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バートランド・ラッセル著書解題1: 『ラッセルは語る』(東宮隆・解題)

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第1号(1965年5月)pp.4-5.
* 東宮隆氏(1911~1985)は当時,東京工業大学教授,ラッセル協会常任理事

 本書は,今から六年前,一九五九年の春,BBCテレビを通して,ラッセルが対談形式で語ったものを,そのまま書物の形にしたものである。質問にあたったのは,当時の労働党下院議員,テレビ解説者,W.ワイアット氏。本書の特徴は,対談という形式のため,ラッセルが,考えの浮ぶがままに,しかし知的コントロールを少しも失わずに,各種の問題に対する自己の所信を語っているところにある。もとより時間の限られたテレビ放送のことだから,質問者も,できるだけ各テーマの要点をしぼって臨んでいることはもちろんだが,それにしては,質問者が,各方面のラッセル批判者の問題にしている点をよくふまえて,当時すでに九十才にちかかったラッセル卿に次々と質問を発してゆく様は巧みである。
 ラッセルの応答は,どの一言も真率(しんそつ)で,同時に機智にあふれている。そのあっさりと言ってのけられたように見える言葉にも,ながい生涯の苦渋の影が添わっているはずなのに,それが淡彩にぼかされて殆んど無色にちかいように見えるのは,ラッセルの態度が常に冷厳な事実を直視しようとするところから来るのはもちろんであろうが,卿がすでに高齢に達して,人間も社会もすべてを達観しているからでもあろう。本書は,叙述こそ簡単だが,読む人によって深い感慨をも与えうる内容を持っていると同時に,現代のジレンマに対するラッセルの考えの到達点の殆んどすべてをも含むものである。

 第一回「哲学とは何か」では,ラッセルが世間から論理的原子論者という名を冠せられるに至った経緯をユーモラスに語り,そのように呼ばれる哲学からこそ却って「懐疑的」勇気が出てくるべきはずだとして,世界を理解するのが哲学者の務めであると述べている。

 第二回「宗教」では,ラッセルが幼時から厳格な清教徒的雰囲気の中で宗教的に躾られた点を回想しながら,神も霊魂不滅も自由意志もいずれも信ずべき根拠のないものとするに至った事情に触れ,宗教をもって一般に恐怖心に根ざすものであるとするラッセルの根本態度を示している。この間,質問者の質問は,イギリス人一般の宗教心を代表するかのごときかなりの突っこみを見せている。

 第三回「戦争と平和論」では,第一次大戦で反戦論者であり今次の大戦ではヒットレリズム打倒論者であった卿の「矛盾」に触れた質問にこたえながら,現実政治に対する具体的な批判と提案を行い,
 第四回「共産主義と資本主義」では,政治的革新に対する共感を持つが故のソヴエート体制に対する強い批判を述べると共に,西側自由世界に真の自由の欠如している点を指摘して,両者の改善された共存の可能性について語っている。


ラッセル著書解題
 第五回「タブー道徳」という題名は,どちらかと言えば分りにくい題名だが,それは,ラッセルにとって無意味でもあり有害でもある既成道徳を指すものであり,セックスその他の面で旧来の道徳に楯ついてきたラッセルの行動と主張が,この題名の背後にあることを思えばうなずきえない題名ではない。

 第六回「権力」は,一九三八年に出版された同名のラッセルの著書にもとづいたテーマであるが,この著書も「経済的権力」のみに特殊な力点を置くマルクシズムの流行に抗して,もっと柔軟で,流動性のある,「権力」(注:「政治的権力」だけでなく,広義の「(権)力」)という概念を導入し,これによって社会科学に一つの斬新な観点を樹立しようとしたものであった。

 第七回,「幸福とは何か」。「わたくしは若いころ実に不幸せでした・・・わたくしには友だちもなく,話し相手もいませんでした。」この言葉に続いて出てくるエピソードは,ラッセルが幼いときに相次いで両親を失い,祖父母の手で育てられた,ひとりぼっちの少年であった事情を偲ばせるものである。総じて本書にはラッセルが何気なく自己を語っているところが幾つかあり,わたくしなどの知らなかったラッセルの身辺の事実の述べられている個所も幾つかある。

 第八回「ナショナリズム」は,ラッセルの持前である,政治的ナシヨナリズムないしショーヴィニズムと人種的偏見とに対する,激しい非難の章であり,


ラッセル協会会報_創刊号
 第九回「大英帝国」には,昔日の大英帝国が,こんにち数々の矛盾をかかえながらも,福祉国家にまで到達したことに対する,ラッセルの愛情が語られ,イギリスの伝統を愛惜してやまない最もイギリス人らしいイギリス人としてのラッセルの一面が出ている。

 第十回「個人の役割」という題名も,さきの「タブー道徳」と同じく,ラッセル独特の考えかたを示すもので,「有史以来わたくしたちの知っている人間の重要な進歩はすべて,世間の悪意に充ちた抵抗とおおかた対決した個人によるものばかり」だとの,ラッセルの倫理思想に根本的な支えを持つ考えかたを示すものであり,
 第十一回から第十三回までの,「狂信主義と寛容」,「水爆」,「人類の将来はどうなるか」は,これらの題名からすでに推察されるように,現代世界の各種の狂信主義がどんなに大きな脅威であるかという点にわれわれの注意を促すと共に,寛容の態度-ラッセルが別の著書の中で「合理的」懐疑主義とも名づけているものによって,われわれが,この危険の回避に最大の努力を致すべき-ことを説いている。

 以上十三のテーマの配列は,広汎な視聴者への顧慮によるものであり,各テーマ相互の関連も必ずしも明確とはいえないが,しかしこれらのテーマは,それ自体,ラッセルの問題としてきたものがどこにあったかを,だいたいにおいて明らかにしてくれるものである。(終)