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碧海純一「バートランド・ラッセルの魅力」

* 出典:みすず書房版「バートランド・ラッセル著作集・月報」より(第4回配本付録)
* 碧海純一(1924年6月27日~2003年7月18日)は、執筆当時(35歳)、東大法学部助教授
  碧海純一(ウィキペディア)の記述



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 個人的な話しで恐縮ながら、私がはじめてバートランド・ラッセルの著作に接したのは旧制高校二年のころだった。そして、ラッセルの真価を最初に私に教えて下さったのはそのころ文理大(注:現在の筑波大学の前身である「東京教育大学」の前身)から私たちの高等学校に出講しておられた下村寅太郎先生だった。その年の夏-思えば太平洋戦争のさなかの窮屈な時代だったが-数人の同級生と当時たしか明大前にあった下村先生のお宅へ上って、いろいろ話しをうかがった。先生はそのときラッセルの偉大さを力説されたので、私は早速古本屋で Our Knowledge of the External WorldThe Analysis of Matter などを探してきて読んでみた。当時ベルクソンやホワイトヘッドなどに興味をもちながらも、かれらの神秘主義的傾向に不安を感じていた私は、ラッセルの説得力にすっかり魅せられてしまった。以来十数年、ラッセルに対する私の尊敬はかわらない。

 もしビネー法やウィスク法による知能検査の結果が成人についても全面的に信用できるものだとしたら、そして、歴史上の人物をよみがえらせてテストすることが可能だとしたら…などと私はひまなときに空想する。そうすればいろいろと面白いこと、意外なことがおこるかもしれない。一世を風靡した「大哲学者」が実は比較的凡庸な頭脳のもちぬしだったり、哲学史上それほど重要視されない人物のなかにかくれた天才がいたりしないとはかぎるまい。しかし、アリストテレス、カント、ミルその他とともに、ラッセルが最高クラス(おそらくIQ200程度?)に入ることはまちがいないように思える。
の画像  英語にはメンタル・ジャイアントという表現があるが、ラッセルこそまさにその典型といえよう。かれほど、すぐれた頭脳に加えて、広い視野と無尽蔵の精力とを兼備する知的巨人は史上きわめて少ない。
 著作家としてのラッセルの第一の魅力は何といってもその簡潔で明快な文体である。曖昧模糊としたことばをつらねて、その神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる譜調のうちに何となく幽玄な雰囲気をかもしだすことを天職と考えている哲学者たちにいわせれば、かれの文章には「深遠さ」が欠けているかもしれない。また、文体の評価はある程度まで個人的な好みの問題だから、ウォータ・ペイターの『文芸復興論」やミルトンの Areopagitica などを好む人たちから見れば、ラッセルの文章は淡々としすぎていて物足りないであろう。しかし、彫琢のあとをとどめない、一見素朴なかれの文体は、実のところ、非常な自覚的努力の結果であり、いわば「意図された清貧」なのだということを見のがしてはならない。事実、『自伝的回想』(Portraits from Memory and Other Essays, 1956)にふくまれている「私はいかに書くか」というエッセイのなかで(中村秀吉氏による邦訳p.223以下)、かれは、青年時代にJ.S.ミルの文体を摸倣しようとしたり、ミルトンの散文に傾倒したりしたが、結局、独自の簡潔、明快(とは自分では言っていないが)なスタイルに到達したことを告白している。なお、このエッセイの最後の部分(邦訳pp.226-227)は実に皮肉で一読に値いする。
 ラッセルの文章の持味は、たとえてみれば、白米の味である。安物のデコレーション・ケーキのように、ごてごてと街学的なかざりのついた美文調の論文に食傷した者にとって、それは三度三度口にしてもあきのこない味である。ラッセルのことばは江戸前のすしに使う最上等の肥後米のように歯切れがよく、そして適当に風刺のワサビがきいている。事実、ラッセルほどイギリス人独特の洗練されたウィットととぼけとを体得した人物は少なかろう。哲学史といえば退屈なものと相場がきまっているが(もっとも、ヴィンデルバントのものは例外として)、ラッセルの『西洋哲学史』はよみものとしても実に面白い。

 ラッセルの魅力の第二の源泉はかれの知的な卒直さである。この卒直さは主としてふたつの点にあらわれている。第一に、ラッセルは自分の知らないこと・わからないことははっきり「知らない」と公言するだけの勇気をもっている。これは当りまえのようだが、実のところ、学者、特に哲学者の世界では珍重すべき美徳である。第二に、かれは自分の見解の弱点をすなおに容認すると同時に、反対者の見解の長所をみとめるにもやぶさかでない。自分の属する陣営はつねに正しく、他の諸見解は全部あやまっているというような教条主義的な考えはラッセルには薬にしたくともない。この意味でも、かれはミルのよき後継者であり、イギリス人の良識の代表者であるといえよう。
 だから、ラッセルにとっては、宇宙全体を一ぺんで説明しつくすよう哲学体系(かれはこのよう理論を block theory of the universe とよぶ)は現実にはありえない。もしあるとすれば、それは非良心的なまやかしの理論である。
 へーゲル哲学に対するかれのはげしい批判と軽蔑とはまさにここに由来する。もし哲学的認識というものが可能ならば-とかれはいう-それは、科学的認識と同じように、一歩一歩着実に前進すべきである。
 確実にわかることに立脚しつつ、少しずつ未知の領域に足をふみ入れる科学的態度-これこそ同時にまた哲学の態度でもなければならない。こう説きつつ、ラッセルはへーゲルに代表されるブロック・セオリー型哲学に対するものとして、地味な「各個撃破的」方法を提唱する。

 ラッセルは、そのあまりにもするどい洞察力と徹底的にドライな筆致とのゆえに、何となく、冷たい印象を読者に与える。鶴のようにやせたその風貌もおよそ「温容」という概念からほど遠い。しかし、『自伝的回想』などをよく読むと、かれが実は心の底では温かい人物であることがわかる。たとえば、かれ自身の教え子であり有名な Tractatus Logico-Philsophicus の著者であるルードヴィヒ・ヴィットゲンシュタインは稀代の奇人だったらしいが、この人の奇行についてのラッセルの回想には、淡々とした中にも、一脈の愛情が感ぜられて気持がよい。

 ラッセルはわが国ではおもに社会思想家・文明批評家としてひろく知られてきた。また、最近では、原水爆反対運動の闘士としてかれの名はもっとひろく知られるようになった。しかし、かれの本領が「職業的な哲学」、特に論理学、数学基礎論などにあることはいうまでもない。例のプリンキピア・マテマティカだけでもかれの名を不朽ならしめるに十分だった。しかし、それから実に半世紀ちかくのあいだ、かれの健筆は休みなく活動してきた。特に、第一次、第二次大戦の惨禍はラッセルを駆って社会・国家などの諸問題についてのかれの所信を世界の識者に向って発表させた。この知的巨人の業績をじっくりと味読することは、二つの世界の間に立って苦悩する現代の日本人にとって特に意義ふかいことと信ずる。(1959年5月27日記)