日高一輝「ある日のバートランド・ラッセル卿」
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第1号(1965年5月)p.3-4.
その日は、ロンドンの空はいまにも雪になりそうな黒い雲におおわれていた。秋とはいっても、かなり寒い日であった。
1961年10月29日、トラファルガー広場(航空写真)には数千の群衆がつめかけていた。バートランド・ラッセル卿の獅子吼を聴こうというのである。集会は、卿を指導者と仰ぐ百人委員会(Committee of Hundred)主催の公開討論会である。テーマは Civil Disobedience!, 政府の核武装に反対する一般市民の不服従運動である。
ラッセル卿は、万雷の拍手に迎えられ、英姿颯爽として演壇に立った。背がまっすぐ威風堂々、とても90才の老人とは思えぬ元気さである。メモを片手に、マイクを前に、一語一語力をこめて論じはじめた。理路整然、音吐朗々、眼光鋭く、気魄(迫)は全広場を圧した。卿独得の発想法による警句が、全聴衆の胸に力強く飛び込んでいった。
「人類を破滅させる殺人道具すなわち核兵器は、一歩誤れば兇暴な罪を犯すことになるのだ。ところが、それを禁止せよと坐り込みデモをすれば法律を破る行為となる。現代の世界では、法律を破ることによってのみ兇暴な罪を犯すことから免れ得る。一エーカーの他人の畠を荒らすことが罪ならば、百万エーカーの他国の国土を荒らすことは百万倍その罪が重い。
一人の人間を殺すことが罪ならば、二億の人類を殺すことは二億倍その罪が重い。その重罪を犯す核軍備が政策として日に日に強化されつつある。
その人類に対する不法が、法の名においてわれわれに強制されつつある。わたくしは、人類に対する叛逆罪を許さない。わたくしは、法の名を濫用して為す人類に対する不法に服従することを拒否する。
わたしは、Philosopher(哲学者)としてでなく、また英国人としてでもなく、一箇の Human being(人間)として要求する-人類を滅ぼしてはならない!」
2
こうした不服従運動は、それに先んずる9月の「核兵器反対の坐り込みデモ」に端を発している。政府の警告にもかかわらず、国防省玄関前に坐り込みを敢行したラッセル夫妻は、それにつづく数千の青年たちと共に逮捕された。違法行為に対する刑罰として投獄は当然のこととされたが、政府も、ラッセル夫妻にだけは特別の待遇で、ロンドン一流の病院に招じ入れた。ここで一週間の静養ということになった。勿論、電話連絡も、来訪者の応対も自由であった。しかし卿は、政府が核武装をつづける限りそれに対する不服従運動を継続すると宣言した。こうして第二弾として放ったのがトラファルガー広場の大衆集会であった。つづいて第三弾が間もなく放たれた。12月9日に5万人を動員して、英国全土の核兵器基地、米軍基地に対して、一斉に坐り込みデモを敢行する企画の発表であった。英国はその警察力を動員して英国全土の警戒体制をしいた。立ち入り禁止区域に侵入する者はその場で銃殺すると発表された。英国をあげて異様な緊張につつまれた。時あたかも60年来の寒波と豪雪に見舞われた。わたくしたちは、せめてこのたびは先頭に立たれないようにと熱誠こめて卿の自重を懇請した。幸いに卿は同意されたものの、ついにこの日、血気にはやる数千人が行動を起して数百人が逮捕された。同志を愛する卿は、その後、投獄された者の釈放運動に熱心に尽力された。
3
ラッセル卿の全エネルギーは、いままさに人類存亡の一点に集中されていると言っても過言ではあるまい。家庭にあって語ってくれるときも、祈るが如く叫ぶが如く、その真剣さはまさにオクスフォード・ストリートを平和行進しているときと寸分変らない。レデイ・ラッセルと共に、家庭ぐるみの挺身である。
「その主張が善であるならば、主張のために死ぬことは立派であり、死によってそれを促進する」と語られる卿の言葉が、そのつきつめた心境を如実に示している。
平和の実現のためには、世界連邦の構想を発表され、地域連邦積み上げ方式という独得のアイディアもある。またソ連科学アカデミーからの4代表を招かれて、国会委員会世界協会の会議を開きもされている。国会グループヘの卿の影響力は大きい。
しかし、卿がその全精魂を傾けておられるのは、人類を破減させるかもしれない核兵器の危険を除くことである。その危険は、あえて戦争によらなくとも、当事者の過失によっても、あるいは気象の急変によつても起り得るものだと卿は説かれる。
故アインシュタイン博士との共同声明。つづくノーベル賞級の世界的科学者11名の署名を集めての世界科学者会議招集の呼びかけ。それにもとづくパグウォッシュ会議の提唱と指導。原子兵器反対国民同盟、さらには百人委員会の組織と統率。米ソ首脳会談開催、キューバ危機の回避、ベトナム問題解決等々のためのラッセル・アピール。こうして卿は、「まず人類に未来をあらしめるため」核兵器絶滅の一すじ道を驀進しておられる。
そのラッセル卿も、この5月18日で満93才の誕生日をむかえられる。(終)