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岩谷元輝「大学の荒廃とバートランド・ラッセル」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第23号(1975年5月)p.13-14.
* 岩谷元輝氏は、元神奈川大学教授
*1970年前後、日本全国でわき起こった大学紛争について口にする人はほとんどいなくなってしまった。当時の学生運動には、評価すべき面(反戦運動、反権威主義、マスプロ教育への抗議等々)も少なくないが、批判されるべき面(学生セクト間の暴力沙汰、同一セクト内の粛正=殺人、誇大妄想等々)も多い。岩谷氏がこのエッセイで指摘しているのは、学生運動の影の部分である。

もう一つの大学紛争 全共闘・「解同」と対峙した青春 [ 鈴木元 ]





ラッセル協会会報_第23号
 具体的な話をしたい。私が数年前まで勤めていた横浜の私立○○○大学は今なおヘルメット学生どもの横行を許している。学生寮はこれら学生どもの全国的拠点となり、授業料はこれら学生どもの圧力によって過去9年間値上げもならず据え置かれて6万円である。昭和49年来、大学当局は累積赤字に堪りかね、教授会の議を経て値上げを発表するや、忽ち青ヘルメットどもの食いつく所となり、お定まりの「大衆団交」。団交の初めに青ヘルは、警察には決して通報しないことを大学当局に誓言せしめ、然るのちに値上案撤回を迫り、撤回を肯んじない常務理事の哲学博士をぶんなぐった。そのあとは連日、授業中の教室へ押しかけては教員を教壇から引きずりおろして別室へ連れこみ、大勢で取り囲んでいわゆる「自己批判」を迫ると、悲しや教員たちは忽ち屈して値上反対を誓約する。「よし」と教員を放免した学生どもは、教員一人一人の自己批判をタテカンに大書し、署名を添えて校庭に並べる、という惨憺眼を蔽わしめる光景が現在展開されている。「自己批判」をして値上げに反対している教員たちは教授会では値上げに賛成した人々である。何というブザマさだろう。正に亡国の兆、何故こういうことになるのか。
 学生どもとの交渉の初めに、警察力には頼まないことを誓ったのがすべての間違いのもとである。警察力を悪の力と思いこんでいるいわゆる警察アレルギーは、○○○大学に限らず日本の大学教員に共通のもので、恐らく世界に類例を見ない異常体質だが、なぜ日本の大学教員だけがこのように異常なのかは、その因って来る所、一言に尽し難い複雑なものがあるようだ。しかし、いずれにしても日本の大学教員たちが「基本的人権」というものを本当の意味では知らないことは確かである。
 日本の大学教員たちは無論日本国憲法が「侵すことのできない権利」としてこれ(基本的人権)を保障していることを「知って」いる筈だが、ヘルメット学生どもが教員を取り囲んで行動を拘束している時、基本的人権は明らかに侵されているのに、それに対して叱責はおろか非難も抗議もせず、抵抗力を失い又は放棄して学生の意に従うことによって彼等は、基本的人権が「侵すことのできない」権利ではなくて「侵すことのできる権利」であることを身を以って証明しているのである。「侵すことのできない」とはどういうことかを知らないのだ。
 「知る」とは何か、「信ずる」ことだ。信じてその信に殉ずることだ。日本の大学の教員たちが真の意味で基本的人権を「知らない」ことをヘルメット暴力学生どもは天下に明らかにした。その功績は特筆大書するに値することを認めつつ、ここでラッセルという人を思う。ラッセルはただの知の人ではなかった。信の人であり、その信に殉ずる用意のある人だった。世の学者たちの上にひときわ高く抜きん出るラッセルの偉大さがここにある。ラッセルに学ぶ我々は研究の焦点をここに置かなければラッセル読みのラッセル知らずで終わるであろう。学生に脅迫されてブザマに詑びる人たちもラッセルの3冊や5冊は読んでいる人たちであることを思えば、ラッセルを読むことよりも、ラッセルの如くに生きることが我々の目標でなければなるまい。一言以って自戒とする。