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バートランド・ラッセル著書解題7_ ラッセルの『政治理想』について(入江一郎・解題)

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第7号(1967年4月)pp.2-4.

* 入江一郎 氏(1911~1983?)は元裁判官で,1967年4月当時,弁護士で,ラッセル協会理事。また,1958.12.19~1960.7.20の間,公正取引委員会委員を務める。


ラッセル協会会報_第7号
 私がラッセルの思想について最初に惹きつけられたのは,彼の世界政府思想に関してであった。私は学生時代(1933年頃)から,真の世界平和を達成する為には,国境を撤廃する以外に途はないと漠然と考えていた。各国家が主権を持って,これ(各国家の主権)を統制する外部の力がない限り,戦争は到底避けられない。理想や教育は,一時戦争を避ける契機となることはあっても,これを根絶する力を持つことはできない。世界を強力に組織化することによって,(国際連盟では無力である)戦争の発生を制度的に不可能にするのでなければ,人類は永久に戦うことを止めないであろうと考えていた。その頃,私はラッセルの世界政府の考え方を知って,心の底から共感を覚えたのである。(ラッセルの考え方を何で知ったのか記憶にはない。書籍や雑誌で読んだのか,先輩の話を聞いて知ったのか,さだかではない。) その後も,ラッセルの断片的な評論や,論文に接して,この人こそ,まさに人類の良心を代表する人物であると確信するに至ったのである。
 このような次第であって,私はラッセルの思想について系統的に勉強をしたこともなければ,況んや彼の哲学体系について何等かの智識を持つような機会も全然持たなかったのである。従って,今ここにラッセルについて何かを書く,ということは甚だおこがましい次第なのであるが,親友・江上照彦君から,兎に角何か書け,と厳命を受けたので,彼(=ラッセル)の著書『政治理想』(理想社,昭和38年刊/牧野力氏訳)について漫然と書いて見ようと思う。

 この著書(Political Ideals)は周知のとおり,1917年に書かれたものであるが,英国では,出版することができず,1962年に至って初めて英国で出版されたもののようである。(松下注:1917年に米国で出版された。)しかし,驚くことには,ここに展開された思想は,五十年近くを経過した今日の世界にもそのまま,否,書かれた当時よりも,寧ろ一層の迫力を以て現在の社会に通用するように思われるのである。偉大な思想家の卓見は五十年先の世界を見透していたとも言えようし,又彼の抱いた真理と,それに対する確信とは,時代を超えた一貫性を持って絶えず脈打っているとも言えるのであろう。
 さて,この書の内容について,一々ここに解説することは私の役割でもないし,力の及ぶところでもない。唯,二,三,興味を感じた点を申し述べて責めをふさぎたい。

 ラッセルは,政治の目標は,「個人個人の生活をできるだけ良くするものでなければなりません」「政治制度や社会制度の良否は,それらの制度が個人に幸福を与えるか,害悪を与えるかで判断さるべきであります」と,言っている。そこで,個人にとって最良の生活とは何であるか。それは,「創造的衝動が最大限に発揮されて,所有衝動が最少限に現われる生活である」とラッセルは言う。所有衝動は物質的なものに向けられるのに対し,創造的衝動は精神的,心霊的なものに向けられる。前者は排他的な「私有」の対象となるのに対し,後者は,包容的な「共有」の対象となる
 この二つの衝動を区別して考えることは,ラッセルの政治理想に関する考え方の重要なポイントであろう。物質偏重の社会は必然的に人間の個性喪失を生来し,組織の中の一つの歯車と化し去るのである。これは所有衝動の然らしむるところである,創造的衝動の発揮される社会にあっては,人々は生き生きとして,自己の創意を十分に伸ばしつつ,しかも利害の衝突から来る混乱を最少限度に喰い止めて,相互の信頼と秩序とを保ち得るのである。
 ラッセルの考える理想は決して画一的な内容のものではない。「もし実現可能ならば実現されなければならないことは,万人に対して一つの理想を与えることではなくて,一人一人の人間に,めいめいちがった理想を許すことです」というのがラッセルの基本的な考え方である。又ラッセルは,「われわれの望まねばならないものは仕上げの完了した理想郷(ユートピア)ではなくて,想像力と希望とが生き生きと活発であるような世界でなければなりません」とも,言っているのである。ここにも,ラッセルの政治理想の考え方についての重要な鍵があるのである。目標そのものではなく,目標に向って進む人間の活動・機能を重視するのである。このような活動・機能が何等そこなわれることなく,思う存分に発揮される社会こそ理想の社会なのであって,この様な社会を建設することが政治の目的なのではなかろうか。「個性を生む衝動を保持,強化することは,あらゆる政治制度が真っ先に目指す目標でなければなりません」というラッセルの言葉からもこのことがうかがわれるのである。
 所有衝動と創造的衝動についての考え方は,個人の自由と公共の統制に関するラッセルの所論にも現われている。
 創造的衝動に関する限り,国家は個人の自由に干渉すべきではない。ラッセルが思想と表現の自由を最も強力に主張した闘士であることは今更言う迄もない。新思想の受け入れを妨害するのは,因襲本能,不安定恐怖及び既得の三者であり,これらこそ社会の進歩発展を妨げる罪悪であるとしている。しかし,こと所有衝動に関しては,ラッセルは寧ろ公共の立場からする統制の必要性を力説する。「個人の行動に国家が干渉衝突するのは所有欲から必要になるのです」「所有と実力行使とに関係のあるものすべてにおいて,無制限の自由は無政府状態と不正を内包しています。殺す自由,盗む自由,だます自由,これらは最早現在個人には所属せず,許されませんが,大国家には依然として,所属し許され,そして愛国という美名を使って大国家により行使されています。後になって裁判所で正当であることを認容してもらうような突発的非常事態を除けば,個人も国家も,個人や国家の創意に対し自由勝手に力を揮ってはいけません。その理由は,一人の人間が他の人間に対し実力を行使することは,両方の人間にとって常に悪であり,また,実力を行使した結果,圧倒的によい結果をもたらす何かの物事で充分埋め合わせのつけられる時だけ大目に見られるからであります。世の中で実際に力に訴えるその力の量を減少させるためには公共機関の存在が必要で,実際に誰も反抗しえない力を貯えている機関でなければなりません。その機関の機能は先ず第一に私的に力を行使するのを抑圧すべきものであることが必要であります。利害関係のある党派の一方か,その友人か,あるいは,共謀者か,により力を行使される場合には,実力行使は私的なものになります。公益を目的とし,ある法規によって中立的性格の公共機関による実力行使は私的なものではありません」とラッセルは,言っているのである。極めてラフな言い方ではあるが,創造的衝動の現われである思想・芸術・科学・宗教等の面では自由が(要求され),所有衝動の現われである経済の面では統制が要求されることになるのであろう。
 公共の立場からする統制を最も必要とするのは,国家間の関係についてである。この点をラッセルは,「国家の独立と国際主義」なる章において言及している。ラッセルの世界政府に関する考え方は,別著『人類に未来はあるか』(Has Man a Future, 1961) において更に詳細に扱われているのであるが,1917年に書かれた本書において既にその萌芽が現われているのである。ラッセルは先ず各国家がその絶対的主権を放棄すべきことを主張する(上イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)
 「個人の立場に立って,絶対的主権を要求する正当な理由がないように,国家の立場に立って絶対的主権を要求する正当な理由はありません。事実,絶対的主権の要求は,一切の対外問題を純然たる腕力によって規整せよという要求であります」「諸国家が対外関係について喜んで自分たちの絶対的主権を手放す気になるまでは,世の中には確固たる平和もなければ,あるいは,国際法による国際問題の何らの処決もありえません」と。世界政府の内容や,これに至る過程については本書では余り触れられてはいない。ただ,世界政府は,陸軍と海軍とを所有しなければならぬこと,しかも,これが地上に存する唯一の陸・海軍でなければならぬこと,世界政府は司法と共に立法をも扱わなければならぬこと,又一国から他の一国へと領土を移す適切な根拠が存在すると説得される時には,その移管を行なう権力を握らねばならぬこと,等の点に触れているのみである。ただし,世界政府の軍備については,「しかし,地球上唯一の陸・海軍を保有する世界政府がいやしくも存在するようになれば,世界政府の決定事項に服従するのを強要するため実力を必要とすることもほんの短期間でありましょう。短期間で,無政府状態に代わるに法律をもって当たることから起こる利益が非常にハッキリしますから,世界政府は反対の余地ない権限を握り,そして世界政府の決定事項に反抗する夢を抱く国家もなくなるでしょう。この段階に到達するや否や,世界政府の陸・海軍は不要となりましょう」と言っている点は注目すべきである。
 ラッセルの主張する世界政府の思想は,民族の自主性をも否定する世界主義のようなものでないことは,言うまでもない。国内問題に関する自主性は,世界政府の下においても当然保持されなければならない。ラッセルは言う,「ちがう諸国民間の習慣や伝統の相異を抹殺することは必要でも,望ましいものでもありません。これらの相異により,めいめいの国民が各国民独自のはっきりした特色を生かして,世界文明全体に貢献ができるからであります。所望されるものは世界主義でもなければ,一つ残らずの文明国人と多数のつまらぬ接触をした結果,特色あるものを一切失ってしまった旅行者のお供や寝台車の給仕其の他の人間を連想させるような,あらゆる民族的特色の欠如でもありません。そのような四海同胞主義は損失の姿で,得になりません」と。
 戦争の絶滅が人類の悲願であることは言うまでもない。そして,これに至る唯一の方法は,世界の組織化,世界政府の樹立を除いて他に有り得ないとの信念は今に至るも変らない。
 しかし,それがいつ実現するか,又具体的に如何なる過程を経て実現されるか,ということになると問題の解決は極めて困難である。特に,世界が二つの陣営に分裂している現在(この論文は1967年執筆)の情勢においては,その実現は殆んど不可能とも思われるのである。併し,人間が過去の因襲や,眼先の利害に捕われることなく,真に合理的にものを考えるならば,いつかは必ず世界政府の理想が達成される日が来ることは間違いないであろう。