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日高一輝「(アメリカのバートランド・ラッセル協会に)ケートを訪ねて」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第23号(1975年5月)p.11.
* 日高一輝氏は当時、ラッセル協会常任理事
* ケート=Katharine Tate (1923~2021):ドラとの間に生まれた、ラッセルの長女
* 右上地図出典:Google Maps, c.2007


ラッセル協会会報_第23号

 ニューヨークのグランド・ターミナルから汽車で二時間半、ハドソン河にそって北に向かう。この(1975年)3月13日のことである。渓谷があり、荒野があり、高原があり、原始林がある。大都会の郊外にこのような自然が残っていようとはとても想像がつかない。ポーキプシー駅(Poughkeepsie Station)で下車。世に見捨てられたような佗しい駅である。ほこりがいっぱいついている古めかしい電話が待合室に1つ。受話器をはずすとそれがタクシーに直結する。そうして1台来てもらう。駅からさらに北に6マイル。そこに、移住民が開いたばかりと思われるような閑散とした村がある。それがハイド・パークと名づけられた村である。200年も前に、ロンドンから移住してきた人たちが故郷を懐しんで名づけたものだという。そこに、ラッセル卿の愛嬢ケート(正式にはカザリーン)が住んでおられた。
 お逢いしてすぐにラッセルの娘とわかるほどに似ておられる。ケンブリッジ大学の教壇に立っておられた当時のラッセルの顔立ちやスタイルと生き写しだった。午前中に着いて夕刻まで、ゆっくり語りあうことができた。

バートランド・ラッセルの長女ケートと日高一輝
 ケートは大学でドイツ語を講じて生計をたてておられる。いまは四男一女の母。最近、ご主人のタイト氏と離婚したばかりとのことだった。なんとなく寂しそうな一家だった。ケートの母ドーラは、現在英国の片田舎で健在とのこと。一昨年渡英したときに母と会ってきたといって、そのときの思い出を懐かしそうに話してくれた。兄のジョーンは、リタイヤーしてアメリカで余生をおくっているが、異母弟のコンラッドはロンドンで大学教授をしているとのことだった(松下注:コンラッド・ラッセルは、ロンドンに住んでいるとしても、ケンブリッジ大学教授であるから、日高氏の聞き違いか?)。ケートは、電話でアメリカのラッセル協会(The Bertrand Russell Society, INC.)の面々に紹介してくれた。自分は協会のトレジュラー。プレジデントはピーター・クランフォード教授、副会長はロバート・デヴイス教授。インフォメーションとメンバーシッブ委員会の長がリー・アイスラー教授。協会は、哲学研究、教育、科学、国際人権等の専門部会を設け、それぞれ委員長をおいて専門的に研究しあっているとのことだった。たとえば、ケート自身は教育担当。哲学部門はマーチン・カーステンス教授。国際人権はデーヴィス副会長。科学はJ.B.ネイランズ教授。これらの先生がたはそれぞれ地域的に離れているために訪問することができなかったが、電話で2度、3度と話しあうことができた。インフォメーションの委員長がアイスラー教授だから、全般的な消息をうかがいたいとおもってヒラデルヒヤ(フィラデルフィア)まで出かけたけれども、あいにく旅行中で会えなかった。しかし、あとで電話や手紙でいろいろと連絡をとってくれた。
 ニューヨークでは、国連本部のすぐ近くのテューダー・ホテルに滞在していたが、そこは、アメリカ・ラッセル協会の発会式をしたところであり、ミーティングもここで行っているとのことだった。ニューヨーク市立大学のアーキン教授をはじめ、ニューヨーク在住の会員4名の先生がたが、ホテルに会いに来てくれた。アーキン夫人は現在アメリカでも最もポビュラーな人気作家の1人である。
 アメリカのラッセル協会は、その積極的、組織的研究態度と会員の熱心さとから、今後有意義な業績を残してくれるにちがいないというホープフルな印象をうけた。