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石本新「バートランド・ラッセルと論理学」

* 出典:『バートランド・ラッセル協会会報』第15号(ラッセル追悼号:1970年5月)pp.2-3.
* 石本新は当時,東京工業大学教授

 いまや亡きラッセルを偲んで,論理学者としてのラッセルの業績を概観してみたい。

 ラッセルの論理学といえばホワイトヘッドとの共著になる有名な『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』(一九一〇~一三年)に集約されているのであるが,この『数学原理』を中心としてラッセルの論理学を検討するに当たって,二つの方法が考えられる。その一つは『数学原理』その他に具体化されているラッセルの論理学の果した歴史的役割りを一切無視して,現在における近代論理学,あるいは,数理論理学の水準を踏まえて,ラッセルの論理学を批判することであろう。このような立場にたつと,ラッセルの論理学は確かに時代後れである。ゲーデルその他の数理論理学者の批判をまつまでもなく,ラッセルの論理学が厳密さを欠いているということは,いまや周知の事実である。たとえば,『数学原理』には公理は与えられているが,推論法則を欠いている。したがって,やかましくいえば,『数学原理』において公理以外の定理を導出することは不可能である。また,初版において用いられている分岐階型理論においても,また,一九二五年に発表された第二版において採択された単純階型理論においても,その定式化は甚だしく厳密さを欠いている。そして,これらの理論が組合せ論理学の立場から正しく再構成されたのは比較的最近のことなのである。
 こういうわけで,ラッセルの論理学を,そのままの形で,現在でも利用しようという論理学の専門家は,一部の哲学的論理学者を除いては,まず見当らないといってよい。
 とすると,わたくしたちは,いかなる視点からラッセルの論理学を批判すべきであろうか? いうまでもないことであるが,より幅の広い歴史的観点,より厳密にいうと,思想史的観点からであろう。具体的にいうと,論理学とか数理論理学といった狭いわく組みを超えて,ラッセルの論理学を位置づけようという立場からである。こういった考えにもとづくラッセル哲学,あるいは,論理学の検討という厖大な仕事は,筆者の知る限りでは,誰も企てていないし,また,この場所で試みることができるという性質のものでもないが,近代の現代による超克という大きなわく組みのなかで,ラッセルの論理学を簡単に概観してみよう。

ラッセルの言葉366
 誰かがいったことであるが,十九世紀は理性の世紀であるといわれている。ルカーチの「理性の破壊」においてこのことはとくに明らかなのであるが,理性というものがすでに確立していて,それがいろいろの形をとって発展し,変化していくのが歴史であるというのが,十九世紀の哲学,とくに,マルクス主義をも含めてのドイツ観念論を特徴づける基本的考え方であろう。そして,ある意味で理性に酔いしれることが哲学者の任務であるとさえ思われていたのである。
 しかしながら,理性なるものが仮に存在するとして,その構造を刻明に分析するという仕事は,多くの場合,なおざりにされてきた。そして,数学や自然科学の急速な発達に眩惑されて,理性の限りなき上昇的自己運動といったものに疑いをさしはさむ人はほとんどいなかった。このことは,わたくしたち自身の経験に照らし合せてもある程度了解できることである。実際,多くの非専門家は数学や自然科学に対して驚くほど素朴な信頼感を懐いている。そして,このような,いってみれば,いわれなき信頼感が,明治におけるわたくしたちの十九世紀西洋とのめぐり合いに由来しているのだといったら思い過しであろうか。
 ところが,十九世紀の末から二十世紀の初頭にかけていわゆる数学の危機と物理学の危機がきびすを接して起こった。これについては,すでにいろいろと解説もあることであるから,ここではこれ以上述べないことにするが,要するにいままで絶対に確実な学問の典型であると目されてきた論理学や数学が,必ずしも確実でないということが暴露されると同時に,数学や物理学に具体化されていると考えられていた理性そのものの一層立ちいった分析が必要となったのである。新しい論理学,すなわち,記号論理学の開発はこれより以前にすでにフレーゲによって始められていたのであるが,この業績を踏まえて数学の再構成,すなわち,理性の再構成という仕事を,当時としては考えられる限りの規模において遂行したのは,わがラッセルに外ならなかった。そして,『数学原理』こそ,その集約大成なのである。すでに述べたように,『数学原理』に内在するいろいろの技術的欠陥を現在の進んだ立場からあげつらうことはむづかしいことではない。しかし,理性の分析,あるいは,その再構成という仕事に哲学史上はじめて着手することによって,十九世紀的理性,あるいは,ドイツ観念論的理性と訣別して現代への第一歩を踏みだしたという点において,『数学原理』に代表されるラッセルの論理学の功績は永遠に残るであろう。したがって,『数学原理』が現代ヨーロッパにおける最高の思想的所産であるというボヘンスキーの手放しの礼讃もけっして誇張ではあるまい。

ラッセル英単語・熟語1500
 しかしながら,『数学原理』を媒介として近代的論理学が現代的論理学によって完全に超克されたと考えるならば,それは思い過しである。少しでも『数学原理』に接したことがある人ならば,この著作が意外に伝統的哲学に忠実であることを見出して驚くであろう。実際『数学原理』とそれに基づいてその後展開された『外界に関するわたくしたちの知識』(Our Knowledge of the External World, 1914)その他の哲学的著作の背後には,意外なほど古い哲学がひそんでいることがわかる。極端ないいかたが許されるとするならば,これらの著作に盛られているラッセルの存在論はアリストテレスの形而上学の延長線上にあるといってもさしつかえない。いいかえると,ギリシアの古典哲学以来蓄積されてきた西洋哲学の全伝統が『数学原理』に集約され,ラッセルの哲学と論理学に具体化されているともいえよう。
 要するに,ラッセルの論理学の役割は近代から現代への橋わたしにあるのである。したがって,ラッセルの論理学を正しく評価するためにはその中間的性質を十分理解する必要がある。そして,二十世紀後半に論理学に課せられた任務は,二十世紀前半においてラッセルが苦労して開拓した近代から現代への道をさらに前進することであろう。いまのところ,ラッセルが自ら行なったように,伝統的哲学,あるいは,近代と全く手を切ることなしにその範囲内でさきへ進むという道と,こういった伝統を一切かなぐり捨てて操作主義に徹するという道が考えられるが,いずれの側が最終的勝利を収めるか予断を許さない状況である。しかし,いずれが勝つにせよ,近代論理学といういわば理性の革命をもたらした哲学史上における大きな運動の開拓者としてのラッセルの業績は永遠に残るであろう。