赤井米吉「(バートランド・ラッセルが言う)三つの戦いとその教育」
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第15号(1970年5月)p.10
* 赤井米吉氏(1887-1974, あかい・よねきち)は当時、ふじ幼稚園園長
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B. Russell: New Hopes for a Changing World(邦訳『原子時代に住みて』、理想社刊)は、現代教育の名著である。
昭和二十六年の秋、わたしの「追放」がとけて金沢のある新聞社に勤めることになった。実は「追放解除」ということはありえないものと思っていた。丁度わたしが「還暦」という年だったので、あと生涯「隠居さん」と考えていたのである。それが新聞という、時代の先端に立つ仕事につくことになったので、少なからず不安を感じ、何か「自信」のようなものを得られるものをと探している内に見出したのがこれである。ラッセルがノーベル賞を受けた直後のものということも、わたしに魅力があった。
それから金沢に一年半ほどいた間に、読み、訳し、時にはわたしの担当だった「日曜随想」に紹介したりして、非常に教えられ、励まされ、敗戦後のわたしを立直した。ほんとうに良い教育書である。大学の語学の教科書に用いているところもいくつかあるということだが、良い選択と思う。
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「人間というものは本来何ものかと闘争するものである。」として、その闘争を、「人間と自然との戦い」「人間と人間との戦い」「人間と自己自身との戦い」の三つにして、人類の歴史がこの三つの戦いを、ある意味では順々に戦って、「文明」「文化」というものを発達させたのであるとしている。
しかし凡ての戦いが終ったのではなく、いっとうはじめの「自然との戦い」だって、今に継続しているし、将来まだまだ、或は永遠につづくとも考えられる。「人間と人間との戦い」だってそうである。凡ての戦いは「和解」を求めているともいわれるが、戦い中に亡ぼされたものは、再生の機会はなく、したがって「和解」もあり得ない。「平和運動」というものも、ある一方の人々が、勝ちとり、生き残るためとも考えられる。
「人間と自己自身との戦い」は、いわば各個人の問題である。各々の内面のことである。八十の老人にはいろいろ反省や苦悩がある。それはあとでいう。がそれが社会問題としてでてくる。親子の問題、教師と子弟の問題、もっと広くいえば為政者と人民の問題もそうである。「親心子心」を説いたペスタロッチも、彼の内面的葛藤を告白したものである。
これも「和解」が理想であるが、多くの場合、それは「戦い」そのもの、温和さ、いわば自己反省の不十分さによることが多い。「妥協」である。そこにも勝ち残るものと、死にゆくものとがあることは否めない。
これらの三つの戦いの要因、現状、将来、その間に処する心得、それらをラッセルは広く深く説いている。彼は強いて、それらを無くしようとは訴えない。二大強国が戦って、どちらかが勝って「世界制覇」のようなことができるような形になっても、決して世界中がその国の欲するように治まるものでなく、いろいろな「異種」を許し、忍んでゆかねばならないことを巧みに論じている。
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わたし個人の「三つの戦い」を書いてみたい。わたしは幼少のころ非常に病弱で、母に背負われて医師通いを永い間つづけていた。学校へ登校の途中、道ばたにうずくまって、女の先生におんぶしてもらって行ったこともあった。わたしの「自然との戦い」は、病気との戦いであった。
このために頭の勉強、読み、数えはしたが、手足の勉強、習字、図画、体操は全くやらなかった。最も残念に思うことは、凧揚げ、竹馬遊びのような遊びの「理科」が全くできなかったことである。それがわたしの生涯の欠陥になった。幼時の教育の第一、最大要件は健康であることをわたしは注意したい。
次に、わたしの七、八才のころは日清戦争があり、十七、八才のとき日露戦争があり、少青年期の十年を戦争教育、生活で過したことが、「人間との戦い」に対する基本精神、態度をつくり、五十歳から六十歳の十年間の第二次世界戦争に至らしめたのである。
大正五、六年から終りまで、凡そ十年間、「新教育」「自由教育」という、個人対照(対象?)の教育が試みられたが、その他はすべて「国民教育」「富国強兵の教育」であった。わたしはその教育を受け、またあたえたのである。
敗戦はわたしのためにはたしかによかった。
戦後第一の内閣の文相前田多門に、「仇打ちの教育は止めましょう」と、敢えていうことができたのは、非常な幸福であったと思う。わたしの老人としての、「自己自身との戦い」の結果であった。そしてつづいて、「愛と理性の教育」を提唱し得たのも、深い内省からの結論」である。ラスキン(ラッセルの誤記)自身が、そのモデルである。この書はその教科書である。