碧海純一「バートランド・ラッセル雑感」
* 出典:河出書房版「世界の大思想v.26:ラッセル」月報 n.20
* 碧海純一 氏は当時、東大法学部教授
バートランド・ラッセルは、一九三七年(松下注:1936年のまちがい)、たわむれに自選の「弔詞」を発表したが(Allen & Unwin 社版等に1937年と書かれているための勘違いと思われる。実際は、 Listener, v.16(n.396): 12 Aug. 1936, p.289 に掲載)、それによると、かれは一九六二年に満九十歳でこの世を去ることになっていた。ところが、誰でも知っているように、ここ数年間のかれの国際人としての活躍は実にめざましいものがあり、この調子では、百歳に手がとどくことも夢ではなさそうである。
ヴィクトリア時代以来(ちなみに、ラッセルは、少年時代に祖父の邸でヴィクトリア女王に拝謁したことがあった)、一世紀ちかくの歳月を生きぬき、七十年にわたって倦むことを知らぬ著作活動をつづけてきたこの哲人は、現代世界の最も著名な人物のひとりであるにとどまらず、人間思想の全歴史においても特筆に値いする存在であろう。
職業的な哲学者としてのラッセルの業績に対しては、もとより、いろいろな評価が可能であろう。殊にかれがきびしく批判して止まないドイツ観念論の伝統に立つ人々から見れば、ラッセルの哲学は哲学史上の比較的とるに足らぬエピソードにすぎないのかも知れない。そればかりか、基本的にはラッセルに近い立場から出発した現代イギリスの言語分析哲学の陣営に属す学者たちも、かれの哲学を今日ではあまり高く評価せず、かれとこの陣営とのあいだで、華華しい論戦が交わされてきたことは、よく知られているとおりである。(ついでながら、ラッセルの言語観に対する、私の知るかぎり最も犀利な批判は、吉田夏彦氏によって加えられたものである。吉田「ラッセルの理論哲学」『理想』n.345、1962年を参照。)
記号論理学や数学基礎論の領域におけるかれの貢献については、素人の私には語る資格はないが、この方面でのかれの初期の業績(特に、『プリンキピア・マテマティカ』1910~1913年)の歴史的意義が論議の余地のないものであるのに対して、その後は特に原理的に大きな貢献はしていない、というのが通評であろう。
こう見てくると、テクニカルな哲学者・論理字者としてのラッセルは過去の栄光の上に生きている、という見方も不可能ではない。ただ、かれの全業績を総合的に評価するかぎり、何人といえども、そのたぐいまれな視野の広さ、精緻な分析力と強靱な総合力との奇跡的な結合、透徹した洞察力に驚嘆せざるをえないであろう。哲学プロパーの領域のほかに、自然・人文・社会の三分野にまたがって、かれほど深い学殖を備えた人物は、専門分化の進んだ現代においては実に稀有というべきである。
今日の分析哲学者は一般にあまり思想史に興味を示さないがラッセルは(かれ自身、現代分析哲学の誕生の機縁を作った人物てあるが)、今では古典となった大著『西洋哲学史』(一九四五年)のほか、十五年後に、やはりギリシャから現代にいたるまでの西洋思想史をとりあつかった『西洋の知恵』(一九五九年)を世に問うている。『西洋哲学史』のほうは、市井三郎教授の名訳でひろく日本の読書界に普及しているので、特にここで紹介するまでもないが、『西洋の知恵』は、まだなじみがうすいと思われるので、一言ふれておくことにしよう。
この本は、ラッセル著、Paul Foulkes 編で、ロンドンのマクドナルド社から出ている大判の豪華版で、各頁に美麗な彩色図版が入っており、読んでいて本当にたのしい書物である。
特に、普通の哲学書ではことばだけで伝えられるにすぎないような抽象的な思想が、図形その他の視覚的な補助手段で説明されているところにおおきな特色がある。内容は、序文にもあるように、「ターレスからヴィトゲンシュタインにいたる西洋哲学の概観」であるが、叙述は『西洋哲学史』の単なるくりかえしではなく、全く新しく書き下ろされたもののようである。
西洋思想史に関するラッセルのこの両著は、その内容がユニークであり、文体が明快でウィッティであるということはいわずもがな、著者自身の学殖と関心の広さを示してる点でも、われわれの興味をそそるところが大きい。長寿という特権にめぐまれたという事実を考慮に入れても、ラッセルほど人知のひろい領域をマスターした人物は、今後めったに出ないだろう。
そのラッセルも、ここ数年は、学術的なしごとからずっと遠ざかっているが、これは、高齢のためというよりは、むしろ、現代の緊迫した国際情勢をいかに打開して、人類を自殺の脅威から救うべきか、という重大問題が、かれの関心を独占しているからなのであろう。政治権力を背景としない、純粋にパーソナルな影響力という点では、今日、世界広しといえども、かれの右に出る個人はないといってよい。その意味でも、この五月で満九十四歳の誕生日を迎えるこの老哲人の一層の健勝と活躍を祈るのは、私ひとりではなかろう。
はじめに言及した自選の弔詞の中で、ラッセルは、こう記している。
「…。かれとともに長生きした友人たちの眼に映じたラッセルは、非常な高齢にいたっても、人生のたのしみを満喫している人のようであった。晩年のかれが政治的には、王政復古後のミルトンがそうだったように、全く孤立無援であったことを考えると、あきらかにこれは主としてかれの衰えを知らぬ健康のせいだったようである。かれは、すでに死んだ時代の最後の生存者であった。」
謙遜や、反語的な言い方を割引いて考えても、一九三七年に書かれたこの弔詞の予言は、みごとにはずれたようである。かれは、世間から半ば忘れられた哲人としての静かな晩年を期待していたようであるが、核兵器の開発は世界情勢を全く一変させ、この期待を狂わせてしまった。(もっとも、ラッセルは、すでに『相対論入門』〔1925年〕において核エネルギー利用の可能性に言及し、また、一九四五年のイギリス上院での発言で、水爆開発の可能性を示唆している。)一九六二年に死ぬはずだったラッセルは、、悠々自適の余生を送るどころか、九十歳をこえる身でロンドンの街頭に座り込んで検束されたり、永いこと籍をおいてきたイギリス労働党に絶縁状をたたきつけたり、文字どおり壮者をしのぐ情熱をもって闘いつづけてきている。イギリスには、ジェレミー・ベンタムやシドニー・ウェブ(ちなみに、ウェブ夫妻は、青年時代のラッセルの親友であった)などのように、高齢になってから急進化する人物がときどき現われるが、ラッセルもそのくちのようである。「死んだ時代の最後の生存者」であるどころか、かれは、ことによると、二一世紀の先駆者であるのかも知れない。