私とこの本との出合いは、一二~三年前に稲富栄次郎先生(1897-1975)のお宅へ伺ったときである。その本には、表紙をあけた左ページに、The Golden Age, The Present, The Future? の三つの絵が描かれ、その下に The uses of intelligence と記されてあった。黄金時代とは、絶対的権力を持った封建領主が労働者や奴隷を働かせていた時代を、現在とはドイツ軍国主義とロシア共産主義によって代表される帝国主義時代を、そして未来とは原子爆弾に人びとが恐怖におそれおののいている科学時代をあらわしたものであろう。稲富先生がこの絵を示されて、面白いだろうといわれたことを思い出す。ラッセルと私との出合いが本書であったということは、私にとってはまことに意義深いものである。
さてこの『倫理と政治における人間社会』は、彼のながいあいだの思想の総決算ともいうべきものであり、また政治との関連における社会理論の総仕上げであった。それのみならずさらに重要なことは、本書のなかに彼のノーベル賞の受賞講演の内容が盛られているということである。彼はその長期にわたる著作活動が認められて一九五〇年にノーベル文学賞を授与され、伝統にしたがってストックホルムヘ赴いて記念講演を行った。この講演は、人間についての彼の深い洞察の結晶であったと語り伝えられている。この講演においてラッセルは、人間が幸福を追求するためには倫理が必要であるが、その倫理が科学の進歩に対して後進性を持っているので、これを理性や科学的精神によって克服し、伝統的な迷信倫理を打破し、普遍的な人間の欲求充足への道を確立することがたいせつであると論じた。そしてこの内容がのちに彼の倫理思想の集大成といわれる本書となったのである。
ここでわれわれは、ラッセルの倫理思想の輪郭をつかんでおこう。彼はイギリス経験主義に立脚し、H.シジウィック(Henry Sidgwick,1838-1900)などの功利主義の影響を受けて、人間の品性行為における正邪善悪の基準は主観的感情ないし欲求によって決定されるという主観的な情緒主義(Emotivism)の立場をとっていた。ただ彼は、一九一〇年における初期の『哲学論文集』(Philosophical Essays)においては、倫理学の根本概念が善悪の概念であり、それは定義することのできない独特の性質を持っているものであるということを主張した。ここでは、彼の倫理学の立場は客観主義であったということができる。
しかし、この立場はその後しだいに棄てられ、倫理的価値は人間それ自身の感情や欲求をあらわすものであるという立場に変っていく。そして一九三五年に出版した『宗教と科学』(Religion and Science)では、価値に関する問題は、科学の領域外の問題であり、われわれの感情を表現するものであるという主観主義の立場にいたる。そしてこの立場が本書において価値情緒主義として体系化されたのである。
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では本書の内容について考えてみよう。本書は二つの目的をもって書かれており、その一つは独断的でない(undogmatic)倫理学を確立することであり、その二つはこのような倫理学を現代のさまざまな政治問題に応用することである。ここで彼が独断的でないということは、宗教やイデオロギーや狂信的態度を斥けるという意味であり、この倫理を政治問題へ応用するということは、倫理学が個人倫理学から政治学の領域へ進むということである。本書はこの目的に合わせて全体が二つに分かれ、第一部が「倫理学」(Ethics)、第二部が「諸情念の葛藤」(The conflict of passions)となっている。彼は「倫理学」のはじめに、「倫理学は、その基礎与件が感情や情緒であって知覚表象ではないという事実によって科学とは異なる」と述べている。科学的真理は事実に即し、知覚に訴えることによってその客観性を示すことができる。しかし倫理学は幸福や悲哀、希望や恐怖などという人生の問題と密接な関係をもつものであり、それゆえにこそ、その主要な構成要素は感情や欲求であって、その人間の欲求から善悪が生ずるのである。かくて倫理学の重要な課題が善悪の問題からスタートすることになるのである。
ラッセルは、功利主義者たちの主張と同調して、善を欲求の満足であるとした。しかし人間はそれぞれの立場で種々の欲求の満足を求めており、したがって善は自分ひとりの欲求を満足させることではなくして、ひろく人びとの諸欲求を満足させることでなければならない。すなわち、欲求の満足をもって善とするということは、ただ「部分的善」(partial good)にとどまることなく、進んで「全体的善」(general good)を追求することが義務づけられるわけである。さらに彼は、この欲求の追求にさいして、目的と手段とを明確に区別する。すなわち、欲求は目的からみればすべて善であるが、手段からみれば善いものと悪いものとが区別されるのであり、したがって欲求が善であるのは、それ自らが手段的に価値をもつからではなく、内容的に価値をもつからである。換言すれば、本来的価値(intrinsic value)の如何にかかっているのである。
おもうに、現状社会における人びとは、とかく本来的価値を弁えず、目的の意識をもたないで、手段に動かされて行動し、人生を殺伐で荒涼たる状態におき、やがては社会生活を破壊させる活動をも起こしやすくするものである。人間の正当な行為というものは、全体的善を助長する行為のことであり、またそれこそ全体的な欲求の充足を助長する行為であるということができる。ここにわれわれは彼の倫理学の基本的な出発点をみることができる。
ラッセルの第一部における「倫理学」の構造契機として重要なものは、人類がつねに幸福であり平和をもたらすということである。現代のように科学枝術が高度に進歩した時代、しかも政治権力がこの科学枝術をほしいままにしようとしている時代にあっては、いたずらに過去の伝統的倫理や因襲倫理を固守することなく、科学時代にふさわしい合理的要素をもった倫理を確立することが急務である。彼が本書で「独断的でない」倫理を主張するのもそのためであり、ここに彼の倫理学における中心的位置を占める「理性倫理」(rational ethics)の主張が展開される。ところで彼のいう理性は、ドイツ観念論における先天的性質のものではなく、科学的精神に裏付けられて狂信的態度を排除するものであり、目的に対しての正しい手段の選択を意味するものである。そして彼はかつての伝統的倫理を「迷信倫理」(superstitional ethics)と称し、理性倫理をもってこれを克服しようとするのである。
彼によれば、迷信倫理は伝統的な因襲倫理であって、なんら合理的根拠をもたず、過去のながき伝統の上にあぐらをかき、とくに法律や医学や宗教や性道徳などの広範囲にわたって、人間生活にいちじるしい弊害をもたらしてきた。科学の進歩と倫理の後進性とから生ずる断層が、いくたの悲劇を現代社会に及ぼしているのであって、われわれはいまこそ迷信倫理の苛酷と悪夢から抜け出さなければならない。では彼はこの理性倫理を推進するためにどのような方法を考えたのであろうか。現代社会においては、各人の欲求はそれぞれ異なり、個人間でも集団間でも、それぞれの欲求の対立や摩擦が生じている。理性倫理は、これらの人間の諸欲求の対立を除去し、いかにして充足させるかの問題を解明しなければならない。そこで彼はその具体的な方法として「社会機構」(The social systems)、「個人の諸欲求の性質」(The nature of individual desires)および「賞讃と非難の標準」(The canons of praise and blame)の三つをあげる。彼によれば、社会のよりよき制度と、個人の性格矯正のための情緒のよりよき教育と、賞讃と非難のよりよき配分こそ、幸福な人類社会の建設に貢献しうるのである。かくして、理性倫理は現代社会に善を実現させる目的に合致した倫理であるということができる。
われわれは、この目標を実現するためには、人間の諸欲求の対立をできるだけ除去し抑制して全体的善の達成に進まなければならない。そしてこれが彼の一九三〇年代以来考えてきた倫理学における客観性への接近の問題なのであった。しかもこの客観性を確保するには、多数の人びとのアピールを必要とするのであり、このことが倫理学の問題が、個人倫理学から政治学への領域へと発展しなければならないという意味を持つものなのである。
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われわれは、ラッセルの倫理学を通して第二部「諸情念の葛藤」の内容を考察するときに、彼の思想的変換について把握しておかなければならない。それは彼の思想的立場が第一次世界大戦(一九一四~一九一八)を契機として前後に大きく二分されたということである。
彼はイギリスが宣戦布告を行ったその日に、民衆が戦争勃発によって当然被害を受けるべきでありながら熱狂的にこれを歓迎したという事態に直面して、その研究対象を、数学・論理学から政治的、社会的問題へと転換したのであって、これが「論理学から政治学へ」(From logic to politics)という思想的一大転換なのであった。そしてこの転換は、倫理思想においても同様である。すなわち、全体的善の実現をめざして努力している人間でありながら、その人間性の奥底には、きたない欲望や反社会的衝動が深く根をはって、それらの欲望や衝動がたがいに対立し合っているのである。これを克服することが倫理学から政治学への発展であり、彼の倫理学が社会倫理学の性格をもつ所以である。
ラッセルは、第二部のはじめにいっている。「普遍的満足への道は、各個人および諸グループの行動を決定する諸欲求をできるだけ並存するようにすることがたいせつである」と。人間の欲求は環境や教育によって影響され、枝術を生かすことによって、破壊的な情念を克服することができる。しかしながら、現実には人間の心のなかに、権力欲・競争心および憎悪などの諸情念が、個人間にもグループ間にも存在し、たがいに対立しあっている。彼はこの人間性に巣喰う精神的病痕に心理的分析の匁を向けたのである。
彼はすでに人間活動の源泉として欲望と衝動を指摘しており、それが基本的形態から発展的に移行した場合、それは歴史を動かし、政治を変革する力となってあらわれることとなる。それゆえにこそ、彼は人間の欲望が政治的要素をもつものであるとし、「政治的に重要な諸欲求」(Politically important desires)を検討したのである。彼はまず基本的なものとして、「獲得欲」(acquisitiveness)、「競争心」(rivalry)、「虚栄心」(vanity)および「権力愛」(love of power)の四つをあげる。おもうに獲得欲が盲目的に発動されると権力や戦争につながり、競争心が過度に要求されると感情や知性は犠牲にされてつねに相手を蹴落そうとする。虚栄心は自分の能力を過大に評価し、それが高すぎれば狂気的状態をあらわし、さいごに権力愛はもっとも強い動機をもって、民衆のためでなく自分の目的のためにこれを利用することが可能となり、政治権力を媒介として人間の自由を奪い去ってゆくのである。