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石本新「バートランド・ラッセルの認識論」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第14号(1970年3月)pp.3-5.br> * 石本氏は当時,東京工業大学教授


ラッセルの『意味と真偽性の探求』訳書の表紙画像  初期におけるへーゲル主義の時代をのぞくと,ラッセルの理論的哲学2つの大きな原則によって貫かれているように思われる。2つの原則とは,数理論理学,すなわち,記号論理学と英国経験論である。論理学と経験論という,見かけ上対立する考え方を哲学史上はじめて結合させたのは1930年代の半ばに絶頂に達した論理実証主義であるということは,よくいわれることであるが,ラッセルこそその先駆者であったということはあまり注目されていないことである。このような方法論上の類似性からラッセルと論理実証主義者との間に交流が起こり,ラッセルは論理実証主義者を後継者とみなし,また論理実証主義者はラッセルをある意味でその師と仰いでいたことは,あまねく知られていることである。たとえば,1940年に発表された『意味と真実性の探求』(An Inquiry into Meaning and Truth)などは,カルナップをはじめとする論理実証主義者との交流の結果であるし,一方,カルナップの『世界の論理的構築』(1928)などはラッセルの認識論の発展継承であると考えられる。
 いうまでもないことであるが,ラッセルの長期にわたる哲学研究は,いまでもその価値を失っていないライプニッツの研究(A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz, 1900)ではじまっている。英国経験論の本場で育ったラッセルが,その当時,英国哲学界を風靡していたドイツ観念論の圧倒的勢力を考慮にいれても,大陸合理論の代表的哲学者であるライプニッツの研究によって哲学者としての第一歩を踏み出したということは興味深いことである。しかし,ラッセルのライプニッツ研究がラッセルのその後の哲学に大きな影響を及ぼしたということは,忘れてはならない事実であろう。実際,これから述べるラッセルの存在論の如きは,ライプニッツの形而上学の現代版といえないこともない。
 さて,このころから,とくに1900年にパリで開催された万国哲学会への参加を契機として,ラッセルの論理学研究はますます旺盛になっていく。そして,『数学原理』(The Principles of Mathematics, 1903)にはじまり,記述の理論などを経て,『数学原理』(Principia Mathematica, 1910-1913)に及ぶラッセルの哲学に対する最大の貢献と目される数理論理学の研究が展開される。『数学原理』の詳しい紹介をここで行う余裕はないが,このモニュメンタルな業績は,一言にしていうならば,数学解析のはじめにいたるまでの古典数学の基礎的な部門を小数の公理(注:「少数」ではなく「小数」であることに注意)から導出することにある。
ラッセルの『数理哲学入門』訳書の表紙画像  これらの公理が,無限の公理と選択公理を除いては,極めて論理的な公理であるために,ラッセルは数学は論理学に還元されるということを主張している。もっともラッセルのこういった論理主義はドイツの天才的論理学者フレーゲ(1848-1925)によって『算術の基礎』(1884)と『算術の基本原理』(v.1=1893,v.2=1903)などによってすでに得られていた結果であるために,ラッセル一人の功績ではなく,むしろフレーゲの結果の再発見という形をとるのであるが,いずれにせよ,数学がより基本的な論理学に還元されるということを具体的に示したという点で,今でもその価値を失っていない。
 しかしながら,フレーゲとラッセルの主張する論理学が今でも専門家によって,そのまま認められているかというとそれは疑問である。なぜならば,『数学原理』の背後に横たわる存在論は,多くの論理学者にとっては耐えがたいほど複雑で重々しいからである。したがって,現在では,古典数学ということに話を限るならば,より便利な公理的集合論などの方が,多くの論理学者に歓迎されているようである。
 ではあるが,この重苦しい存在論の故に,『数学原理』は,ラッセルの哲学に重要な役割を演ずることになる。じっさい,1920年代にヒルベルトの行ったように,記号論理学の展開は算術,あるいは,解析学の一小部分に限るということが(もし仮に)行われていたとするならば,これから述べる『数学原理』の哲学への応用といったことは,ラッセル自身の考え及ばなかったであろう
 『数学原理』が完成すると,ラッセルの興味は再びより哲学的な方向へと向っていく。そして,当然のことであるが,『数学原理』がその後展開されるラッセルの哲学に大きなかげを落とすことになる。
 まず『哲学の諸問題』(The Problems of Philosophy)が1912年に発表される。この書物においては,ラッセルの立場は『数学原理』などにおいて主張されたかなり極端な実在論の立場である。いいかえれれば,ラッセル哲学の2本の柱の一つである合理論が全面的におし出されているといってよかろう。実際,あらゆる種類の数のみならず,「そして」,「あるいは」などといった結合詞に至るまで「数学の原理」執筆当時のラッセルにとっては,ある種の存在者の表現であった。もっとも1905年に発表されたマイノング批判の結果として生まれた記述の理論などにおいては,実在論から経験論への譲歩というステップがはじまるのであるが,『哲学の諸問題』においてはいぜんとして実在論の立場が優勢であるといってよい。

ラッセルの『哲学の諸問題』訳書の表紙画像  しかしながら,次にあらわれた『外界に関する私たちの知識』(Our Knowledge of the External World, 1914)となると大分趣きが変わってくる。すなわち実在論から経験論への移行が,さらに進んだのである。そしてウィトゲンシュタインの影響のもとに,いわゆる「論理的原子論」の時代が始まるのであるが,第一次大戦後になると,ラッセルは『心の分析』(The Analysisi of Mind, 1921)によって再び別の立場に移行する。すなわち,ジェームズなどによって唱えられた中性一元論が公然と擁護されることになる。因みに中性一元論とは,この世界は心的でも物的でもないある種の素材から構成されていると主張するある意味ではたいへん観念的な哲学である。しかしながら,ラッセルは中性一元論にも長く留まっていなかった。そして,『物質の分析』(The Analysis of Matter, 1927)などを経て,論理実証主義からの影響もあり,さきに述べた『意味と真実性の探求』などにおいては再び『外界に関する私たちの知識』に近い立場に復帰するのである。とくに認識論に関しては最後の書物となっている『人間の知識』(Human Knowledge, 1948)においては,中性一元論といった観念の冒険とは甚だ隔ったより常識的な認識論と科学論が説かれている。
 このように,ラッセルの認識論は,実在論から経験論的な存在論へ,さらに中性一元論を経て,より純粋な経験論へと移行していくのであるが,大ざっぱにいうと,ある種の統一が見出される。そして,その統一とは,はじめに指摘した論理学と経験論が終始2本の柱となってきたことである。しかも,その論理学は,最近さかんに研究されている構成主義の論理学と異り,実在論的な存在論を背後にもつ『数学原理』の論理学であるから,いかに経験論に傾斜しても,バークリーやヒュームのような極端な経験論にまで突き進むというおそれはない。つまり,『数学原理』という歯止めが存在するからである。一方,実在論がニコライ・ハルトマンなどのように極端にはしるというおそれもない。なぜならば,英国経験論の伝統によって過度の存在論への道が予め封じられているからである。というようなわけで,ラッセルの哲学は実在論と経験論の調和,すなわち,論理学と経験論の総合という意味で論理実証主義の先駆者となっているのであるが,このことはすでに述べたことである。では,ラッセルの認識論は -といっても存在論であるが- いかなる構造を備えているのであろうか。これを主として『外界に関する私たちの知識』に基いて次に解説してみよう.,中性一元論なども哲学的には重要な問題をはらんでいるが,少なくともその論理的構造に関しては『外界に関する私たちの知識』と大差ないから,この書物によってラッセルの認識論を代表させても差しつかえないであろう。
 さて,ラッセル哲学は,英国経験論の伝統にしたがって,いわゆる感覚データから出発する。これが,何であるかということはなかなか説明し難いことである。さらに,感覚データとそれを感覚することを区別して,ブレンターノの指向性理論を認めるかどうかということもなかなか困難な問題である。実際,『外界に関する私たちの知識』の初版においてはブレンターノの立場がとられていたのであるが,中性一元論の観点から書かれた『心の分析』では,ブレンターノ説は退けられている。しかし,ここではこのような細部には立ちいらないことにしよう。
 感覚データがまず与えられ,ブレンターノの理論がある程度認められると,私たちは与えられた感覚データを知覚することになる。そして,この知覚の段階においてアウグスティヌスにはじまるといわれる熟知の理論が展開されることになる。感覚データが与えられただけでは,それが直ちに知識であるとはいえないが,感覚データを知識と化す過程を説明するのが,これから述べる熟知の理論である。
 たとえば,目の前に赤い表紙の一冊の本が置かれているとしよう。その本の外観は知識とならない限り感覚データであろう。この感覚データを知識とするためには,私たちはいくつかの対象を熟知しなげればならない。まず「赤」という一般者が熟知されよう。また,本を特徴づけるある種の形態も熟知の対象となろう。さらにこの本という個別者も熟知の対象であろう。このようにして把握されるこの書物という外観は,熟知の対象である「赤」その他の一般者と,この書物という個別者のある意味での空間的共存に還元されるが,熟知という行為については何も説明されない。つまり熟知という行為は,あまりにも原始的でそれ以上の説明を拒むといった行為なのである。しかしながら,この段階においてラッセルの認識論はいくつかの問題を提起している。まず,一応その存在の認められた存在者の範囲をいかに限るかという問題である。ところが,ここで再び立ちあらわれるのが,すでに述べたラッセル哲学を支配する2つの原理,すなわち,『数学原理』の論理学と英国経験論からの要請である。そして,さきに述べたような重苦しい存在論を背負う『数学原理』的論理学がラッセルの認識論の存在論化を促し,英国経験論がその経験論的傾向を助長するであろうということは当然期待されることである。
 実際,ラッセルの存在論においてその存在を認められる存在者はそれほど多種多様ではない。たかだか,熟知の対象としての一般者と個別者に限られているようである。しかし,具体的にその範囲を限るということは甚だ困難である。それどころか,ラッセル自身の考えもそのときそのときによって必ずしも一定していないようである。しかし,『数学原理』で利用できる道具立てによって,古典数学や物理的時間,空間を論理的に構成するのに必要な存在者の存在が仮定されていなければならないであろう。このような存在者がいずれも熟知の対象になり得るかどうかは必ずしも明らかではない。ではあるが,厳密な意味での経験論が維持されていないことだけは確かである。すなわち,わたくし,いな,世界中の誰もが過去においても感覚することのない存在者が感覚データとして存在しているということが要請されなければならないのである。
 さらに,できごと(event)という存在者もラッセルの認識論において重要な役割を演じている。できごとと感覚データの間の関係は,ラッセルによっても十分検討されていないようであるが,要するに,時空のある広がりにおいて起こるいろいろのことがらを単一の個別者としてまとめあげるとそれができごとになると考えたらよかろう。したがって,私がある感覚データを認識するということも,できごとの一種であるが,大ぜいの人が,同一であると思われる一つの感覚データを認識するということもできごとでなければならない。とすると,できごととは,場合によれば時空的にたいへんな広がりを持つということもあり,こういった,いってみれば大きなできごとが個別者であるということはかなり問題である。また,このようなできごとが,数多く無条件に存在するという想定は,ラッセルの実在論への大きな譲歩であると目されなければなるまい。

ラッセル協会会報_第14号
 こういった実在論的なできごとと,その間に成り立つ包含関係を利用して,ラッセルは時空連続体の構成にとりかかる。そしてサイバネティックスで有名なウィーナーなどの助力を得て,1914年ごろから1930年代の終わりに至るまでこの問題の技術的処理に努めたようであるが,最終的な結論は得られていない。しかし,このような研究に際して,『数学原理』の道具建てがフルに利用されていることは,いうまでもないことである。とくに,『数学原理』の実在論的性格ができごとにまつわる実在論とよく適合していることも興味ぶかいことである。
 時空をこのように論理的に構成しようという試みは,その後,ポーランドのレスニエウスキーによって大規模に試みられ,最近においても再び論理学界の話題になっている。
 このようなわけで,近代論理学と認識論の結合というフレーゲとラッセルによってはじめられた哲学史上画期的な企ては,けっして完成の域に達したわげではない。いままでのところ,いずれかというと『数学原理』などにふさわしい実在論の立場からの研究が優勢であり,また,それがプラトン,アリストテレス以来の西洋哲学の伝統とよく合致しているように思われるが,こういった実在論が果たしてほんとうに必要であるかどうかはかなり疑問である。そして,より構成的な論理学に基づく時空の構成もまた可能であるように思われる。いずれにせよ,最近やや疎遠となった哲学と論理学の協力態勢によりをもどし,近代論理学に基づく哲学研究が再びさかんになることが切に望まれるのである。(了)