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碧海純一「ソフィストとラッセル」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第3号(1966年2月)p.11-12
* 碧海純一 は当時、東大法学部助教授


ラッセル協会会報_第3号
 「ソフィスト」と言えば、周知のように、紀元前5世紀ごろのアテネを中心として活躍した職業的知識人のことであり、このことばの元来の意味は、文字どおり、「知恵のある人」、「知識のある者」という意味だったのであろうが、今日では、サギをカラスと言いくるめるような「詭弁家」という、悪い意味で用いられることが多い。そして、オーソドックスな思想史解釈においても、いわゆるソフィストたちの評価は、大体において芳ばしいものではなく、一般に、教養はあったが節操を欠き、知識を切り売りして、生計を得ていた軽薄の徒と考えている人が多いようである。勿論、「ソフィスト」というのは、いわば職業名で、現にソクラテスですらも同時代の人々からは風変りなソフィストとして見られていたようであるほどだから、「これがソフィストの教説であった」と言って総括的にかれらの思想について語ることは危険である。しかし、かれらの中でも、プラトンの対話やその他の資料を通じて青史に名をとどめているような人物は、よかれあしかれ、西洋思想の歴史において、非常に大きな足跡を印した人々だと言うことができよう。
 ラッセルの『西洋哲学史』(原著は1945年刊で、わが国では市井三郎教授の名訳によってひろい読者層に親しまれている)は、いろいろな点で非常に特色のある、面白い書物であるが、その特色のひとつは、著者がプロタゴラスその他のソフィストに対して、きわめて高い評価を示している点であろう。もっとも、ソフィストに対する再評価は、かならずしもラッセルの独創ではなく、今世紀のはじめにオックスフォードで活躍したイギリスのプラグマティストのシラー(F. C. S. Schiller)などは、みずから「ソフィストの弟子」と称したほどの熱の入れかたであった。シラーはラッセルとも接触のあった人物だから、かれがラッセルのソフィスト観にある程度の影響を与えたことは考えられる。しかし、ソフィストに対するラッセルの評価の背後にある、最も決定的な要因は、やはり、かれ自身の思想に-そして、特にかれの批判的・懐疑的精神に-求むべきであろう。あらゆる既成の伝統や権威に対し、忌憚ない批判を加え、大多数の人々が自明のこととして疑わない信念に対して疑問を投げかける態度- これこそ、ソフィストの、18世紀の啓蒙思想家の、また19世紀のマルクスの態度だったのであり、そしてまたラッセルの態度だったのでもある。実は、科学的認識や哲学思想の面だけでなく、社会生活の面でも、このような反骨精神こそ、人類の前進にとって欠かすことのできない原動力のひとつであることは、歴史の示すところであるが、こうした反俗の先駆者たちは、一般の人々からは、どうしても白眼視されがちである。
 ソフィストたちが、同時代のアテネ市民たちばかりでなく、一世代若いプラトンからも手ひどく攻撃され、それ以後今日にいたるまで詭弁家の元祖という、有難くない評判をとったのも、決して不思議ではなく、そして同じように、ラッセルも93才の今日まで奇矯な危険人物として世間から白眼視されてきたのである。かれが、二十数世紀前の思想上の盟友に対して、特別の共感を覚えたのも、無理からぬことのように思われる。現代におけるソフィストの支持者としては、ラッセルのほか、現在アメリカにいる法学者ハンス・ケルゼン(1881~)およびロンドン大学で哲学・論理学を講ずるサー・カール・ポパー(1902~)の名をあげることができる。(ちなみに、ふたりとも、オーストリア系のユダヤ人であることは面白い。) このうち、ポパーの大著『開いた社会とその敵』(これは、第二次大戦中、かれがニュージーランドに亡命中に、書かれた)は、ラッセルの『西洋哲学史』と同じ年に出たものであるが、ソフィスト、プラトン、へーゲルなどの評価において、後者とほぼ全面的に符合している。この、すでに「戦後の古典」としてひろく認められているポパーの著作は、オーストリアからの亡命学者の手で書かれたとは到底信ぜられぬほど明快・流麗で、しかもウィットにあふれた英文で書かれているから、興味のある方々は、『西洋哲学史」と比較して読まれることをおすすめしたい。この両著におけるプラトン、アリストテレスおよびへーゲルの解釈・評価についても、面白い論点がいろいろふくまれているが、またの機会に論ずることにしたい。