ラッセルの生いたちやその伝記についてはいまさらいうまでもないことであるが,『数学原理』が完成した年,つまり,1913年ごろを境としてラッセルの生涯は二分されるように思われる。前半生,すなわち,『数学原理』が完成されるまでのラッセルの関心は何といっても論理学や数学の基礎をめぐる問題に専ら指向していたといってよい。この時代にはドイツの社会民主主義に関する著作などもあって,単なる論理学者であったといいきることもできないが,やはりこの時期におけるラッセルは象牙の塔にこもる純枠のアカデミッシャンであったといえよう。そして,1903年に発表された『数学の原理』(The Principles of Mathematics)や,いまでも論議の的となっている「記述の理論」(1905年)などを経て『数学原理』においてクライマックスに達する論理学や数学基礎論に関する一連の労作が,ラッセルの哲学者としての位置を不動なものにしたといっても過言ではあるまい。実際,ボヘンスキーも指摘しているように,これらの業績,とくに『数学原理』は20世紀におけるヨーロッパの思惟のもっとも重要な著作の一つに数えられるであろう。
『数学原理』以後のラッセルの活動を以前のそれにくらべると,一つの主題にうちこむというよりは関心の幅が広まっていくのが特徴である。社会哲学や平和運動の領域におけるラッセルの活動については,ラッセル協会の会報などにおいても数多くの解説があらわれているから,理論的な哲学に話を限ると,『数学原理』以後のラッセルの哲学はある意味においてそのふえんと応用であるともいえよう。そして,『数学原理』発表後1920年ごろまで続くいわゆる論理的原子論時代のラッセルの哲学は,このような哲学なのである。論理学的原子論の哲学は通常ウイットゲンシュタインの影響のもとに形成されたということになっているが,それがないというわけではないが,やはり『数学原理』の影響のほうを私は重くみたい。皮肉ないいかたをすると,ラッセルは論理学をさきに作って,それにあわせて哲学をあとから作ったといえそうである。実際,このことは論理的原子論時代における代表的著作である『外界に関する私たちの知識』(Our Knowledge of the External World, 1914)を繙いてみれば直ちにわかることである。(この書物の筆者による翻訳は近く中央公論社刊「世界の名著シリーズ」の一部として発表される予定である。)たいていの哲学者は哲学から論理学へと進んでいくのであるが,ラッセルの場合は逆であったということは興味ぶかいことではなかろうか。