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日高一輝「バートランド・ラッセル卿の横顔」- バートランド・ラッセル生誕93年記念講演会)

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第2号(1965年9月)pp.3-4
* 日高一輝は当時,ラッセル協会常任理事
* 右下衛星写真(Hasker Street)出典: Google Satelite, c2007.

 


ラッセル協会会報_第2号
バートランド・ラッセルが住んでいたロンドンのフラットの入り口に立つラッセルと日高一輝  1872年5月18日生まれのバートランド・ラッセルは,既に満93歳(1965年現在)になられたわけであるが,その思想・気迫・体力,まさに壮者をしのぐものがある。核兵器反対を絶叫して,青年たちの先頭に立ってオクスフォード・ストリートを平和行進する。トラファルガー広場で群衆に獅子吼する。国防省前に坐り込みデモをする。
 背が真っ直ぐで,歩く足の運びも堂々としている。
 卿は,1937年に self-obituary,すなわち自己の死亡記事を発表して,「自分は1962年満90歳でこの世を去る」と予言されたものの,とてもいつ果つべしとも想像のつかない元気さであり,活動ぶりである。
 頑固一徹のところがあって他人の思惑などとうてい意に介しない。天衣無縫,直情径行,曲がったことは嫌い。その自主独往の風格は一匹狼というか,老書生というか,接する者に爽やかな清風を覚えしめる。同時にそれが,卿の不老長寿の秘法とも思える。
 簡素清潔な生活に徹して,或いは聖賢の姿をほうふつさせ,或いは前線に指揮をとる将官のそれをも思わせる。
 しかも,青年を愛し,同志のために尽くすその至情に至っては,おのずから胸の熱くなるのを感じさせる。米国からロンドンに来た一学生が,ラッセル百人委員会に参加したかどで退去命令を出された時,卿は自ら関係官庁につぎつぎに当たって奔走し,遂にその命令を撤回させた。
 1961年12月9日,英国全土の核兵器基地と米軍基地に反対する坐り込みデモが敢行されて500人の者が逮捕投獄された時,卿は熱心に釈放のために奔走しておられたし,残された家族たちの世話のために親身になって尽力しておられた。

 

バートランド・ラッセル生誕記念講演会の風景(朝日新聞社の朝日講堂にて)  卿は,確かに現代一世紀にわたる思想界における最高峰の概(注:その人の表面に現れた風格や気迫。「気概」)をそなえている。その思想の奥深く,スケールの広大なこと,実にヒマラヤの巨峰を思わせる。
 哲学,数学基礎論,記号論理学から社会思想一般にわたって,そのどれをとってもオーソリティーを確立し,新分野を開拓している。特にその政治面,民主主義論,倫理道徳論,結婚論,恋愛論,教育論,宗教論等においては,なお生き生きとした議論を誘致する新鮮なテーマに満ち満ちている。
 卿は,偽善を排して正しい本能を基調とするプリミティヴな人間関係に価値を見出し,そこから結婚と性関係を論じ,新しい時代相を反映した新しい家庭倫理の形成を主張している。卿は,偏狭なナショナリズムと,憎悪・怨恨・復讐・独占欲・階級意識等を「望ましからぬ感情」として排し,「理想の実現を阻むもの」として軽蔑する。戦争において他国人を殺すことに多大の技術を示したり,貢献をしたりした同国人を英雄としてまつり上げたり,その功績を賛えることに真向から反対する。「聖者・予言者・詩人・学者・作曲家・画家等,輝く美と素晴らしい光栄の世界を創造する力,平和をもたらす力を発揮する者」こそが「期待される人間像」であり,「愛と創造…… Love and Creation こそが,教育の最高原理である」と説く。
 人間を,偏った民族的,国家的,階級的制約のもとに置いてはいけない。ヒューマニティーとしての認識,ヒューマン・ビーイングとしての人間関係を基調として,恋愛も結婚も国際政治も平和運動もワールド・ワイドに……ユニヴァーサルに理解し,実践し,展開しなければならない。こうしてまず現代人は,ユニヴァーサル・マン(世界人)としての意識に徹し,平和者としての性格を一貫し,「ワールド・オーソリティー」に従う秩序を確立すべきであると主張する。
ラッセルが住んでいたフラットのあるロンドンのハスカー・ストリート:Google map  「世界オーソリティー」という言葉を最初に提唱したのは実はバートランド・ラッセルであり,1945年11月28日の英国国会上院において,当時上院議員としての卿がその言辞と構想を論述しておられる。そうして卿は,いち早く世界連邦への必然性,その必要性,その実現へのプロセス等を繰り返し論じ,実践運動を指導された。特に英国国会グループは,卿の多大の影響を受けている。卿は,こうして,単なる思想家たるにとどまらず,偉大なステーツマンたるの実績を示している。その卿が,1955年7月9日「ラッセル=アインシュタイン声明」を提げて立ち上がり,11名のノーベル賞クラスの世界的科学者の共同署名を得て,全界に呼びかけ,やがて「パグウォッシュ会議」と通称される世界科学者会議を開催し,指導し,更に進んで,先に発足した「原子兵器反対同盟」を一段と先鋭化した Committee of Hundred 百人委員会を率いて,核兵器に挺身することになる。遂に Civil Disobedience ,政府に対する不服従運動・・・となって燃え上がることになる。一方,世界的規模において「Russell Peace Foundation」が誕生し,独自の宜伝広報機関を持って平和思想の普及と核兵器絶滅の運動を更に果敢に展開しようとする。まさに革命家たるの情熱と面目を見るのである。
 ラッセル卿は,今日までのほとんど一世紀にわたる生涯と,実績と,思索の一切をぶちこんで,「この一点」に集中しようとする。・・・。それが「人類を滅ぼすかも知れない核兵器の絶滅」という一点である。どんな平和論者も,世界連邦のシステムも,新文明の創建も,すべてが「人類の生存」が前提である。まず,今,全人類が考え,為すべき第一のことは,人類共同の敵・核兵器を無くすること・・・,そしてその事に卿自らの生涯をかける。これが今日のラッセル卿の心境である。