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『ラッセル協会会報』n.7(1967年4月)pp.4-5. * 碧海純一氏は、当時ラッセル協会常任理事、東大法学部教授 「西洋の知恵」の序文のはじめのところで、ラッセルは、「大きな本は大きなわざわいである」というカリマコスのことばを引いて、哲学史についてひとりで大きな本を2冊も書いたことの言いわけをしている。かれによれば、「西洋の知恵」は、単に前著の二番煎じではなく、全く新しい著述である。 「西洋哲学史」が、900余頁の大冊であるのに対して、「西洋の知恵」は320頁ほどの本である。(後者のほうが判ははるかに大きいが、後述のように「さしえ」の部分が全体の4割程度のスペースを占めているので、1ページ当りのテクストの量は、ほぼ同じと見てよいであろう。) この「さしえ」には大別して2種類あって、ひとつは、歴代哲学者の肖像、生家その他の旧蹟や、名著の初版本のトビラなどであり、これは普通の本にも見られる種類のものであるが、もうひとつは、この本独自のもので、抽象的なアイデアや考えかたを具象的な図形であらわそうとしたものである。これは大変面白い試みであるが、なるほどと感心させられるようなものがある反面、どうかと思われるものもないとはいえない。 以上、「西洋の知恵」の、どちらかといえば外面的な特徴についてのべてきたが、内容のほうはどうであろうか。「西洋哲学史」が、数多い哲学史の中でも異例に属するほど「面白く読める」通史であることは、すでにひろく知られているが、「西洋の知恵」は、それに輪をかけたほど平易で読みやすい書物である。文体についていえば、「西洋哲学史」の魅力のひとつである、ラッセル独特の寸鉄人を刺す筆鋒の冴えは、この本ではやや鈍っている感がある。しかし、無駄と虚飾を極度に省いた平明・流麗なラッセルの散文スタイルは、さらに一層の円熟の境地を示しているものといえるであろう。 「西洋哲学史」にくらべると、「西洋の知恵」の叙述はやや簡略であり、前者が、一般読者にも親しめるものとはいえ、やはりアカデミックな哲学史であるのに対し、後者のほうは、強いていえば思想史的な性格が顕著である、といってよいであろう。旧著との叙述上の重複を避けようとする著者および編者の苦心は随所に窺えるが、なんといっても同一著者の手になるものだけに、率直にいって、実質上の重複が多いことは否定できない。 「西洋哲学史」と同じく、「西洋の知恵」も、全体の三分の一ほどの紙幅を古代ギリシャ哲学の叙述のために割いている。これは、「ある重要な意味において、西洋哲学というものはすべてギリシア哲学である」(序文のことば)というラッセルの主張によるもので、この点で、かれはむしろ伝統的な哲学史家に近い立場をとっていると見てよいであろう。現代分析哲学の陣営に属する学者が、ややもすれば哲学の歴史を軽んずる傾向にあるのに対し、基本的には分析哲学と近い立場をとるラッセルの哲学史への強い関心は、注目に値いする。 歴代の哲学者に対する評価も、全体として見ると、「西洋哲学史」のばあいほどきびしくない。プラトンやへーゲルのような、ラッセルが年来きびしく批判して止まなかった思想家に対する論評も、15年前とくらべて、非常におだやかな調子のものとなっている、これは、おそらく、(ラッセルの基本的な評価が変ったとか、かれが「円熟した」とかいうことではなく)「西洋の知恵」が一般読者のための教養書として書かれたことによるのであろう。このために、「西洋哲学史」の最大の特色である、もののみかたの鋭さや独創性はいくぶん稀薄になっているが、そのかわり、初心者にも安心してすすめられる書物だといえるであろう。純粋に学術的に見れば、「西洋の知恵」は、同じラッセルの手になる「西洋哲学史」のような画期的な、そして極度にチャレンジソグな著述ではない。しかし、哲学史、科学史、思想史、文明史に興味をもつ一般読者にとって、これほど平明・流麗で、しかも内容の充実した概説書はほかに期待できないであろう。しかも、これが、最も専門的・職業的な意味において今世紀最大の哲学者といわれる人物によって書かれたということは、驚嘆に値いする。 |