ダニエル・オコナー「バートランド・ラッセル」
* 出典:『世界伝記大事典』世界編第11巻(ほるぷ出版,1981年6月刊)pp.450-451.
バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル (Bertrand Arthur William Russell,1872-1970) はイギリスの数学者,哲学者,社会改造家。論理学,数学基礎論に業績をあげ,また哲学のあらゆる領域にわたる著作によって現代分析哲学の創始者の1人とされる。社会改革運動や国際的な反戦運動,原水爆禁止運動の先頭に立った。1950年,ノーベル文学賞受賞。
ラッセルは 1872年5月18日,ウェールズ地方モンマウスシャーのレーヴェンズクロフトで生まれた。多くの優れた人物と,何人かの奇矯な人物を生んだ貴族の家系である。4歳までに両親を失い,父方の祖父母が後見人となった。祖父母は,友人の2人の無神論者に子供の教育を任せてほしいという両親の意志を反故にしてしまった。ラッセルの祖父のジョン・ラッセル卿は,ヴィクトリア女王の下で2度宰相(総理大臣)の地位に上った人である。この祖父は3年後(松下注:祖父が亡くなったのは1878年5月28日。いつから数えて3年後か不明)に死去し,幼いラッセルは,ピューリタンの厳格な道徳観を持ってはいたが慈愛に満ちた祖母の手ひとつで育てられることになった(松下注:ただし使用人が8人いた)。ラッセルは祖母から「子供になくてはならない安心感」を与えられたと述懐している。
ラッセルの初等教育は,家庭教師によって,すべて自宅で行われた。彼は自分の少年時代を幸福なものだったと回想している。思春期には強烈な孤独感にさいなまれたが,「私の人生において初恋にも劣らぬほどの目くるめくような大事件」がラッセルを救った。兄がユークリッドの『幾何学原理』を与えたのである。
「私は,この世にこれほどまでに素晴らしいものがあるとは思ってもいなかった。以来,アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとともに『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』を完成するまで,数学が私の最大の関心事であり,幸福の最大の源泉であった。」
18歳になって,ラッセルは,ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジに入学した。ラッセルの並外れた才能に初めて注目したのは,ホワイトヘッドであった。彼はすぐに,ラッセルをケンブリッジの学者仲間に紹介する労をとった。ケンブリッジでの2年目,ラッセルは,1820年に創立され,それまでにもケンブリッジの最高の知識人を会員としてきた知的結社「使徒団」(The Apostles:使徒会)の一員に迎え入れられた。彼はそこで,G. L. ディキンソン,ジョージ・E.ムーア,ジョン・M.E.マクタガート,そして少し遅れて,ケインズ,リットン・ストレイチーなどと出会い,親交を持つ。このケンブリッジ時代についてラッセルは,のちにこう語っている.「我々は,政治と自由な言論とによって秩序ある進歩を遂げることができると信じて疑わなかったものだ。」
ラッセルは卒業後もケンブリッジにとどまり,トリニティ・コレッジのフェロー(評議員)(松下注:いわゆる'評議員'ではなく,「給費特別研究員」のこと)として,哲学の講師となった。しかし,第一次世界大戦中の1916年,良心的兵役拒否者の裁判についてのラッセルの評論が有罪とされ,罰金を科されたことから,ケンブリッジ大学を追放された。ラッセルにとって,ケンブリッジでの生活はかけ替えのないものだっただけに,この突然の破局に彼の心は深く傷ついた。
1894年,ラッセルは家族の反対を押し切ってアメリカ女性アリス・ピアソール・スミスと結婚した。その後ほとんど数年を,2人はヨーロッパやアメリカを旅行することで費やし,各地で何回かの講演をしている。ドイツ社会主義に関する講演を集めた彼の初めての著作とフェロー資格論文『幾何学基礎論』が出版されたのはこのころで,後者によってラッセルの名声は確立された。(松下注:『幾何学基礎論』で名声が確立されたのではなく,1903年に出版された The Principles of Mathematics によって評価が確立されたというべきであろう。) 1900年は彼にとって,もう1つの転換期となった。(パリで開催された)国際哲学会議で,イタリアの理論数学者ペアーノ(Peano ペアノ)と出会ったことである。ペアーノの研究の重要性にすぐに着目したラッセルは,大いに刺激され,数学の基礎概念についての彼自身の考えを再考察しはじめた。そして1900年の秋までには,最初の主著『ザ・プリンシプルズ・オヴ・マスマティックス(数学の原理)』の大半を書き上げた。のちに彼はこう語っている。「知的な面においては,このころが私め全盛期であった」と。
ラッセルの数学についての見解は,その後2,3年のうちに急速に深まり,彼はしだいに数学が同語反復(トートロジー)によって構成されるということを'不承不承ながら認める'ようになった。彼はホワイトヘッドとともに,数学 -なかでも演算であるが,原理的にはすべての数学- が論理学の延長であること,つまり純粋数学の想定を除いては,非派生的概念や証明されない想定を導入する必要がないことを証明しようという壮大な企図を抱いた。この成果は,『プリンキピア・マテマティカ』全3巻として刊行された(1910-13)。この本を出版するために,ラッセルとホワイトヘッドは,それぞれ50ポンドを出資しなければならなかった。誤謬もありのちに修正箇所も出たが,この労作は数学史を画する記念碑的な著作となっている。
1918年,ラッセルはイギリス政府とアメリカ軍についての評論を書き,誹毀罪で有罪の判決を受けた。6ケ月の服役期間中に『数理哲学序説』を書き上げたが,しかしラッセルの関心は,第一次世界大戦の「計り知れない惨禍」に接して抽象的問題から離れていった。この悲劇を前にしては,これまでの自分の仕事は「皮相で瑣末なもの」のように彼には思われためである。ラッセルはしだいに社会改革家の傾向をはっきりさせていった。彼ほどに社会的責任を持った哲学者は他に例を見ないといっても決して過言ではないだろう。
認識論と形而上学に関するラッセルの見解は,たしかに影響力は大きかったとはいえ,論理学や社会問題についての業績に比べれば独創性に乏しいものである。前者における彼の見解は,実際のところイギリス経験論の伝統の上に立つもので,その洗練されたものにすぎない。ラッセルは,「可能な場合はいつでも既知の存在から出た構成物を,未知の存在の推論の代わりに代入せよ」という科学哲学の最高格律と呼んだ原理に従って,最も直接的に知られるものは個人の私的な感覚所与であると主張した。『外部世界はいかにして知られ得るか』(1914)においてラッセルは,物理的対象とは我々の実際の,あるいは可能的な感覚所与からなる論理的構成物にほかならないことを証明しようとしている。さらに『精神の分析』(1921)においては,精神と物質とはともに,中性的要素とみなされる感覚所与から構成されるものであることを論証しようとする。
また,『意味と真偽性』(1940),『人間の知識』(1948)でラッセルは,真理を確定する方法は評価され得るか,という大胆な議論を展開し,機能的推理の有効性を保持するための諸原理を提出している。
第一次世界大戦が終わると,ラッセルは中国とソ連を訪れた。当初ボリシェヴィキ革命に好意的だった彼は,そこで,彼が何にもまして高く評価する価値 -自由- が脅かされつつあるのを目の当たりにして,ロシア革命の展開を予見する著作『ボリシェヴィズムの実践と理論』を書いた。ラッセルはまた3回にわたって下院議員選挙に出馬したが,いずれも落選した。
1927年,ラッセルは2度目の妻ドーラ・ブラックとともに,ビーコン・ヒルに進歩的な学校を創設した。ラッセはそこで,『児童教育について』(1926)(邦訳書名は『教育論』)と『教育と社会体制』(1932)で展開された彼の教育論を実験したのである。
1930年代の後半,ラッセルは講演のために頻繁に渡米し,1940年にはニューヨーク市立大学の教授に任命された。しかしすぐに,新聞紙上で聖職者や市の役人たちの批判キャンペーンが張られた。『結婚と道徳』(1929)で,ラッセルが学生の一時的な同棲生活を擁護したのが市のお偉方たちのご機嫌を損ねたのである。ニューヨーク州最高裁判所は,彼が性的不道徳の唱道者であり,かつ外国人であるという理由で,招聘の取り消しを命じた。
その後ほどなく,ペンシルヴァニア州のメリオンにあるバーンズ財団から,講師の席が提供された。最も広く読まれているラッセルの著作『西洋哲学史』(1945)は,そのときの,講義の草稿を下敷きとしたものである。しかし,1943年にはバーンズ財団との契約が破棄され,彼は解雇を不当とする訴訟を起こして勝った。
1944年,ラッセルはイギリスに戻り,ケンブリッジのトリニティ・コレッジのフェローに再選された。1949にはブリティッシュ・アカデミーの名誉会員となり,さらにメリット勲章を授けられた。そして1950年には,「人間性と思想の自由のための努力が遺憾なく発揮された多方面にわたる意義深いもろもろの著作」によって,ノーべル文学賞を受賞した。
ラッセルは,第2次世界大戦に関してはその不戦主義を放棄したが,大戦後にはふたたび平和運動に挺身した。イギリスにおける核兵器禁止運動の先頭に立っていたラッセルが座り込みデモで逮捕され,7日間の禁固刑を受けたのは89歳のときである。キューバ危機に際しては調停を試み,またヴェトナム戦争ではアメリカの介入を激しく非難した。
ラッセルは,どちらかと言えば元来内気な人間であったが,会話における閃きとウィットには抜きん出るものがあった。また友人を作ることにかけては特殊な才能を有していた。結婚に3度失敗し,晩年の1952年にイーデス・フィンチとの4度目の結婚で,「悦惚と平和」見出した。ひ弱そうな容姿にもかかわらず,人生の最期にいたるまで,社会的,政治的論争の渦中に身を投じ,精力的に活動し続けた。
ラッセルは1970年2月2日,ウェールズのプラス・ペンリンで永眠した。
(参考書) 自伝として日高一輝(訳)『ラッセル自叙伝』全3巻(理想社,1968-1973)がある。また,柴谷久雄『ラッセルにおける平和と教育』(御茶の水書房,1963),J.ルイス(著),中尾隆司(訳)『バートランド・ラッセル』(ミネルヴァ書房,1963)は概説書としてよい。また人生論として中野好之,太田喜一郎(共訳)『人生についての断章』(みすず書房,1979)がある。