バートランド・ラッセル著書解題4_ラッセル『数理哲学序説』(中村秀吉・解題)
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第4号(1966年5月)pp.3-5.
ラッセルの平和運動は,わが国でこそ名声嘖嘖(さくさく)たるものがあるが,それは結局,わが国が原爆の被害を受けた唯一の国であるということと,かれが哲学者・思想家として功成り名遂げた名士であるということにもとづくであろう。おそらく英語国民のあいだでは「余計なことをするじいさんだ」と顰蹙(ひんしゅく)する向きも多いであろう。政治的な影響力というものは,その人がほかの領域で獲得したプレスティッジによることが多い。そしてこのことは,人間が人間に加える権力または抑圧力について絶えず考察してきたラッセルその人の,よく心得ていたところにちがいない。そのプレスティッジは,かれが論理学・数学基礎論・認識論の領域で獲得したものであろう。もっと精確にいえば,このような浮世離れした,抽象的な対象領域で第一級の仕事をした人が,もっとも生々しい政治の修羅場でも勇気をもって自分の意見をのべ,泥まみれになって働いていることが,唯一の原爆被災国民であるわれわれの心に訴えるのであろう。
しかしラッセルの専門領域の仕事になると,その内容はあまり知られていないというのが真相ではなかろうか。とくに,政治哲学や人生論ならとにかく,かれの仕事の中核である数学基礎論や論理学については専門家以外にはほとんど知られていないであろう。この事態はかれの母国である英米においてもあまり変わらないと思われるが,わが国のばあい,かれの考え方そのものが思想界でもなじみの薄いものであったようである。しかしこの巨人の平和運動での重みというものは,かれの専門領域での仕事の重みを理解することなしには十分身にせまってはこないであろう。
ラッセルのこの方面で業績は,師のホワイトヘッドとの共著である大作『数学原理』に集大成されているといってよい。かれは1900年から1910年頃までの,かれの人生における最良の10年間をこの仕事の完成に惜しみなくささげたのである。しかしこの本は非常に大冊であるばかりか,かなり冗長な,ほとんど退屈な記号の羅列なので,実際に通読した人はほとんどないといっても過言ではあるまい。これを通読した人は一ダースしかいないだろうとか,ことによると,これを書いたラッセルとホワイトヘッドだけではなかろうか,などといううわさもたてられたほどである。しかしラッセル自身はここにとりあげる『数理哲学入門』において,ほとんど記号を使わないでその平易な解説を試みたのである。この『数理哲学入門』は,ラッセルが1918年5月から1919年9月まで(松下注:「1918年9月」の間違い),反戦運動のかどで,獄につながれていた間に一気に書き上げたもの(注:獄中での執筆)である。われわれは彼の集中力にも驚くのであるが,同時に,いかほど自分がやったことの要約とはいえ,ほとんど参考書もない不便ななかで,これほど明晰かつ性格に『数学原理』の要点を叙述できたことに一驚を禁ぜざるえないのである。
本書ではまず数学のもっとも基本的概念である自然数列から問題が説き起こされ,自然数の定義が導入される。がんらい哲学では,自然数を何か感性的対象とふつうの一般者との両面をもったもの,ないしその中間者として,独自の対象と考えられてきた。一方,ペアノは自然数の公理系をつくるのに成功し,ある命題群を満足する勝手のものとして自然数を陰伏的に定義した。ラッセルはこの両方の考え方にあきたらず,個々の自然数を相似な,個物のクラスのクラスとして定義した。これによって個々の自然数は純粋に論理的な慨念であるクラスに還元されることになり,その把握に何か特殊な直感力のようなものを必要としなくなったのである。同時に,ペアノの公理とは違って現実的個物との関係もつき,一と他の関係のような哲学的アポリアにも一応の答を用意できることとなった。もっともこの見解はずっと以前にフレーゲによっていだかれていたが,ラッセルはこれ(=フレーゲがすでに考えていたこと)を知らなかったのである。これに反し,負数や有理数は関係概念として導入される。関係の理論はラッセルの論理思想のなかで中心的位置を占めるものである。これは存在の構造を実体=属性の累層のごとくに理解した旧来の哲学に対する根本的な批判として出てきた。しかしかれの関係の理解は,これを関係せしめられる項の組と考える外延的見解(これはとくに最近になって発展した)に対して内包的といえるもので,かれの外延的(クラス論的)な自然数論とはかならずしも調和していないようにみえる。この関係のなかで基本的に重要なのは順序をあたえる関係であるが,順序をあたえる関係の特別なものとして系列をあたえる関係がある。系列のなかでもっとも重要なものとして自然数系列が考えられる。もちろん自然数系列は系列を一般に定義しないでも,ペアノに従ってその初項の0と関係「後継者」をあたえれば構成できる。後継者とは,ある数nに対する数n+1の関係である。ラッセルは数学的帰納法や一般に(有限)数をこのような関係概念から定義している。それには,あたえられた任意の関係から構成される祖先関係なるものを媒介にすることが必要である。このような有限数および帰納法の定義が重要なのはなぜかといえば,クラスのクラスとしての数の定義では有限・無限は区別できなかったからであり,帰納法はそれまで公理とみなされてきたからである。帰納法を公理とみることは,それに関する非合理な哲学的理論を生むもとになる。(たとえぱポアンカレ『科学と仮設』をみよ。)もっとも,この理論の基礎をなす祖先関係の定義もすでにフレーゲによってあたえられていた。
いままでのべた数の定義は実は基数とよばれるべきものであった,自然数は集合の大いさを決める基数としての性質とともに,事物の順序を規定する序数としての性質を有する。ラッセルは奇数の一般的な定義になぞらえて序数をはるかに拡張した関係数なるものを定義する。つまり関係Pの関係数をPに順序的に相似な関係のクラスとして定義するのである。すると序数は整列系列とよばれるものの関係数ということになる,整列系列とは,その任意の部分系列がすべて第一項を有するような系列である,序数や整列系列の概念そのものは,すでに集合論の創始者カントルが確立していたものである。しかしラッセルは序数をはるかに拡張した関係数について,加法・乗法等の算法を定義したりした。これは順序的に相似な関係が対象の特定の「構造」を決定すると考えるからであろう。対象の構造はその素材には関係しない。伝統的哲学で物自体が知りえないなどというのは,構造と素材とが分離されないで考えられているからである。構造は対応関係として十分認識でき,この構造を知ることが結局対象について知ることなのだというのが,かれの哲学的見解であった。こうして,かれにおいては抽象的かつ技術的な議論が,歴史的根拠を有する哲学的問題を背景にして出されているのである。
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本書でのべられた実数の理論はデデキントの切断の考えにもとづくものであり,複素数や極限,連続等の議論は19世紀以来の数学で発展せしめられ,最近とみに普及した,集合論にもとづく精密論法と本質的には同じである。無限基数と無限序数についての叙述もカントルの理論を基礎にしている。しかしラッセルは,このような在来の理論を説明するときも,すべて自分のことばで,自分の体系内で論じていることに注意せねばならない。
無限集合の領域でかれに独自なものは無限公理と乗法公理であろう。無限公理は,この世界には現実に無限集合が存在することを確言することはできないということから,このことを公理のかたちで要請したものである。その便利なかたちは,nとn+1とはつねに等しくないというものである。乗法公理はツェルメロの選出公理と等値なものであるが,ラッセルはこれを,無限個のクラスのそれぞれの要素数の掛け算をいかに定義すべきか,という問題に関連して提出している。
ラッセルの論理学的寄与のうちで,ほかに重要なものは命題関数および記述の理論である。しかしこの両者とも本書でくわしく説明されている。命題は古来,主語=述語形式として考えられたため,たとえば「ソクラテスは死ぬものである」と「すべてのギリシ人は死ぬものである」とを同一形式のものとして扱ってきた。しかしかれによれば両者はまったくちがうのである。その理由は,前者では「xは死ぬものである」という命題関数しか登場しないのに,後者では,これと「xはギリシャ人である」という2つの命題関数が登場しているというのである。このように,ある命題中の変項におき代えたものをラッセルは命題関数とよんだが,それは古典論理でいう属性を拡張し,合理化したものである。しかしかれの理論では命題関数の形式的構造の規定が十分でなく,実念論的・内包論理的に考えられる傾向があったため不明確な点をかなり残すこととなった。かれはまたクラスの実在性を信ぜず,これをそのクラスを決定する命題関数に還元して考えた。
ラッセルはまた個体を指示するかにみえる名辞が実は個体を指示するのでなく,たんに対象のあり方を記述しているにすぎないようなもの-記述句-があることを見出し,その精密な理論をつくった。これがいわゆる記述理論である。おそらくそれはタイプ理論と並んでかれの名を不朽ならしめるものであろう。英語では記述句は冠詞または「the」が付く名詞句となる。かれはこのような記述句を,これを含まない文に還元することを試みたのである。この記述の理論は本書に丁寧に説明されている。
本書の最後の章は,数学と論理学の関係を一般的に論ずることにささげられている。ラッセルの数学基礎論の究極の目的は,フレーゲに由来する自然数の論理学的定義から始めて,数学を論理学に還元することであった。しかしこのようにいうばあいの論理学とは何であろうか。かれやフレーゲらはこの論理学なるものの現代的規定に大きな寄与をなしたのであるが,本章にのべられていることは結局論理学なるものがどの範囲のものであるかは明確には規定できないということである。ともあれラッセルが本書に盛られたような業績を通じて新しい論理学の先駆者となったことは疑いをいれないところで,この意味でも本書は現代の論理思想を知るための,開拓者自身による手引として末長い価値を有するということができる。筆者は,ラッセルに関心を寄せる人は残らず本書に眼を通されんことを望むものである。(了)