A.J.エイヤー(著),吉田夏彦(訳)『ラッセル』(岩波書店,1980年)について
[対象の著作]
Russell(Fontana/Collins, 1972)の邦訳
吉田夏彦訳『ラッセル』(岩波書店1980年1月刊 vii,209p.岩波現代選書 n.41)
* 吉田夏彦(よしだ・なつひこ,1928年7月27日- ):哲学者,東京工業大学名誉教授
吉田夏彦訳に対するコメント
吉田夏彦訳は,読点が多すぎたり,表記法が一般的でなかったり,また誤訳というか不適切な訳やケアレス・ミスが多く,読みやすいとはいえない。
たとえば,できるだけ実際の発音に近づけるということで,ホワイトヘッドは「ワイトヘッド」,オットリン・モレル(オットリン・モレル)夫人を「オトリヌ・モレル夫人」,フェビアン協会は「フェイビアン協会」,ベドフォードは「ベトナォド」,T.S.エリオットは「エリオト」,ウォーターローを「ウォタロー」などとしている。
誤訳(不適切な訳)を少しだけあげると以下のようなものがある。専門的な記述においては正確な訳になっているだろうが,専門以外の部分に誤訳が多そうである。
(誤訳or不適切な訳)
(誤) (正)
p.vi(目次)&p.1 ラッセルの生涯と教育 → ・・・生涯と著作
p.5: The Apostles 協会 → 使徒会
p.28: 二人の息子,コンラッド → 二人目の息子,コンラッド
p.30L4:・・・ラッセルは,合衆国で生活するたずき (助け?)をほとんど失う・・・
p.36-L8: 古文書(Archives) → 原稿や手紙(=文書)
吉田夏彦氏は,論理学の優れた研究者であるが,上記のような高校生でも間違わないような誤訳が多いのはいったいどういうことであろうか?
『朝日新聞』1980年3月16日(朝刊)にのった新刊紹介(簡単な書評)では,最後に,「訳はたいへん正確であると思われるが,ただあまりに読点が多いためにかえって読みづらいところがある。たとえば,「不満足を,満足がこえる度合い,が最大であるか」のように」と書かれているが,この書評者は,原文と対照してそのように言っているのであろうか?
以下,その書評を添付します。