所有衝動と創造衝動 - 前者が最小で後者が最大な人生が善い人生

 自由の固有の領域に関する多くの問題に決着をつける助けになる,広汎な(適用範囲の広い)原理が存在する。
個人の幸福に寄与するものには,おおざっぱに言って2種類ある。即ち,私有(私的所有)が可能なもの(こと/場合)と可能でないもの(こと/場合)である。(たとえば)ある人が食べる物そのものを他の人も(同時に)食べるわけにはいかない。しかし,仮にある人が詩を楽しむとしても(if = even if),彼はそのことによって他の人も(同時に)その詩を楽しむことを妨げることはない。大ざっばに言えば,私的所有の可能なものは物質的なものであり,一方,可能でないものは精神的なものである。物的なもの(物質財)は,供給が無制限でなければ公平の原則によって分配されるべきである。即ち,結果として他の誰かの所有分が少なすぎる場合には,いかなる者も過大に所有してはならない。この分配の原理は,無制限の自由からは出て来ないだろう。無制限の自由は,ホッブスの言う,強者の勝利に終る(ところの)万人の万人に対する闘いへと導くであろう。
 しかし,知識,美の享受,友情,愛情のような精神的なもの(所有財)は,それによって生活(人生)が豊かになる人たちによって他の人たちから奪いとられること(もの)ではない。従って,この(精神的な)領域においては,申し立て通りの(prima-facie),自由を制限するものはまったくない。ある種の知識を禁止したり,あるいは,プラトンやスターリンのように,ある種の音楽や詩を禁止したりする人々は,その権利のない領域に(注:no locus standi :訴訟に参加する権利がない),政府が干渉することを許容しているのである。
物質的なもの(財貨)と精神的なもの(財貨)との間の区別明確に線をひけない場合が多いので,私はこの原理の重要性を過度に強調したいとは思わない。そのような例の最も明らかなものの一つは,図書の印刷(出版)である。図書(本)は杏のプディングのように物質的なものであるが,それから引き出すことを我々が期待するもの(良きもの)は精神的なものである。最も賢明である権力(authority 権威)でさえも,いかなる本が印刷に値するかを決定できるような十全な原理原則を考え出すことは容易ではない。現在のように多様な出版社がある状況において,いかなる改善も可能とは思わない。世俗的なものであれ聖職のものであれ,本を出版する前に,許可をとらなければいけないような権力があるところでは,常に,結果は悲惨である。同様なことが芸術についてもいえる。いかなる者も,共産主義者でさえも,現在,ロシアの音楽がスターリンの干渉(介入)によって改善されたとは,主張しないだろう。

There is a broad principle which helps in deciding many questions as to the proper sphere of liberty. The things that make for individual well-being are, broadly speaking, of two sorts: namely, those in which private possession is possible and those in which it is not. The food that one man eats cannot be also eaten by another; but if a man enjoys a poem, he does not thereby place any obstacle in the way of another man’s enjoyment of it. Roughly speaking, the goods of which private possession is possible are material, whereas the other sort of goods are mental. Material goods, if the supply is not unlimited, should be distributed on principles of justice: no one should have too much if, in consequence, someone else has too little. This principle of distribution will not result from unrestricted liberty, which would lead to Hobbes’s war of all against all and end in the victory of the stronger. But mental goods such as knowledge, enjoyment of beauty, friendship and love are not taken away from other people by those whose lives are enriched by them. There is not, therefore, any prima-facie case for restrictions of liberty in this sphere. Those who forbid certain kinds of knowledge, or, like Plato and Stalin, certain kinds of music and poetry, are allowing Government to intervene in regions where it has no locus standi. I do not wish to overemphasize the importance of this principle, for there are many cases in which the distinction between material and mental goods cannot be sharply drawn. One of the most obvious of these is the printing of books. A book is as material as a plum pudding, but the good that we expect to derive from it is mental. It is not easy to devise any sound principle upon which even the wisest authority could decide what books deserve to be printed. I do not think that any improvement is possible upon the present diversity of publishers. Wherever there is an authority, whether secular or ecclesiastical, whose permission is required before a book can be printed, the results are disastrous. The same thing applies to the arts: no one, not even a Communist, will now contend that Russian music was improved by Stalin’s intervention.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-250.HTM

<寸言>
この主張に関連したラッセルに有名な一文は次のとおり。

The best life is one in which the creative impulses play the largest part and the possessive impulses the smallest.

「愛国心」という魔物

 けれども,これは世界の大部分において支配的である教育理論ではない。最も支配的な(広まった)教育理論は,ジェスイット教徒(注:イエズス会士。イエズス会とは,イグナチオ・デ・ロヨラによって創設されたカトリックの男子修道会)によって発明され,フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte,1762-1814:ドイツの観念論哲学者)によって完成されたものである。フィヒテの述べるところによれば,教育の目標(object 目指すべきところ)は,意志の自由を破壊することであってはならない。なぜなら,我々はどうして正しいものよりも悪いものを選ぶ自由を望むのか,と彼は問う。フィヒテは正しいものが何であるかを知っており,子供たちが大人になった時に,フィヒテが悪と考えるものよりも善と考えるものの方を選ぶように内的衝動下におかれるような学校システムを望む(注:compulsion : ここでは「強制」ではなく「衝動」)。この理論は,その完全な形で,共産主義者とカトリック教徒によって採用され,また,ある程度まで,多くの国の国立学校によって採用されている。その(理論の)目的は,今日の焦眉の問題について,一方の側の意見しか聞かず,他方の側の意見に対しては恐怖の感情を抱くように吹き込まれているような精神的奴隷を生み出すことにある(のである)。そこにはフィヒテが望んだものからのちょっとした逸脱がある。彼の教育方針は是認されているが,教え込まれる教義は国によって,また,その信条によって異なっている。フィヒテが主に教えられるのを望んだことは,ドイツ国家の他の全ての国家に対する優越性であったが,この小さい点(注:ラッセルの皮肉)において,彼の弟子の大部分は彼に同意しなかった(注:つまり、フィヒテの祖国ドイツよりも,弟子が所属する自分の国に対する愛国心の方が強かった。フランス人はフランスを、英国人は英国を・・・といった具合に)。その結果,彼の原理原則を採択した国々においては,国家教育は,うまくいった限りにおいては,無知な狂信者の一群を生み出しており,彼らが必要な時には,命令一下,戦争にでも迫害にでもすぐに従事する用意ができている。この害悪は極めて大きいので,国家教育が始められていなかったとすれば,(私の意見では,少なくとも)世界はもっとよりよい場所であったであろう。

Japan’s Prime Minister Shinzo Abe, center, and his cabinet ministers, escorted by a Shinto priest, arrive at the Grand Shrine of Ise, central Japan, for offering a new year’s prayer Monday, Jan. 5, 2015. Japanese Prime Minister Abe said Monday that his government would express remorse for World War II on the 70th anniversary of its end in August. (AP Photo/Kyodo News) JAPAN OUT, MANDATORY CREDIT

This, however, is not the theory of education which has prevailed in most parts of the world. The theory of education which has prevailed most widely was invented by the Jesuits and perfected by Fichte. Fichte states that the object of education should be to destroy freedom of the will, for why, he asks, should we wish a freedom to choose what is wrong rather than what is right? Fichte knows what is right, and desires a school system such that, when the children grow up, they will be under an inner compulsion to choose what Fichte considers right in preference to what he considers wrong. This theory is adopted in its entirety by Communists and Catholics, and, up to a point, by the State schools of many countries. Its purpose is to produce mental slaves, who have heard only one side on all the burning questions of the day and have been inspired with feelings of horror toward the other side. There is just one slight divergence from what Fichte wanted: although his method of education is approved, the dogmas inculcated differ from country to country and from creed to creed. What Fichte chiefly wished taught was the superiority of the German nation to all others; but on this one small point most of his disciples disagreed with him. The consequence is that State education, in the countries which adopt his principles, produces, in so far as it is successful, a herd of ignorant fanatics, ready at the word of command to engage in war or persecution as may be required of them. So great is this evil that the world would be a better place (at any rate, in my opinion) if State education had never been inaugurated.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-240.HTM

<寸言>
「愛国心」は魔物。多くの国民がこの「愛国心」という魔物にとらわれ、思考停止に陥ってしまう。中国では「愛国無罪」が叫ばれたが、日本の「一部の?」保守主義者も同様。また、「愛国」をかかげて商売している人も少なくない。

ミル曰く:「国家は教育の’機会’を提供するだけにしなければならない」

 自由を擁護する人たち特有の困難に直面している領域がある。それは教育の領域である。子供たちは教育を受けるか否かを(子供が)選択する自由があると考えられたことはなかった。そうして,現在では,両親がこの選択の自由(子供に教育を受けさせるかどうかの自由)を持つべきだとは考えられていない。ミルは,国家は子供は教育されなければならないと主張すべきであるが,国家自体が教育を行うべきではないと考えていた。けれども,ミルは,教育はどのようになされるべきかについては言うことをあまり持ちあわせていなかった。彼が現在この問題について執筆しているとすれば,どのようなことを言うか考察してみよう。
 まず原理的問題,すなわち,自由の愛好者は,学校で(子供に対し)どのような教育が行われるのを見たいかについて尋ねることから始めよう。理想的ではあるがいくらかユートピア主義的な回答は,生徒が行わなければならないようなことに関する論争的な問題についてはできるだけ合理的な判断を下せるように子供を教育すべきだ,ということであろう。このことは一方では(裁判官のように)公平な思考習慣の訓練を,また,他方では知識の偏らない供給を,必要とする。このようにして,生徒は大人になる途上で,真に自由な選択への準備ができるであろう,我々は子供に自由を与えることはできないが,自由への準備を与えることはできる。そうして,これは,教育がなすぺきことである

There is one sphere in which the advocate of liberty is confronted with peculiar difficulties. I mean the sphere of education. It has never been thought that children should be free to choose whether they will be educated or not; and it is not now held that parents ought to have this freedom of choice. Mill thought that the State should insist that children should be educated, but should not itself do the educating. He had, however, not very much to say about how the educating should be done. I will try to consider what he would say on this subject if he were writing now.
Let us begin by asking the question of principle, namely, what should a lover of liberty wish to see done in the schools? I think the ideal but somewhat Utopian answer would be that the pupils should be qualified as far as possible to form a reasonable judgment on controversial questions in regard to which they are likely to have to act. This would require, on the one hand, a training in judicial habits of thought; and, on the other hand, access to impartial supplies of knowledge. In this way the pupil would be prepared for a genuine freedom of choice on becoming adult. We cannot give freedom to the child, but we can give him a preparation for freedom; and this is what education ought to do.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-230.HTM

<寸言>
国家は子ども(や子ども以外の必要な者)に教育の機会を提供しなければならないが、その内容に直接口をはさむべきではない、という考え方。教科書検定などもってのほか。

「権力の監視」を怠る国民は権力の餌食になる

 我々の立法(法律)におけるこれらの中世時代精神の遺物よりもずっと重要なものは,不当な権力の問題である。18, 19世紀の自由主義を招来させた(もたらした)のはこの問題であった。(当時の)人々は王権に反抗し,宗教的迫害の行われている諸国においては,(キリスト)教会の権力に反抗した。また,外国の支配に反抗する強い民族感情のあるところでは,どこにあっても,外国による支配に反抗した。概して,これらの目的は成功裡に成し遂げられた。君主(王)は大統領に取って代わられ,宗教的迫害はほとんどなくなり,ヴェルサイユ条約は国籍自由の原則(liberal principle of nationality)を実現するためになしうることを行なった。
 それにもかかわらず,世界は天国にはならなかった。自由はかつてよりも少くなり,多くはならなかったことを,自由の愛好者たちは,気がついた(発見した)。過去において自由の大義に勝利をもたらしたスローガンや戦術は,新しい状況には適用できず,自由主義者たちは新しい形の専制を擁護する進歩的と思われた人たちによって見棄てられていることを知った。王や僧侶や資本家たちは,概して,流行遅れのボギー車だった。現代の危機を代表するものは官僚(役人)である官僚(役人)の権力に対抗して,個人はほとんど何もできない。組織のみが組織と闘うことができる。(現代の)我々は,モンテスキューの(唱える)権力の分立(分割)の考えを,ただし新しい形で,復活させなければならないと,私は考える。
たとえば,社会主義者の心を支配している労働と資本との闘いを考えてみよう。社会主義者たちは,彼らが闘っている諸悪は,資本の力が国家の手中に渡れば消滅する,と想像した。これはロシアにおいて、組織労働者の同意のもとに行われた。これ(資本の国有化)が行われるやいなや,労働組合は独立した権限を奪われ,労働者たちは以前よりももっと完全に奴隷化されたことに気づいた。何らかの自由への抜け穴(逃げ道)を残すという問題の一元的な解決法は存在しない。自由を愛する人々が支持できる唯一の可能な解決法は,絶対的でない拮抗する勢力があり,どの権力も危機においては世論(公衆の意見)に注意を払わざるをえないといった解決法でなければならない。このことは,実際には,労働組合が組合執行部の(経営者からの)独立を確保しなければならないということを意味している。職を得る時に労働組合に属さなければならない人たちによって享受される自由は,不十分かつ不完全であることは疑い得ない。しかし,それは現代産業が許容できる最善のものであるように思われる。
(訳注:中村秀吉訳『(ラッセル)自伝的回想』では,the liberal principle of nationality のところを「ヴェルサイユ条約は民族的独立の自由の原則を実現するために・・・」と,苦しい訳となっている。nationality は「国籍」と訳すのが素直な訳であるが,中村氏には,国籍は一つに決まっているという思い込みがあったために,このような訳になったのではないか?)
参考:https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E7%B1%8D%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87-1317025
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%B1%8D#.E5.9B.BD.E7.B1.8D.E8.87.AA.E7.94.B1.E3.81.AE.E5.8E.9F.E5.89.87

Of much greater importance than these remnants of medievalism in our legislation, is the question of unjust power. It was this question which gave rise to the liberalism of the eighteenth and nineteenth centuries. They protested against the power of monarchs, and against the power of the Church in countries where there was religious persecution. They protested also against alien domination wherever there was a strong national sentiment running counter to it. On the whole, these aims were successfully achieved. Monarchs were replaced by presidents, religious persecution almost disappeared, and the Treaty of Versailles did what it could to realize the liberal principle of nationality. In spite of all this, the world did not become a paradise. Lovers of liberty found that there was less of it than there had been, not more. But the slogans and strategies which had brought victory in the past to the liberal cause were not applicable to the new situation, and the liberals found themselves deserted by the supposedly progressive advocates of new forms of tyranny. Kings and priests and capitalists are, on the whole, outmoded bogies. It is officials who represent the modern danger. Against the power of officials, single individuals can do little; only organizations can combat organizations. I think we shall have to revive Montesquieu’s doctrine of the division of powers, but in new forms. Consider, for example, the conflict of labor and capital which dominated the minds of Socialists. Socialists imagined that the evils they were combating would cease if the power of capital was put into the hands of the State. This was done in Russia with the approval of organized labor. As soon as it had been done the trade unions were deprived of independent power, and labor found itself more completely enslaved than ever before. There is no monolithic solution of this problem that will leave any loop-hole for liberty. The only possible solution that a lover of liberty can support must be one in which there are rival powers, neither of them absolute, and each compelled in a crisis to pay some attention to public opinion. This means, in practice, that trade unions must preserve their independence of the executive. Undoubtedly the liberty enjoyed by a man who must belong to his union if he is to obtain employment is an inadequate and imperfect liberty; but it seems to be the best that modern industries can permit.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-220.HTM

<寸言>
「権力の監視」を怠る国民は権力の餌食になりやすいということ。
政治にあまり関心がなく、権力の暴走を日頃チェックしていなければいつのまにか官僚や権力の力が増大し、個人の自由は減っていく。社会が複雑になればなるほど整備される法律は複雑になり、いつの間にか社会において力をもっている集団の都合が良いように法律tが「整備」されていってしまう。日頃自分の頭で考える習慣を養っていない者は、権力者や権力に追従する者の宣伝にのり、自分で自分の首をしめる行為や判断をしてしまっても気づかない。

「同性愛」に関するミルの見解

 ミルの原理が既存の法律を非難する第二の問題は,同性愛である。二人の成人(大人)が自発的に同性愛関係に入るならば,それは彼らにのみ関係したことであり,従って,社会の関与すべきことではない。もし仮に,そのような行為に対し寛容であること社会をソドムとゴモラ(旧約聖書の『創世記』に登場する都市で,「性の乱れ」を理由に,天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされる都市)の運命にさらすことになるだろうということが,かつてと同じく現在もいまだに信じているのであれば,社会は干渉するあらゆる権利を保有することになろう。だが社会は,そのような行為が邪悪だと考える根拠のみによって,干渉する権利をもっていない。刑法は,欲せざる被害者に加えられる暴力や詐欺行為を防ぐために発動されることは正しいであろうが,どのような被害(損傷)があろうとも,それが,自分(agents 行為者本人)は成人(大人)であると常に考える行為者によってのみなされる時には (注:強制されてではなく,成人した者が進んで同性愛行為をしている場合は),刑法を発動するべきではない。(注:現在では多くの国でこのような考え方が認めれるようになってきているが,1955年当時においては,このような考え方は社会を混乱・腐敗させるものだと考えられていたことに注意)

The second matter in which Mill’s principles condemn existing legislation is homosexuality. If two adults voluntarily enter into such a relation, this is a matter which concerns them only, and in which, therefore, the community ought not to intervene. If it were still believed, as it once was, that the toleration of such behavior would expose the community to the fate of Sodom and Gomorrah, the community would have every right to intervene. But it does not acquire a right to intervene merely on the ground that such conduct is thought wicked. The criminal law may rightly be invoked to prevent violence or fraud inflicted upon unwilling victims, but it ought not to be invoked when whatever damage there may be is suffered only by the agents always assuming that the agents are adults.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-210.HTM

<寸言>
「産めよ増やせよ」というのが聖書の重要な教え。同性愛が非難されたのは、多分、同性愛からは子どもが生まれないからではないか?

何を「みだら」と感じるかは時代によって変わっていく

 私は,ミルが今(現代に生きていて)本を書いているとすれば,警察が最近前面に持ちだした2つの問題をさらなる実例として選ぶであろうと考える。その一つは「猥褒」文学である。この問題に関する法律はひどく漠然としている。実際,もしそれに関する法律が存在すべきであるならば,まったく漠然とならざるをえないだろう。実際,(審理にあたる)治安判事(警察裁判所判事)にたまたまショックを与えるいかなるものも猥襲であり,治安判事にショックを与えないものだとしても,最近『デカメロン』訴訟で起きたように,無知な警官でショックを受ける者がいれば,告発の対象となるかもしれない(参考:1954年7月31日付のメルボルン発行の新聞 The Argus に掲載された,ラッセルのコメント記事:http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/23416151)。このような法律の害悪のひとつは,当該判事が少年の時に,もしそのような知識は有益ではないと考えられたとすれば,有用な知識を広めるのを妨げることである。我々の大部分の者は,この点に関しては,事態は改善されつつあると考えていたが,最近の経験(事件)は我々に疑いをもたせた。ある成人が馴れていない事物に触れるとき経験する驚きの感情が,犯罪の告発に十分な基礎となるとは,私は考えることはできない

I think if Mill were writing now he would choose in further illustration two matters which the police have recently brought to the fore. The first of these is “obscene” literature. The law on this subject is exceedingly vague; indeed, if there is to be any law about it, it cannot well help being vague. In practice, anything is obscene which happens to shock a magistrate; and even things which do not shock a magistrate may become the subject of prosecution if they happen to shock some ignorant policeman, as happened recently in the case of the Decameron. One of the evils of any law of this sort is that it prevents the diffusion of useful knowledge if such knowledge was not thought useful when the magistrate in question was a boy. Most of us had thought that matters were improving in this respect, but recent experience has made us doubtful. I cannot think that the feeling of shock which an elderly man experiences on being brought in contact with something to which he is not accustomed is a sufficient basis for an accusation of crime.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-200.HTM

<寸言>
昔は、「若い」女性の太ももが見えるような服装は「猥褻」であった。今は、多くの週刊誌のグラビアには・・・。

自由への不当な干渉-圧制的な道徳律

 ミルは,自由への不当な(容認出来ない)干渉は大部分次の二つのどちらかの原因からくると(続けて)言いたいのだろうと,私は考える。(即ち)その第一は,人が受け入れない行動規則に服従することを他人に要求するところの圧制的な道徳律であり,他方は,より重要なものであるが、不当な権力である。

 最初の圧制的な道徳律について,ミルは多くの例をあげている。彼は,モルモン教徒(注:アメリカで1830年に創始されたキリスト教の宗派で,一夫多妻を主張)に対する迫害について,雄弁かつ力強い言葉を述べており,それは彼が一夫多妻制をよく思っているのではないかと誰も疑えないゆえにより一層彼の目的にあっている(注:言うまでもなく,好ましくない人間の自由も尊重するということ)。道徳律を守るという名目で行われた自由への不当な干渉についてミルがあげたもう一つの例は,安息日の遵守であり,それは,彼の時代以後,その重要性の大部分を失っている。ミルの弟子だった私の父は,T. H. ハックスリー(Thomas Henry Huxley,1825-1895:英国の生物学者でダーウィンの進化論を擁護した。)の講演は面白くないということを下院に説得する空しい努力をして彼の短い議会生活を過した(注:ラッセルの父親はラッセルが3歳の時に若死にした)。というのは,ハクスリーの講演が面白いとしたら,日曜日にハクスリーの講演を聞くことは非合法となるからである。
(注:みすず書房版の中村秀吉・訳『(ラッセル)自伝的回想』では,「安息日を守っていたら,日曜日にハクスリー(の講義)を★読む★楽しみも奪われてしまうではないか,と安息日墨守の不合理性を言っている」という注をつけているが,これは「日曜日にハクスリーの講演(や講義)を★聴く★愉しみのことを言っていると思われ,中村氏の注は的外れと思われる。因みにアマゾンで「Thomas Henry Huxley lectures」で洋書を検索すると何冊かひっかかる。)

Mill would, I think, go on to say that unwarrantable interferences with liberty are mostly derived from one or other of two sources: the first of these is a tyrannical moral code which demands of others conformity with rules of behavior which they do not accept; the other, which is the more important, is unjust power.
Of the first of these, the tyranny of moral codes, Mill gives various examples. He has an eloquent and powerful passage on the persecution of the Mormons, which is all the better for his purposes because no one could suspect him of thinking well of polygamy. Another of his examples of undue interference with liberty in the supposed interests of a moral code is the observance of the Sabbath, which has lost most of its importance since his day. My father, who was a disciple of Mill, spent his brief Parliamentary career in a vain endeavor to persuade the House of Commons that T. H. Huxley’s lectures were not entertaining, for, if they could be considered as entertainment, they were illegal on Sundays.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-190.HTM

<寸言>
Thomas Henry Huxley が多数の聴衆を前に講演(や公開講義)をしているイラストを見れば、この文章のなかの lectures をどう訳すべきかわかるであろう。

「自由の価値」-ミルに時代においても、現代においても変わらず

 ミルがいま生きていて(人間の自由の問題について)本を書いているとすれば,どのような書き方をしたであろうかと推測することは興味深いことであり,またおそらく無益なことではないであろう。彼が自由の価値について言っていることは,(現在でも)修正なく擁護できる(立ち続けることができる)だろうと,私は考える。人類の生命が存続する限り,自由は,我々人類という地球上の存在が提供する最良のものの多くにとって,必須のものであるだろう(注:has to offer は 「~提供すべきもの」ではなく,「提供する」)。自由は,我々(人間)の最も基本的な本能のひとつに深い源をもっている。新生児は手足を締め付けられると,怒り狂って泣き叫ぶ。(子供の)欲しいと思う自由の種類は,歳を重ね成長するとともに,また知識の増大とともに,変化するが,素朴な幸福の必須の源泉であり続ける。自由が言われなく損なわれると,失われるものは幸福のみではない。(自由が損なわれると)よりいっそう重要かつ実現の困難な有用性も失われる。個人がこれまで人類のために行ってきた偉大な奉仕は,ほとんど全て,彼らをしばしば殉教にまで拡大するほどの激しい敵意にさらされてきた。このようなことは全て,ミルによって非常によく言い表されており,最近の事例を補う以外に(内容の)変更の必要はないであろう。

It is an interesting speculation, and perhaps not a wholly idle one, to consider how Mill would have written his book if he had been writing now. I think that everything he says on the value of liberty could stand unchanged. So long as human life persists, liberty will be essential to many of the greatest goods that our terrestrial existence has to offer. It has its profound source in one of our most elementary instincts: newborn infants fall into a rage if their limbs are constricted. The kinds of freedom that are desired change with growth in years and knowledge, but it remains an essential source of simple happiness. But it is not only happiness that is lost when liberty is needlessly impaired. It is also all the more important and difficult kinds of usefulness. Almost every great service that individuals have ever done to mankind has exposed them to violent hostility extending often to martyrdom. All this is said by Mill so well that it would require no alteration except the supplying of more recent instances.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-180.HTM

<寸言>
自由には「~の自由」「~への自由」がある。封建時代に比べれば,(独裁国家は別にして)大部分の人にとって自由が増したことは言うまでもない。しかし,組織化が進むにつれて昔はなかった新たな「不自由」が増しており、そういった「不自由」を工夫や闘いよってできる限り少なく/小さくすることは、現代の課題である。

「自由世界」のアメリカにおける「赤狩り」

 しかし,その極端な形が共産諸国にみられる害悪は,いくらかユーモラスに「自由世界」と呼ばれるものに属している多くの国々にも,より低い程度ではあるが存在しており,また,容易に増大する可能性がある。ロシアが最近生み出した最も優れた遺伝学者であるヴァヴィロフ(注:Nikolai Ivanovich Vavilov, 1887-1943:ソビエト時代の植物学者,遺伝学者。ルイセンコ学説に反対し,サラトフの刑務所に投獄され,獄死した。)は,獲得形質の遺伝に対するスターリンの無知な信仰に従わなかったという理由で,(ロシアの)北極地方に追放されて悲惨な死に方をした(注:ウィキペディアの説明には,サラトフの刑務所で獄死とある。サラトフ州はカザフスタン共和国の西にあり,北極地方ではない。このエッセイを執筆した1955年当時においては,シベリアの収容所にでも入れられたと新聞報道されていたのだろうか?)。
(一方,自由世界に住んでいた)オッペンハイマー(注:Julius Robert Oppenheimer, 1904-1967:物理学者。ロスアラモス国立研究所所長としてマンハッタン計画を主導し「原爆の父」と呼ばれたが,水爆の実用化には反対した。後に核兵器の開発を主導したことを後悔するようになった。)は,主として,水素爆弾の実用可能性を,そのことを疑うことが全く合理的であった時期に疑ったことが主な理由で,免職となり,研究遂行を妨げられた。警察官に期待される程度以上の教育は受けていないFBI(の連中)は,問題の事態を理解する能力を有する人がみな馬鹿げている(不合理)と思うような根拠にもとづいて,ヨーロッパ最高の学者たちの旅券をさし抑える力があると思っている。この害悪は,合衆国においては,学者の国際会議が不可能となるところまで到達してしまっている(注:1950年代の米国において,マッカーシー上院議員が中心となって共産主義者と疑われる者の追放,いわゆる「赤狩り」,が大々的に行われた。実際は,リベラルな思想の持ち主の多くが追放された。因みに,当時俳優だったロナルド・レーガンは,マッカーシーやニクソンが率いる下院非米活動委員会に協力して「ハリウッドの赤狩り」に協力した。)。ミルが,警察を自由に対する危険としてはほとんど言及していないのは不思議である。こんにち,彼らは,大部分の文明諸国において,最悪の敵である。

But the evils, of which the extreme form is seen in Communist countries, exist in a lesser degree, and may easily increase, in many countries belonging to what is somewhat humorously called the “Free World.” Vavilov, the most distinguished geneticist that Russia has produced in recent times, was sent to perish miserably in the Arctic because he would not subscribe to Stalin’s ignorant belief in the inheritance of acquired characters. Oppenheimer is disgraced and prevented from pursuing his work largely because he doubted the practicability of the hydrogen bomb at a time when this doubt was entirely rational. The FBI, which has only the level of education to be expected among policemen, considers itself competent to withhold visas from the most learned men in Europe on grounds which every person capable of understanding the matters at issue knows to be absurd. This evil has reached such a point that international conferences of learned men in the United States have become impossible. It is curious that Mill makes very little mention of the police as a danger to liberty. In our day, they are its worst enemy in most civilized countries.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-170.HTM

<寸言>
「自由世界」の自由は独裁国家とは比較できないほど大きなものだが、それでも、限られた人が享受できる自由も大変多い。

アメリカとオーストラリアの開拓(精神)の相違

 最初の例として農業をとりあげよう。ミルの『自由論』の出版直後の時期に,アメリカ合衆国中西部において開拓事業の大きな発展があった。開拓者たちは彼らの「徹底した個人主義」を誇りにした。彼らは森が繁り,水が豊富で,肥沃な(自然の恵みの多い)地域に定住した。過重労働に落ちいること無く,木を伐採し,それによって丸太小屋や燃料を確保し,土地の開梱が終わると,彼らは穀物を豊富に収穫した。

 けれども,この個人主義者の楽園に(エデンの園の禁断の果実である)蛇が存在した。その蛇とは鉄道であり,鉄道なしには穀物を市場に運ぶことはできなかった。鉄道は資本の膨大な蓄積,労働の莫大な消費,ほとんど農民ではない多くの人間の結合(連携)を象徴(意味)していた。開拓者たちは,彼らの独立が失われることに憤り,人民党運動(注:アメリカ合衆国でにおいて1891年に結成された人民党が鉄道や銀行などを攻撃した運動であり,鉄道,電話の公有化,土地所有の制限等,かなり社会主義的な要求をかかげた。 /= ウィキペディアの説明)を引き起こしたが,それは熱を帯びていたにもかかわらず,いかなる成功もおさめなかった。けれども,この場合においては,個人的独立の敵はただひとつだけにすぎなかった。

(これに対し)オーストラリアの開拓者と知合いになった時,私はアメリカとの相違に驚いた。(注:ラッセルはノーベル文学賞受賞後の1951年に,招待を受け,オーストリア全土にわたる講演旅行を行ったが,その時の話であろう。)オーストラリアでは農業用の新しい土地の獲得は,膨大な費用のかかる潅漑計画に依存しているが,個々の州には対象の土地が広大すぎるためにその灌漑計画は連邦政府によってのみ実現可能である。この場合でさえ,ある人が広い土地を購入すると,その土地には材木がなく,あらゆる建築資材や燃料を遠方から運ばなければならない(のである)。彼や彼の家族の衛生管理は飛行機や無線の綿密な組織化によってのみ可能となる。彼の生計は輸出貿易に依存しており,それは遠く離れた諸政府(州政府)の気まぐれによって繁栄したり苦しくなったりする。彼の精神状態(オーストリア開拓民),趣味,及び感情は,百年前の徹底的な個人主義的開拓者のものであるが,その環境は全く異なっている。彼がいかに反抗したくても,全く外的なカによって,堅く統制されている。知的自由は今でも持っているかも知れないが,経済的自由は夢となっている。

As a first example, let us take agriculture. In the years immediately succeeding the publication of Mill’s Liberty, there was an immense development of pioneering in the Middle West of the United States. The pioneers prided themselves upon their “rugged individualism.” They settled in regions which were well wooded, well watered, and of great natural fertility. Without excessive labor, they felled the trees, thereby securing log cabins and fuel, and when the soil was cleared, they procured a rich harvest of grain. There was, however, a serpent in this individualist paradise: the serpent was the railroad, without which the grain could not be got to market. The railroad represented a vast accumulation of capital, an enormous expenditure of labor, and a combination of very many persons, hardly any of them agriculturists. The pioneers were indignant at their loss of independence, and their indignation gave rise to the Populist movement, which, in spite of much heat, never achieved any success. In this case, however, there was only one enemy of personal independence. I was struck by the difference when I came in contact with pioneers in Australia. The conquering of new land for agriculture in Australia depends upon enormously expensive schemes of irrigation, too vast for the separate states and only practicable by the federal government. Even then, when a man has acquired a tract of land, it contains no timber, and all his building materials and his fuel have to be brought from a distance. Medical attention for himself and his family is only rendered possible by an elaborate organization of airplanes and radio. His livelihood depends upon the export trade, which prospers or suffers according to the vagaries of distant governments. His mentality, his tastes and his feelings, are still those of the rugged individualist pioneer of a hundred years ago, but his circumstances are totally different. However he may wish to rebel, he is tightly controlled by forces that are entirely external to himself. Intellectual liberty he may still have; but economic liberty has become a dream.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-150.HTM

<寸言>
アメリカ(合衆国)とオーストラリアの開拓の状況が異なれば、銃に対する考え方も異なるであろう
アメリカの西部開拓時代、警察がすぐにかけつけてくれない広大な大地では、自分や家族を守るためには銃の所持が必須であったであろう。だから、合衆国憲法において銃の所持は保証されており、現在、13億丁も出回っているという。しかし、時代が変わり、銃の性能もよくなり、戦争から帰ってくる兵隊の数も増えている。飛行機の利用、監視カメラの設置、ネットワークの発達等で警察の機動力も格段に増している。つまり、環境はまったく変わっており、毎年銃による事故等で亡くなる人が数万人といわれる現在、銃を所持しないことによる安全・安心の確保よりも、銃を持つことによる危険のほうがずっと大きくなっている。
そのことの意味合いが、米国人の半数は先入観にとらわれていてわからないようである。