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バートランド・ラッセル著書解題13:『ライプニッツ哲学の批評的解釈』(清水富雄・解題)

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第14号(1970年3月)pp.6-7

* 筆者は当時,愛知県立大学文学部教授。
 清水氏の「解題」は,残念ながら,『ライプニッツ哲学の批評的解釈』の内容についてあまり紹介しておらず,清水氏の世界観・哲学観(=世界の認識は,主客分離ではなく,主客未分を前提とすべきである。)の主張をしたいために,ラッセルが理論哲学とその他の思想を厳密に区別していることを無視しているように思われます。また、ラッセルは主客分離の観点や立場にたっているかのような立場をとったはの初期の頃にすぎず、そういった決めつけは残念である。
*清水氏追記: この文を書いたころ,ラッセルはまだ存命中であった。ラッセル逝去の報が新聞にのったのはたしか先月のはじめ頃だったと思う。100才まで生きると称していた彼もついに逝いた。この20世紀の巨人に対して心から哀悼の意を表したい。(1970.03.05)


の画像  バートランド・ラッセルは,1872年の生まれというから,今年のうちに98才になるはずである。この高齢にもかかわらず老化することなく,文筆に社会運動に若者顔負けの精力的な活躍を続けている。老哲学者の努力に対して心から敬意を表しないではいられない。
 私自身,ラッセルの思想に触れ得たように感じたのは,彼のライプニッツ研究によってであったように思う。『ライプニッツ哲学の批評的解釈』(A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz, 1900)は青年ラッセル(=28歳)の作品とも称すべきものである。周知のようにこの書はライプニッツ研究に一時期を画した名著であって,カッシラー,クーチェラなどの研究書とともに,ライプニッツ哲学で論理学の占める中核的意義を力説したものである。
 ところでラッセルの宗教観はすでにこの書に遺憾なく現われている。しかもそれが「ライプニッツの宗教観」という形で現われている。私がラッセルから学んだのは何よりもまずこの点においてであったように思う。宗教批判はもともと,自己投影のもとにおこなわれることが多い。ラッセルの宗教批判はなかなか鋭いものであるが,観点を変えてみれば,結局においては一種の自己投影に帰着するかもしれない(後述)。
 G.E.ムーアからの影響によってブラッドリと決別して以来今日に至るまで,ラッセルはほぼ一貫してリアリズムの立場を貫いている。ここでリアリズムとは認識論的意味においてであって,主観と客観との分離可能性を認める立場,主観に対する客観の超越を承認する立場をさす。「その本性が何であるにせよ,実在する机がある,という見地は哲学者たちの一致した見地であり,決定的に重要なことである」(The Problems of Philosophy, 1912, chap. 1)。この実在論的見地は,一方では伝来の形而上学的主張を哲学から排除する前提であるとともに,他方では哲学の主題を自然科学の基礎づけに見出すべしと主張する根拠になっている。「哲学的知識は科学的知識と本質的には違うところがない。哲学に開かれていて科学には開かれていないような,特別な知恵の出所はないし,哲学によって得られた結果は科学から得られたものと本質的には違わない」(op. cit., chap. 14)。

ラッセル協会会報_第14号
 ところで彼の場合,実在論的認識論は同時に実践的動機を伴っている。客観的認識の基礎づけは,この世における自由,平等,正義,平和の実現と切離すことができない(注:清水氏は,「客観的認識論」を多義的に使っているようである。)。彼の宗教論の背景にはそのような理論的-実践的動機が存在するようである。彼はキリスト教が成立した基盤に人間の恐怖心があったと見る(ラッセル著『宗教は必要か』大竹勝訳,p.30&p.115)。文明に対する宗教の貢献は,暦を設定したことと日食月食の記録を作ったことの2点だけである(同p.35)。教会はかつてガリレオとダーウィンに反対したし,現代ではフロイトに反対している(同p.37)。いかなる時代でも宗教が強烈であればあるほど,また独断的な信仰が深ければ深いほど,それだけ残酷さは甚だしく,事態は悪化していた(同p.28)。このような事態を生んだキリスト教の教義である神と霊魂不滅とは科学の支持を受けていない(同p.67)。人生に科学的な見解を持っているひとは,聖書のテクストによっても,教会の教えによっても威嚇されてはならない(同p.85)。このように,リアリズムの目に映る宗教観はまことにてきびしいものである。そしてこれまで宗教のもたらした弊害をなくすもの,宗教の代りとなるべきものは科学である(注:誤解を少し与えそうな表現である。ラッセルは宗教に頼るべきではなく,できるだけ科学的なものの見方をすべきであると言ってはいるが,宗教が与える慰めを科学や哲学が与えてくれる,とは主張していない。)「科学が積極的な優秀さを増大させることについて成すことのできることには,おそらく限界はないであろう。健康はすでに大いに改善された。過去を理想化するひとびとの長嘆にもかかわらず,われわれは18世紀のどの階級やどの国よりも,もっと長生をしており,病気は少なくなっている。われわれが既に所有している知識をもうすこし適用するならば,われわれが現在あるよりも,もっと健康になるであろう。そして将来の発見はこの過程を大いに早めることになると思われる」(同p.104)。こうしてラッセルの宗教観は,宗教が社会にもたらしたマイナス面をあますところなくあばき出している。唯しかし,宗教のいわばプラス面ともいうべき側面の考察はほとんど姿を消してしまっている。彼の場合,人生の意味や生存の目的を深く掘下げ,生活に喜びをもたらすというような積極的機能が宗教について認められることはない。結局ラッセルの宗教観は一面大きな説得力を持つにもかかわらず,公平に見ればやはり一つの根本的偏りを含むと言えそうである。そしてこの偏りの源泉は彼のリアリズム自体のうちにひそむのではなかろうか。
 例を一つ挙げてみよう。私の眼前には飲料水の入ったコップが一つ置かれている。このコップは水を飲む道具としてのコップである。ごく特定の人為的,例外的な場合を除けば,私はいつも安心してコップに面していることができる。水を飲む手段としてのコップには道具というわくがはめられているので,私はコップから脅威を受けることなどない。しかしここで,コップが生きており,独自のまなざしで私を見つめていると仮定してみると,話は大分変ってくるだろう。眠前のコップは,もはや道具としてのコップではなく,私を見つめのぞきこんでいるコップである。そんな場合だったら,私は安心してコップを見つめてはいられなくなるかもしれない。
 こんな例を考えてみることは文学的な空想にふけるに等しいと言われそうである。しかし果たしてそう言い切れるであろうか。道具に固有名詞をつけてこれを隣人の如く取り扱うことは,現代人の常識からいえば荒唐無稽な話とされやすい。しかしそういう荒唐無稽なことが中世の末期まで大まじめにおこなわれていた(ホイジンガ著『中世の秋』兼岩・里見訳,p.336)。当時の人たちは頭が幼稚だったのだろうか。いやそうではないであろう。原理的に考えてみると,眼前の対象物を主観対客観の分離対立関係で見つめる見方は,一つの見方ではあっても決して唯一の見方ではない。主客分離の前提とはちがった主客未分の,あるいは賓主未分(『久松真一著作集1』p.139)の前提ともいうべきものは,現実の世界ではしばしば確認されている。この種の前提は,主観と客観との関係が決して一方化することなく,逆転し,交互的となる場合に生じている。生命の危険にさらされている相手を救おうとして我が身を投出す場合など,それに当るであろう。その場合,通常の目的-手段の関係は逆転している。つまり相手は手段ではなく目的であり,自分はその目的のための手段になろうと決意する。自分はその場合,単なる目的ではなく同時に手段なのであり,主客未分の我であって,客観に対して単に対立した我ではない(注:主客未分と手段目的とを同列に扱うのは如何であろうか。「主客未分」の立場に立つとしても,そのことを認識するのは,「自分の」意識である。「主客未分」が真実であるならば,即ち「主観」などというものは錯覚であるとしたら,「主客未分」のもと「世界」をどのように認識できるのであろうか?)
 ところで,いま言った主客未分の前提はそれ自体倫理的な前提であるが,しかし基本的にはきわめて宗教的な前提ともいうべきものであろう。なぜなら,この前提において我々は現実における自己自身の位置について大きな不安を覚え,自己の存在理由,生存の意味,目的等について根本的な反省を迫られることが多いからである。そこでいま「我存在す」という命題をとりあげてみよう。私が,主客分離の前提に立つ場合,この命題は「あらゆるものを客観化する主観としての私」にふさわしい意味を持っている。しかし主客未分の前提に立ってみれば,この命題は「主観としての私」だけでなく,「客観としての私」にもふさわしい意味を持たなければならない。つまり「あらゆるものから客観化され物化されている私」の存在をも基礎づけるものでなくてはならない。そのような交互的なあり方が私ひとりの力で保証できるものだろうか。これはたいへん疑問である。なぜかといえば,客観としての我よりも主観としての我に,また手段としての我よりも目的としての我に固執するのが,我々人間のエゴのあり方だからである。主観-客観の相互性,相対性が観念的に理解されるだけで,実際に身についているわけではない,という自省から直ちに生じてくるのは,自分が現実に対して浮上った位置についているという反省であろう。この反省は絶対者の位置に関する反省であり,神の問題に直結するものである。
 こうして,主客未分の前提から出立するとき,主客分離の前提では予想もつかないものが意識にのぼってくる。主客分離の前提に立つ場合,神の問題は自分自身の問題ではなくなり,また過去の問題となりやすいであろう。また科学が宗教の代りとなるかのような見方も生まれよう。ところが主客未分の前提では,そういうとり方自体が始めから検討を要することになる。神は自分自身の問題であり現在の問題である。また科学と宗教とはまったく次元を異にするのだから,科学が宗教の代りになるとは考えられない。又もし代りになるとすれば,それは代用神としてであろう。

ラッセル著書解題
 2つの前提は宗教解釈の相違をもたらすばかりでなく,思想史についても違った見方を生むようである。例えばライプニッツは「神が我々に対して直接外から働きかけている」(『形而上学叙説』第32章)と説いた。この命題の意味は,当のこちら側が2種の前提のどちらを採るかによって大分変ってくる。どちらの前提にもとづくかは各自の決断の問題であり,その決断が相手の宗教的命題の意味のとり方に根本的な響きを与えるのだから,その意味で各自は自己投影をおこなうことになるであろう。
 こうして我々は次のように言えるのではなかろうか。ラッセルのリアリズムは科学に密着する主客分離の前提にもとづき,宗教現象のマイナス面を鋭く剔抉しているにもかかわらず,宗教批判に関しては基本からはずれたところを持っていると。しかしそれにしても,キリスト教が圧倒的な勢いで社会化している西欧のあの雰囲気の中で宗教批判を敢行した勇気に対しては,文句なく頭の下がる思いがする。その点から言えば,ラッセルの知性はやはり現代文明の中で一つの大きな位置を占めているように思われる。ところで,いったい主客分離の前提は果して現代科学自体にぴったりマッチする前提なのであろうか。また主客分離の前提は主客未分の前提の中にどう位置づけられるのか。ラッセルのリアリズムはこれらの問題点に関する慎重な検討を我々に課しているように思われる。(了)