場から評価するであろうと思うが,わたくしは特に次の三点を指摘したい。
まず,この書の全編を通して躍如としている「率直さ」である。ラッセルは,歯に衣をきせないで正直に発言することで有名であるが,特にこの書においては,パーソナルな手紙という気安さもあって,彼の普通の著書に見られないほどの率直さをもって,告白したり,論議したり,批判したり,叱ったり,皮肉ったり,椰楡したり,想うことを想うとおりに表現している。ラッセル卿ほどの高貴の身分で,しかも世界にその盛名を馳せた人物で,これほど明け透けに自分の心のうちを語れる人がはたして他にあるだろうかと思うほどである。
次はその交信の範囲である。最高の指導的政治家,一流の哲学者,数学者,科学者,評論家,文学者,ジャーナリストから,学生,青少年,六才の子どもにまでおよぶ。老若男女を問わない。職業と地位の如何を問わない。白人であろうと,黒人であろうと,人種と国籍の別を問わない。権力者であるからといって特に丁重にし,幼児だからといっで粗雑にするということがない。ほんとうに想いをつくし,誠実をつくして返事を書かれた。書くことに彼ほど忙しい身でありながら,無名の学生や幼児にいたるまであれほど誠意をこめていちいち返事を書かれた偉人が他にあるだろうかと思うほどである。
次は,その内容の多面さと重要さである。宗教,哲学,政治,教育,道徳,平和の問題から,老人の関心事,青年の悩み,恋愛,性行為等の人事相談にまでおよぶ。信仰に迷っている人,時局を憂えている人,学生との対話の断絶に困っている教授,性教育をどうしようかと思い惑っている両親,夫婦の不和に苦しむ家庭,異常セックスの悪弊に悩む人,平和のアピールをしたいがデモの仕方がわからないで困っている学生,失恋した傷心の学生,オナニズムに陥ってふさいでいる青年……そうした人たちからの問いにたいする解答を,ラッセルは,懇切丁寧にしかもわかり易くこの書の中で与えている。人類の存亡にかかわるような世界的な大問題から,一人の人間の私事にいたるまで,また,真理に関する深遠な哲学思想から,身辺の小さな悩み事や日常の些事にいたるまで,これほど広汎に語ってくれた巨人が他にあるだろうかと思うほどである。タイムズ紙をはじめ四十に及ぶ新聞が一斉に讃辞を呈したし,日本でも「朝日」,「毎日」が推薦の書評を掲げた。「わたしは一日に百通平均の手紙をもらう」とラッセルが語っていたように,受信の量も驚異的ではあったが,いちいちそれに返事を書くラッセルのエネルギーは全く驚嘆のほかはなかった。その中から選択し集録する苦心も並たいていではなかったろうと思う。
ここに集められたのは,年代からいえば,一九五二年の彼の四度日の結婚以来で,交信の完全な記録がエディス夫人の好アシスタントぶりによってほとんど確実に残されていた。それをこの書は,つぎの五章に分類している。1.宗教,II.平和,III.青年と老年,IV.哲学,V.逸話の数々。そして各章ごとに編者のゆきとどいた解説が付されている。そして一つ一つの書簡に,内容をサジェストする見出しがつけられている。若干の例をあげると……人はなぜ神を発明するのか。ヴァチカン対クレムリン。イエス・キリストの自筆の署名。神の版権。世界政府。ペンタゴンと大企業。コインで丁半を決める。第三次世界大戦についてのタイムズ紙のレポート。食養生と長寿。実在の目的。目的と不確定性。善と悪。絶対平和主義。夫婦以外の性関係。道徳の多様性。アインシュタインの神秘的理想主義。フレーゲとペアーノ。クーチュラーとポアンカレー。ラッセルとホワイトヘッドの相異。コンピューター対プリンキピア・マテマティカ。H.G.ウェルズとジョージ・ギッシング。D.H.ロレンス。ラビンドラナス・タゴール。ウィリアム`フォークナーとノーベル賞。コンラッドにたいする情熱。ラッセルの鼻。レッド・ハックル・スコッチ・ウィスキーにたいする感謝のことば……等々。
ついで,内容の一端として往復書簡の文例を二,三紹介すると:…