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バートランド・ラッセル 著書解題6_ 『民主主義とは何か』(松永芳市・解題)

* 出典:『ラッセル協会会報』n.6(1966年12月)pp.8-9.

  *(松永注)以下は、『民主主義とは何か』の要旨である。しかしラッセルの文章を三倍にして説明することは可能であるが、何十分の一に要約することはむずかしい。原書には適切な例や名文句が沢山あるから、原文によって、その妙味を味わわれたい。(日本には成美堂発行の牧野力氏解説付・原文と、理想社発行の同氏の訳本がある。)
*松永氏=弁護士/ラッセル協会監事

 バートランド・ラッセルの『民主主義とは何か』(What is Democracy?)は、戦後に英国民に向って放送されたもので、1952年<(松下注:1953年の誤り)に出版されている。

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 西欧では、民主主義という言葉は、'究極の権力が、成人した全住民の大多数の手にあることを指す'と解せられているが、この言葉は、戦後に一つの流行語になり、内実、民主主義でない国でも、自ら民主主義を僭称している。もともとこの言葉も・内容もギリシャで始まったものだが、ギリシャの民主主義は僭主の出現によって、その実質を失うに至った。ローマでも、ジュリアス・シーザーは、民主主義の擁護者として人民の支持を得たが、政権を獲得すると、民主主義を廃してしまった。近代の民主主義は、11世紀ロムバルディア(イタリア)から始まった新しい商業上の繁栄の結果として起こり、北方のハンザ同盟の諸都市等にひろがり、やがて代表者による政治(代議政体)が、アルプスの北方の国々に樹立されるに至った。しかしそれが普通選挙の代議政体に至るまでには相当の年月を要した。その間に、選挙された代表者は、自分が一般人民の選挙によって代表者となったことを忘れ、その代表者たる地位を絶対的なものと考え、いろいろの問題を起こしている。
 アメリカでは、イングランドに反抗して独立するという目的で、民主主義が唱えられ、フランスでは、1789年には主として大地主に反抗する目的で、イギリスでは19世紀に、最初は中流階級が力を得るために、後には労働者が大企業者に対して力を得るために、民主主義が唱えられた。アメリカの民主主義は、アンドリュー・ジャクソンの時代に大きく変貌し、平民的であることを強調した結果、教養ある人々に対し敵意を持つという要素を持つに至った。この要素は今日もなお残存し、それがアメリカの民主主義にいろいろの弊害をかもす原因となっている。
 民主主義国が警戒せねばならぬのは、警察と軍隊である。これらは、国になくてはならぬものではあるが、一たびこれらが横暴をやったら民主主義国は一ペんにつぶれる。だからこの点に特に留意せねばならぬ。


ラッセル著書解題
 
 今のところ、西欧の文明社会に関する限りにおいては、民主主義にまさる制度があると考えることは最も危険だと思われる。民主主義は積極的に善であるというよりも、むしろ他の制度の下において、とかくあり勝ちな大きな悪を行うことを不可能にするところに特長がある。権力の保持者は、古今東西を問わず、故意にあるいは不知不識の間に勝手なことを平気でしている。過去における権力者の暴行残虐は枚挙に暇がない。しかし民主主義が正しく行われるところでは、そうしたことはない。民主主義国の第1の特長はそこにある。
 民主主義国の第2の特長は、反対者に対し迫害の行われる程度が非常に少ないということである。西欧の歴史は反対者に対する迫害の歴史であったともいえる。現に共産主義国においてはそれが行われている。民主主義国にも迫害がないとはいえぬが、それを小範囲に止めているのである。また民主主義国では人民が好戦的になる傾向が少ない。しかし、国民が一致して戦争に立ち上がると強い。過去の歴史を見ると、民主主義に近い方の国がいつも戦争に勝っている。

 
 国の大きさは、あまり小さくても困るが、大き過ぎて国内に意見の異る集団がある場合は、さらに面倒である。意見の異る集団が地理的に別れていれば、自治を承認するという方法で何とかなるが、そうでない場合(例えばアメリカにおける黒人の場合等)には極めて困難である。こうした場合には、双方に寛容の気持がなくてはならぬ。反対者に対して、寛容であることは民主主義政治を成功させる上において必要な条件である。
 民族主義ないし国家主義は、民主主義とどうもうまく行かぬ。必要なのは国と国との競争ということよりも、各国民が互いに話し合って、人類に共通な課題をより多く考えることである。歴史は文化の進歩発達の歴史として教えるべきで、自国が戦争に勝ったことを誇らしげに教えるべきではない

 
 自治の承認ということが、各方面において必要である。自治を承認すれば、個人的創意を働かす機会が持てる。人類の進歩発達のためには、自治の承認は必須の条件である。人類が地球上から滅亡を免れ得るとすれば、世界政府は将来必ずできるものと思える。世界政府においては、地方的に、人種的に、自治が承認されなくてはならない。政治に統制は必要であるが、統制が行き過ぎて、反対者に迫害を加えるようなことになってはならぬ。今日、迫害的精神は共産主義国だけでなく、アメリカでも必要以上に強いようである。人々は迫害されるから破壊的になるのであり、同様に破壊的になるから迫害されるのである。だから一方を弱めることは、他方を弱めることになる。
 民主主義は、多数決主義であるから、少数者の自由が制限されることはあり得る。しかし、個人の自由が尊重されぬ国では、人々は狂暴な叛逆を起こす傾向があるから、個人の自由を尊重し、少数の意見にも耳を傾けるようにせぬと、政治の上に民主主義をうまく運営することは困難である。
 民主主義国に保存さるべき自由の中で、その保存の最も困難なものは、その重要性が社会に奉仕することに由来しているのに無知な人々にそのことがどうもわからぬといった種類のものである。コペルニクスやガリレオの時代に、仮りに民主主義が行われていても、迫害から彼らを救わなかったろうと想像される。しかし独裁者の国では、知的自由の抑圧せられた例が非常に多く、その安全と保護の点では最悪の民主主義国でも、独裁国よりはましのようである。

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 政府を崇拝することは、一つの偶像崇拝で、極めて危険である。意見が2つに分かれ(政党が2つあって)、有力な人々が、その双方にいる場合に、はじめて言論の自由がある。へーゲルはプロシャの大蔵省から彼の俸給を引き出していた当時、へつらって「国家は神の衣装である」といって人々に教えこんだものであるが、かような国家崇拝は民主主義が普及したところでは、国民に持たせようとしてもほとんど不可能である。
 個人の自由は、現代の多くの民主主義国において、例えばアメリカ等でも十分に尊重されていないようだ。これは19世紀以来、後退現象が生じている一例である。その原因は恐怖からであるが、自由を減少することが、恐怖から逃れる方法であるとも考えられない。(イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)
 民主主義の基礎は、「すべての人間は平等である」という格言の上に歴史的に置かれているが、これは各人が政治上の問題で、平等であるという趣旨で、各人の能力が平等であり、各人の判断が平等に正しいという意味ではない

 
 民主主義の理論は、ラテンアメリカでも採用されたが、失敗して独裁者がつぎつぎに出ている全然非文明の状態にある人々の間では、民主主義は成功しない。根本的に互いに憎悪し合っている集団の混合している国では、実行はほとんど不可能である。政治の上で自由が認められ、公平な取引をした経験を人民多数が持っていなかったら、民主主義をその国に突然に持ちこんでも駄目である。しかし、民主主義が実行可能な場合には、是非それを実行すべきである。前述したように、民主主義は、権力者の暴虐を抑えるに効力のあるものであり、民主主義国では、不平不満を解消する方法として、次の選挙に期待することができ、反乱に訴える必要をなくする。また、民主主義の下でなくば、確保された自由はあり得ない。
 西欧語国の中にある最善なものは、「民主主義と自由」で、これを発展させる以外に人類の進歩を可能にする方法はない。
 われわれが、人類のために残しておかねばならぬものは、建設的であって、破壊的でない働きをする「個人の独創力と自由」に対する尊敬の念である
 民主主義の長所を認めることを全然希望せぬ人々に対しても、その長所がはっきりわかるように、われわれは振舞うべきである。それは気長な、忍耐のいることであろうが、われわれのつとめである。戦争をすることはたとい勝っても、結局損である。共産主義国が戦争をしかけてくれば、どんな犠牲を払っても、その挑戦に受けて立たねばならぬが、できる限りの忍耐をしていれば、その内に、彼らも民主主義の長所を認める日が必らず来るであろう(注:これは第二次世界大戦後まもない頃の発言です)