バートランド・ラッセルのポータルサイト
ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

シェアする

バートランド・ラッセル著書解題2_ラッセル『ボルシェヴィズムの実践と理論』(江上照彦・解題)

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第2号(1965年9月)pp.8-11.
[江上注]ボルシェヴィズムとは,レーニンによって発展された,帝国主義とプロレタリア革命時代におけるマルクス主義のことで,常識的にはソヴィエト共産主義のイデオロギーと言って良い。
[松下注]本書の邦訳は,河合秀和訳『ロシア共産主義』(みすず書房,1990年刊)が入手可能です。)

 この本は1920年に書かれたものである。ラッセルは1872年の生まれであるから,齢48歳の時の著作である。この本の持つ大きな意味は,これがソヴィエト訪問の印象記であると同時に,彼のボルシェヴィズム観の基本を示していることである。
 英国の進歩派は,第一次大戦後のロシア革命(1917年)に熱烈な拍手を送ったが,ラッセルも(ロシア革命勃発時)その一人であった。1918年1月,彼はクリフォード・アレン(Clifford Allen)に,「世界は呪うべき状態にある。レーニンとトロツキーだけが明るい地点だ。」と書き送っており,また「世界は日々に希望を増している。ボルシェヴィキは私を喜ばす…何という大成功だ。.…。」とも書いている。彼のソヴィエト礼賛ぶりがこれらの行間にうかがわれる。
 ところで,1920年の初夏,彼にソヴィエト訪問の機会がおとずれた。イギリス労働党代表団の非公式メンバーというのが彼の資格だった。そして一行のロシア滞在期間は5月19日から6月16日までだった。
「・・・我々は,国境からペトログラード(松下注:現在のサンクト・ペテルブルグ/ソビエと時代は,レニングラードと呼ばれていた)まで -その後の旅行も同様だったが- 社会革命と万国のプロレタリアートに関するモットーを一杯書き連ねたトレーン・ダ・ルックス(豪華列車)で運ばれた。われわれは至る所で多数の兵士たちの出迎えを受けた。その際,軍楽隊によってインターナショナルが奏せられ,この間,市民は脱帽し,兵士は捧げ銃をして立っていた。・・・要するに,あらゆる待遇が我々を英国皇子にでもなったような気持ちにさせたのである。」(本書 The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)
 しかし,こうした大歓迎が,少なくともラッセルには必ずしも好印象をもたらさなかったことは,ソヴィエト当局者に気の毒なようなものである。ラッセルは帰国すると早速,ソヴィエト・ロシアに対する慎重な分析と批判の執筆に取り掛かった。そして早くも,同年(1920年)9月に,その成果である本書が出版されたのである。本書の内容はラッセルの序言のほか,第1部「ロシアの現状」と第2部「ボルシェヴィキ理論」の2部から成り,そして第1部は「ボルシェヴィズムは何を希望するか」「一般的特徴」「レーニン,トロツキーおよびゴーリキー」「共産主義とソヴィエト憲法」「ロシア産業の失敗」「モスクワの日常生活」「都市と田舎」「国際政策」の各章から,また第2部は「唯物史観」「政治における決定的な力」「ボルシェヴィキの民主主義批判」「革命と独裁」「機構と個人」「なぜロシアの共産主義は失敗したか」「社会主義の成功の条件」の各章から成っている。概して言えば,標題からも伺われるように,第1部は,当時のロシアの現実の批判的ルポルタージュというような色が濃いし,かたわら第2部は,同じく批判とは言っても純理論的である。第1部,第2部共,ボルシェヴィズム批判の文献としていずれも貴重であることは勿論だが,ただ,第1部にはラッセルが当時,直接その目で見た革命直後の都市や農村の記録や革命の大立物たちの人物像の描写が含まれているので,それが特におもしろい。レーニンやトロツキーやゴーリキーらとの会見記で彼らの風貌を叙するラッセルの筆は,すこぶる精密であると共に生彩に富んでおり,おまけに辛辣でもある。たとえばレーニンはこんな風に描かれる。「…彼は非常に親しみ深く(易く),見た所素朴で,横柄な所は全くなかった。誰であるかを知らずに会ったとしたら,彼が偉大な権力を持っているとは,あるいは彼がとにかく優れた人物であるとさえ,思わないだろう。私はこんなに尊大ぶらない人物にはかつて会ったことがない。彼は訪問者をじっと見て片方の目をすぼめる。これは,もう一つの目の洞察力を驚くほど増すように見える。」と,始めラッセルはレーニンの好印象を語るが如くであるが,やがてその口ぶりは微妙に転調する。「彼は大いに笑う。最初の内は,彼の笑いはただ親しげで陽気に見える。しかし,だんだんと私には,それがやや薄気味悪いものに感じられるようになった。彼は独裁的で,冷静で,恐れを知らない,ことに利己心を欠き,理論の権化である。唯物史観は彼の生命の血であるような感じがする。」そして,結局,レーニンは「偏狭な大学教授」的であり,「きわめて多くの人々を軽蔑しており,一個の知的貴族であるという印象を受けた。」というのである。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

ロシア共産主義新装版 [ バートランド・ラッセル ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2020/2/12時点)


 ラッセルのレーニン批評には好悪と賛否の2つのものがまじり合っている。すなわち,ラッセルは,レーニンの辺幅を飾らない,いわばざっくばらんな態度には大いに好感を抱くのであるが,とは言え,「彼が余りに独断的であり,窮屈なまでに正統的であることに驚き」,そして,「彼の力は,彼の正直さ,勇気,それから不動の信念 -マルクスの福音書に対する宗教的信念であり,それは比較的自分本位でないことを除いては,キリスト教徒の殉教者の天国に対する望みに代わるもの- から来ている。」と想像するのである。このような献身的信仰は,もともと自由への愛とは両立しない。ましてラッセル自身の懐疑主義的な気質がそのような信仰やドグマに強く反撥を感じないで済むはずがなかった。「私は,一つの社会主義国ロシアに行った。しかし,疑惑を持たない人々との接触は,私の疑惑を幾層倍も強める結果になった。」と彼は告げる。つまり,レーニンは,大雑把な人柄の良さという点を徐いては,ラッセルからの知的共鳴や尊敬を受けることはなかった。
 こうしてラッセルがレーニン個人に対して持った好悪,愛憎,賛否の相半ばする気持は,ボルシェヴィズムが当時ロシアにもたらしていたもの全体に対する彼の印象と奇妙に一致する。ラッセルはボルシェヴィズムの成果に良い面と悪い面があることを認めている。そして,彼はそれを公平に示そうとしたのだが,そうした態度が招いたのは,ラッセルの評伝を書いたアラン・ウッドが指摘しているように,(この本は)「一見した所,ボルシェヴィキに対する酷評と賞賛とが入りまじっていて奇妙な印象を与える」ことになった。ラッセルのこうした気分的な分裂状態を,彼自身が自覚して手紙に書いている。「私はロシアが好きになれない自分を叱りました。ロシアは力強い創業の特徴をことごとく具えています。この国は醜く野蛮ではありますが,建設的エネルギーと自己の建設への信念にあふれています。……でも,あの雰囲気の中で私は無限の不幸を感じました -その功利主義や,愛とか美とか自然の衝動に根ざす生活とかいうものに対する冷淡さに息詰まる思いがして。・・・。」(松下注:その当時の気持ちを的確に表現できるように,恋人コレットに出した手紙という形式を仮にとっているが,実際は,英国に帰国後,日付を遡って書いている。)

ラッセル著書解題
 では,ラッセルが,中でも嫌悪し否定するボルシェヴィズムの性格は一体何なのか。それは,すでに幾らか触れたように,そしてレーニン個人の性格にも象徴されているような「プロレタリアート独裁」とそれを支える宗教的狂信なのである。ロシアの共産主義者の言う独裁は,文字通りの独裁である。しかし彼らが「プロレタリアート」と言う時には,この言葉に独特の意味が含まれる。決して文字通りには使われていない。この言葉が指すものは,プロレタリアートの「階級的に自覚した」部分すなわち共産党に限られるのだ。共産党員は,マルクス主義という一つの信条に忠実なあまりに,他の社会の多数に悲惨な生活を強いても平気である。なるほど,彼らは身自らを律することにも厳しいかも知れないが,同様に,あるいはより以上に他人を容赦しない。ところで,このような社会がかつて歴史上に存在したであろうか。ラッセルは,ソヴィエト政府に近似したものとして,フランスの執政府やクロムウェルの政府をあげる。まじめな共産党員は,厳格な政治道徳を標ぼうしている点でピューリタンの兵士に似ないでもない。クロムウェルが議会に対して採った処置は,レーニンが憲法制定議会に対して採った処置に似ている。「いずれも,デモクラシーと宗教的信仰との結合から出発しながら,軍事的独裁の強圧によって宗教のためにデモクラシーを犠牲に供することになった」のだ。ラッセルは言う,「私のように,自由な知性が人間の進歩の主な手段であると信ずる者は,ローマ教会に対すると同じように,ボルシェヴィズムに対しても根本的に反対せざるをえない。…共産主義を鼓舞している希望は,大体において,(キリストの)山上の垂訓の教える所と同じくらい立派なものである。しかし,前者は後者に劣らぬほど狂信的に信奉され,また,後者に劣らぬほどの害を生ずる恐れがある。」と。
 アラン・ウッドは言う,「私の見る所では,共産主義が一種の宗教であり,また,キリスト教と同じように,迫害を正当化するために用いられうる宗教であることか指摘した最初の論者はラッセルではないかと思う(すでに1896年の「ドイツ社会民主主義論」(German Social Democracy)においてラッセルがマルクシズムを宗教と呼んでいることに注意)。」と。しかし,ラッセルは,ボルシェヴィズムを,同じ宗教でもキリスト教や仏教よりも,むしろマホメット教と同列に置くべきものと考える。キリスト教と仏教は元来個人的な宗教で,神秘的教義と瞑想に対する愛とを備えているのだが,マホメット教とボルシェヴィズムは,実際的,社会的,非精神的であって,現世の帝国を掌握することに関心を持っている。マホメットがアラビア人のためにした事を,ボルシェヴィズムはロシヤ人のためにしようとするのではないかと,こんな風にラッセルは論じるのである。ラッセルがボルシェヴィズムの美点と欠点とを公平に見ようとしたことは,すでに述べたが,そのような共産主義者に対して公平であろうとした努力にもかかわらず,本書は,イギリスの社会主義者たちを始め,世界の「進歩派」の多くの反感を買った,たとえ彼の批判が正しいにせよ,それを公表することは,反動的保守主義者たちに力を貸す恐れがある,というのが非難の主な根拠になったようである。言うなれば,認識や知識と政治的活動との微妙なからみ合いの問題である。敏感なラッセルがこれを感じないわけはない。彼は一般的な感情と個人の知性との矛盾相克を痛感し,悩んだのであって,「自伝的回想」(Portrait from Memory, 1956)でこれを次のように語っている。
「私には(ロシアの)統治形態がすでに憎むべきものに思われ…狂信の当然の結果である自由と民主主義への軽蔑に悪の根源があると思った。当時の左翼は次のように考えた。ロシア革命は反動によって反対され,革命の批判は彼らの都合の良いように行われているのだから,革命がどんな事をしようと,人はロシア革命を支持すべきであると。私はこの議論の強さを感じ,ある期間,何をなすべきかに迷ったが,結局私は真理と思われるものに従うことに心を決め,ボルシェヴィキの統治形態が憎むべきものであることを公然と述べ,この意見を変える理由を認めることはなかった。」
 ラッセルのこの毅然とした態度は正しいし,そうあってこそ,ラッセルが人類の迷妄を照らす炬火であるわけだが,実際の成り行きは,ボルシェヴィキをほめないということで多くの友だちと意見が合わなくなり,彼が良心的参戦拒否者であったという事実までが改めて持ち出されて,全く四面楚歌の状態に陥った。クリフォード・アレンとの不和も本書に由来したものだった。
 ともあれ,確かに「1920年のロシア訪問は,私にとって人生の転回点だった」のである。ロシア滞在中にラッセルが感じたのは,次第に強くなる恐怖であり,ほとんど耐えられないほどの圧迫だった。国(ロシア)全体が広大な牢獄で,牢獄の看守たちは残忍で偏狭な狂信者のように見えた。にもかかわらず,彼の友人たちがこの看守たちを解放者として喝采し,彼らが作っている統治形態を極楽のように思っているのを見ると,何とも頭が混乱して,狂っているのは友だちの方か,それとも自分かと疑ったが,他人よりも自分の意見に従う習慣が(第一次)大戦中に強まっていた。だから,思ったままのボルシェヴィズム批判をやった結果は,多くの友だちたちが,私を「ブルジョアジーの従僕」とののしり,反面,反動派の連中は私のことを「臆病なボルシェヴィキの豚」と書き続けた,とラッセルは回顧する(「自伝的回想」)。この苦悶から彼を救ったのが,たまたまおとずれた中国旅行の機会であった。「ちょうどその頃,中国へ行って,1年間を欧州の騒乱から離れて幸福に送る機会を持ったのだが,もしこれがなかったら,以上の出来事は一層苦痛だったろう」とは,彼の述懐だ。しかし,アラン・ウッドはこの辺のラッセルの事情ないし心境にこんな注釈を加えている。「勿論,イギリスの社会主義者たちの間でのラッセルに対する批判は,彼が自分で信じていたほど激しいものではなかった。ラッセルは余りに敏感なので,他人が自分に対して実際以上に批判的であると思い込む傾向が常にあった。しかし,いずれにせよ,このことは四面楚歌の内に自分は政治的に孤立しているのだ,という感じを彼に与えるのに十分であった。」と。

 本書の初版が1920年であることは,冒頭に述べたが,1948年8月の再版には,「再版の序」として,彼は次のように書いている。「本書は,2つの点を除いては,初版のまま改訂しないで再版される。第1に,私が書いたものでない一章(=ドラ・ブラックが書いたもの)を除いた。第2に,多くの個所で,現代の用語例に従って,「共産主義」という言葉を「社会主義」に書き換えることが必要と考えた。…もし私が今書くとしたら,若干言い方の違うものが出てきたろうが,しかし重要な点では,私は依然として1920年に,私がロシア共産主義に対して採った見解を正しいとしている。それからのその発展は,大体私の予想通りだった。

 この本がほぼ30年後に,ほとんど改訂を加えずに再版出来たことは,確かに,アラン・ウッドの言うように,「政治についての観察と予言が時の経過に耐え得た驚くべき一例」と言ってよかろう。
 この解題については,拙訳のほか,なお次の二書を参照し,引用したことをしるして謝意を表したい。

1)『ソビエト共産主義-ボルシェビズムの実践と理論-』江上照彦訳,社会思想社刊
2)『バートランド・.ラッセル』アラン・ウッド著,碧海純一訳,みすず書房刊
3)『自伝的回想』」(ラッセル著作葉)中村秀古訳,みすず書房刊行