バートランド・ラッセル著書解題(10) ラッセル『有名人の悪夢』(由良君美・解題)
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第11号(1968年10月)pp.4-5.
* 由良君美氏(1929~1990)は当時,東京大学助教授。
ラッセルさんのウィットには定評がある。思わずつりこまれて,学生もろとも教壇で爆笑してしまった文章も何度かあった。もっとも,笑うには余りにバカげていて,切角の冗談も利き目半減というのもあったが,我国で教科書になっている真面目なエッセイでさえそうなのだ。まして本人が初めからふざけるつもりで書いたものには,誠に愉快なものがある。その点で,私がいつもお奨めしている本に,『有名人の悪夢』(Nightmares of Eminent Persons and Other Stories, 1954)がある。ラッセルさんの風刺のワサビ加減は,この小話集でお試しになるよう願いたい。
齢80を越してから,ラッセルさんは自分でも「どういうわけか分らない」と断っているが,急に小説を書きたくなった。こうして世にでたのが『郊外の悪魔』(Satan in the Suburbs, 1953)と『有名人の悪夢』である。前者はなかなか評判がよく,「今ヴォルテール」だと讃められもした。後者は1954年に挿画入り単行本になり,さらに評判が良く,1962年にはペンギン叢書に入って,簡単に入手できるようになった。全部で10篇あって,付録に「ザハトポルク」と「信仰と山」があるが,本来の部分に属するのは10篇である。
ラッセルさんに言わせると悪夢というものは,誠に人の胸中をよく表わす現象であって,その人の秘めた怖れが示現するものだという。有名であればあるほど,自分の支配的情熱は果たされることがなく,従って悪夢も多くなる。悪夢は有名人の有名税である。そこで古今虚実の有名人をとらえて,ラッセルさんは,彼らの秘めたる胸中の怖れを開示してみせ,思いきり愉しもうとする趣向である。スターリンもアイゼンハウァーもアチソンもシバの女王も,ラッセルさんにからかわれると,全く眼も当てられない有様になる。面白いのは,実在の人物のほかに,一種の代表的仮空人物の悪夢が登場することだ。「数学者の悪夢」はスクエアパント教授と称する,名前から妙な仮空人物が中心だし,「精神分析屋の悪夢」はボンパスティカス博士が登場するが,実は背景にあるシェイクスピアのもの言う胸像が事実上の中心人物になるという卓抜な構想である。
私の判断では,実在の人物を扱ったものでは「アイゼンハウァー」が,仮空人物では「シバの女王」と「精神分析医」とが,なかでも出色の出来栄えのように思う。ここでは,「アイゼンハウァー」をとりあげ,本書の風刺の一端をのぞいてみよう。
「アイゼンハウァーの悪夢」は1952年に書かれている。アイク(アイゼンハウァー)が大統領就任2年目のことである。2年の施政から,アイクは政敵との妥協は常に一方交通に終るという苦い経験を味わった。ある寝苦しい夜の夢に,21世紀の光景が訪れる。- 夢の中の声は語る。こちらは21世紀。今からみると1953年は世界転機の始まりだった。20世紀前半に山積した問題は3つあった。農業を犠牲にしての工業化が招いた農作物の減少。医療の発達に伴う後進国での人口激増。西欧帝国主義の解体から生じた混沌。冷戦のおかげで,3つは解き難くこじれていた。両陣営の軍備競争は,ただ事態を悪化さすだけだった。所が1953年にスターリンが退陣して死ぬと,マレンコフが登場した。国内不満と中共の脅威という問題を抱え,マレンコフは苦悩した。国内不満を緩和するには消費物資を増産せねばならず,これには軍備を犠牲にせねばならぬ。軍備縮少には世界戦争の危険を除去せねばならぬ。どうしたらよいか。マレンコフは頭をかかえていた。その頃,アメリカでは,共和党政権に対する非難が増大し,大統領対国会の対立は,金力のため,たえず国会側の勝利に帰した。タフトとマカーシーの相克の末,マカーシーがのし上る。国民一般は共産主義の脅威と所得税という二重の恐怖に喘いでいた。どちらも怖い。しかし所得税を嫌えば軍備ができず,敵がのさばるだろう。マカーシーはこの矛盾を巧みに衝いた。彼は訴えた。真の敵はソ連ではない。アメリカ内部の赤どもだ。ソ連と戦うよりは'獅子心中の虫'と戦え。その方が安くつく。安くつけば所得税も安くできる。国民はワッと飛びついた。F.B.Iを抱きこみ,内部の'赤狩り'を組織した彼は,トルーマン時代の厖大な対外援助費も削減した。忽ち仏伊は離反したが,少し金をやらないともう離れる国など,もともと友として頼むに足らん,という彼の説得に国民は納得し,1956年の大統領選挙でマカーシーは圧勝。彼は直ちにマレンコフと協定し,二つのMは冷戦終結に成功,「マ=マ協定」が成立した。
両巨頭とも矛盾を一挙に解決できたのである。世界は協定により二分され,エルべ以東の西欧と全アジアがソ連圏,他はアメリカ圏となる。両圏相互は交通を一切許さず,首脳会談のみをノルウェー沖の孤島で行う。西欧には名目上の独立を与え,アメリカとソ連は互いに他の制度をとり入れ,思想教化を教育目的とし,互いに他の批判を禁じ,他を刺戟する史実はすべて改竄して教科書から消す。一切の思想書は焚書,学問も科学も文学も進歩を止める。人々は不平たらたらだが,しかし半永久的平和が実現し,白人帝国主義は安泰になったし,世界戦争も回避されたし,人口問題も白人帝国主義下の悪い医療で後進地域の人口は減少しはじめて心配は消え,米ソのみに高度工業化を認める所から農産物生産も再び上昇し,税金は安くなるしで,何も言えなくなってしまう。二人のMは互いに和気あいあいとして,それぞれ腹心を後継者に定め,かくして43年間の平和が到来したのである。- 「平和共存」の孕む偽りの平和の実態が怖ろしいほどえぐられているのだが,文体はあくまで軽妙だ。笑いながら学生と読み終った時,僕は付け加えた。
マカーシーをジョンソンに,マレンコフをコスイギンに置きかえてごらん。君達笑えるかね,と。一瞬教室は張りつめた静寂に変った。丁度グラスボロ会談が終ったばかりの時だったのだ。(終)
(注)Nightmares of Eminent Persons, Penguin books.
このうち7篇の教科書版が,東京の興文杜(千代田区神保町1-12)からでている。