低学年では,文学は演劇を通して親しむとよい

 しかし,「慈悲の本質 “the quality of mercy”」(注:シェークスピア『ベニスの商人』から)とか,「この世は全て舞台だ(芝居だ)”all the world’s a stage”」」(注:シェークスピア『お気に召すまま』から)というような単なる断片的な決まり文句(set pieces)を学ぶことは,大部分の子供たちには退屈かつわざとらしく思われるので,当初の目的を達成できない。作品の暗記を演技に結びつけるほうがずっと良い。なぜなら,(その場合)暗記は,あらゆる子供が好きなことをするための必要な手段となるからである。
3歳以後の子供たちは,喜んでひとつの役を演じたがる。即ち,子供たちは,その役を自発的にやっているのだが,もっと洗練されたやり方を教えられると大喜びする。私は(今でも),ブルータスとキャシアスとの争いのシーン(場)を演じて,次のようにさけんで言ったとき,とても楽しかったことを,覚えている。

私はあんなローマ人になるくらいなら
 むしろ犬になって月に向かって吠えるほうがましだ

『ジュリアス・シーザー』とか,『ヴェニスの商人』とか,その他自分にあった演劇(芝居)で役を演ずる子供(たち)は,自分の役(の部分)だけではなく,他の大部分の役(の部分)も知るようになるだろう。そうした演劇(芝居)は,彼らの頭(心)の中に長い間,すべて喜びとして,とどまるだろう。結局,優れた文学は,(人に)喜びを与えるように意図されているのであり,もし子供たちが文学から喜びを引き出せないのであれば,彼らは利益を得ることはほとんどないだろう
以上のような理由で,低学年においては,文学教育を演劇の役を覚えることに限定したい。それ以外は,学校の図書室で入手できる,上手に書かれた物語を自発的に読むということでよいだろう。
今日の作家は,子供のために,おろかで感傷的な作品を書いている。それは,子供たちをまじめに考えていない点で,彼らを侮辱するものである。『ロビンソン・クルーソー』のいっしょうけんめいな真面目さと比較してみるとよい。子供たちを取り扱うときにせよ,その他の場合にせよ,感傷的であることは,劇的な共感を生み出すことに失敗する。子供っぽいことを魅力的だと思う子供は,一人もいない子供は,できるだけ早く,おとなのようにふるまえるようになりたいと思っている。それゆえ,児童図書は,子供っぽいやりかたに対して,決して,それを奨励する喜びを示すようなものであってはならない。
(安藤訳では “a patronizeing pleasure” は「先輩ぶった喜び」となっている。しかし,ここは「(保護者やパトロンのように,)子供っぽさを「いいね!(かわいいね!)」と喜ぶようなことをしてはいけない」という意味だと考えられる。従って,「先輩ぶった喜び」では意味がずれていると思われるがいかかだろうか?)。
今日の児童図書の多くに見られるわざとらしい愚かさは,実に不愉快である。そのような本は,子供をいらいらさせるか,あるいは,精神的に成長したいという衝動を困惑させ混乱させるにちがいない。こういった理由で,最良の児童図書とは,もともとはおとなのために書かれたものであるが,たまたま子供にも向いているような本である。唯一の例外は,たとえば,リア(注: Edward Lear, 1812-1886, 英国の画家・詩人)やルイス・キャロルが書いた本のように,子供のために書かれたもので,おとなが読んでも楽しい本である。

But mere learning of set pieces, such as “the quality of mercy” and “all the world’s a stage”, seems tedious and artificial to most children, and therefore fails of its purpose. It is much better that learning by heart should be associated with acting, because then it is a necessary means to something which every child loves. From the age of three onwards, children delight in acting a part ; they do it spontaneously, but are overjoyed when more elaborate ways of doing it are put in their way. I remember the exquisite amusement with which I acted the quarrel scene between Brutus and Cassius, and declaimed.

I had rather be a dog and bay the moon
Than such a Roman.

Children who take part in performing Julius Caesar or The Merchant of Venice, or any other suitable play, will not only know their own parts, but most of the other parts as well, The play will be in their thoughts for a long time, and all by way of enjoyment. After all, good literature is intended to give pleasure, and if children cannot be got to derive pleasure from it they are hardly likely to derive benefit either. For these reasons I should confine the teaching of literature, in early years, to the learning of parts for acting. The rest should consist of voluntary reading of well-written stories, obtainable in the school library. People nowadays write silly, sentimental stuff for children, which insults them by not taking them seriously. Contrast the intense seriousness of Robinson Crusoe. Sentimentality, in dealing with children and elsewhere, is a failure of dramatic sympathy. No child thinks it charming to be childish ; he wants, as soon as possible, to learn to behave like a grown-up person. Therefore a book for children ought never to display a patronizing pleasure in childish ways. The artificial silliness of many modern children’s books is disgusting. It must either annoy a child, or puzzle and confuse his impulse towards mental grow. For this reason, the best books for children are those that happen to suit them, though written for grown-up people. The only exceptions are books written for children, but delightful also to grown-up people, such as those of Lear and Lewis Carroll.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 15: The school curriculum before fourteen
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE15-080.HTM

<寸言>
日本では,低学年での学芸会でいやな役をやらされたいやな思い出をもっている人も少なくないかもしれないですが、題材がよくて、指導者がよければ,お芝居(演劇)は、もともと子供が好きなものだろうと想われます。

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