バートランド・ラッセル「優等生について」(1931年11月18日執筆)(松下彰良 訳)* 原著:On being good, by Bertrand Russell* Source: Mortals and Others, v.1, 1975 |
* 改訳及びHTML修正をしました。(2010.9.13) どの分野においても、偉くなっていくと(=ポストがあがっていくと)、相手を説得しなくても(説得する努力をしなくても)上下関係(権力)だけで自分の思ったことができるようになっていきます。そこから不幸な勘違いがおこり、世界が見えなくなり、「裸の王様」状態になりやすくなります。そのような事態に陥らないためには、権力をもっていてもできるだけ行使せず、できるだけ論理的に説得する習慣をしっかり身につけることが肝要です。 少年と接する機会の多い人なら誰でも、いつも「良い」子でいる少年よりも、時々「悪い」子になる少年の方が、結局は、好きになるものである。(たとえば)教師の机を蛙で一杯にしたり、お手伝いさん(メイド)の通るところにネズミをおいたり、まだ熟していない果樹園のリンゴを盗んだり、サーカスが町に来ると学校をさぼるような少年は「悪い」子としてよく罰を与えられる。(ただしこの種の罰はありきたりで愚かなものに過ぎないが。)。しかし、もの分りのよい教師ならば必ずこの種の「悪い」子を罰しながらも(罰しているまさにその最中においても)、文字通り言いつけを全て守り、状況に応じていつも「はい」あるいは「いいえ」と模範的な返事をする「良い」子よりも好きになるものである。 男の子ならば気概を持つべきであり、時と場合によっては権威(権力)に反抗する勇気を持ち、行動の結果には責任を持つべきである、とわれわれは信じている。少なくとも、良家の子弟に関してはこのように信じられている。他方で権力者側が賃金労働者の勇気をあまり高く買わないことも確かである。 「悪い」子が持つこの種の性質は、大人の世界においては年々ますます歓迎されなくなってきている。ネルソン(将軍)は一生悪い子で通したし、ジュリアス・シーザーも同様であった。しかし、今日の若者のほとんどは、巨大な組織の末端の地位から職業人生を始めなければならない。彼の上司が経験豊かな学校の先生が持っている'寛容の精神の持主'であるのは稀であり、組織の中の「良い」子に昇進の道を与えがちである。 不幸なことに,従順という性質は、創意(イニシアティブ)と指導力を持った人間が持っていることは稀である。かなり昔、多分古代ローマの愚かな人間が、「人の上に立つ人間はまず人に服従することを知らなければならない」と言っているが、真理はそのまったく逆である。人に従うことを覚えた人間は、自分の個人的創意を全部失うか、権力に対する怒りでいっぱいになり、破壊的かつ残忍な人間となる。 それゆえ、最良の人間は指導者には滅多になれない。そのような人間は、たいていの場合、権力に服従せず、上司に批判的になり、いかなる有力な組織の一翼をになうことをやめるであろう。 一例として、政治機構をとりあげることができるだろう。奇妙なことではあるが、すぐれた政治家が国民によって選ばれるはずの民主主義国家では、政治家(松下注:ニュアンスとしては、statesman 政治家ではなく、politician 政治屋)は'下らない奴ら'だとほとんどの一般大衆が思っている。政治家(屋)はあまりにもくだらない人間であるため、「政治家(屋)」という言葉は軽蔑のニュアンスを持つに至っている。政党の規律の硬直性(厳格さ)が、このような事態の主な原因ではないかと私は思う。政党はいかなる時にも一連の見解と政策を持ち、現役の党員はすべて、本当は別の考えを抱いていても、党の見解と政策には忠実でなければならない。誠実さや鋭い洞察力よりも、党の綱領に忠実であることが重視され、その結果、ひとかどの若い党員はほとんど皆、党務全体が耐えられなくなり、指導者になる機会が生ずる前に党の実務から身を引くことになる。 組織が現代社会において不可欠である以上、要職にある人たちが若者のとっぴな考えを大目に見る心を養わないかぎり、この不幸から抜け出す道はまったくない。人は重要なポストにつくと忠告の言葉に耳を傾けなくなるので、自分の考えを改める望みがなくなる。不幸なことに通例、若者の(資質や能力の)向上は、年をとり要職についた人たちの手で行なわれている。30歳以上の人間を学校の校長にしてはいけないと私は提案したい。しかし、この賞賛すべき改革案が採用されることはほとんどないだろうと思う。 |
We believe a boy ought to show spirit and should on occasion have the pluck to defy the authorities and take the consequences. At any rate, this is the belief where the sons of the well-to-do are concerned ; courage in wage-earners is less admired by the authorities. The adult world is growing less and less suitable to the qualities of the 'bad' boy. Nelson was a bad boy to the end of his days; so was Julius Caesar. But nowadays almost every young man has to begin with a very subordinate post in some vast organisation. His superiors seldom have the tolerance of the experienced schoolmaster and are likely to give promotion to the 'good' boy. Unfortunately docility is not a quality which is often found in the man capable of initiative or leadership. Some fool, long ago - probably a Roman - said that to know how to command, a man must first learn how to obey. This is the opposite of the truth. The man who has learnt to obey will either have lost all personal initiative or will have become so filled with rage against the authorities that his initiative will have become destructive and cruel. It seldom happens, therefore, that the best men rise to the top. In the great majority of cases they will have proved themselves so insubordinate or so critical of their superiors that they will have ceased to form part of any powerful organisation. One may take the political machine as an illustration. It is an odd fact that, in a democracy, where the eminent politicians are chosen by the people, there is almost everywhere a general agreement that politicians are a poor lot, so much so that the very word 'politician' has acquired a flavour of contempt. The chief reason for this state of affairs, I should say, is to be found in the rigidity of party discipline. A party has, at any given moment, a set of opinions and policies which must be adhered to by all its active members, however little they may agree at heart. Orthodoxy is more valued than either honesty or acumen, with the result that most young men who are not mediocre find the whole business intolerable and abandon it before they have had a chance to become leaders. Since organisation is inevitable in the modern world, there is every no way out of this trouble except to imbue the men in important positions with toleration for the vagaries of the young. When men have already become important there is, of course, no hope of improving them, since they will no longer listen to advice. Unfortunately, the improvement of the young is generally left to those who have already become old and important. I can only suggest that no school should have a head more than thirty years of age. But I hardly expect to see this admirable reform adopted. |
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