学びたい学生の入学は容易にし,勉強しない学生は退学or卒業させない

 大学の授業(教授)において,教育技術はもはや重要ではない。重要なのは,自分の専門科目についての知識と,この分野で現在行なわれていることを知ろうとする熱意である。こういうことは,労働過重で,教えることで神経をすりへらしている教師には,不可能である。彼の専門科目は,彼にとって不愉快なものになりがちであり,彼の知識は,ほぼ確実に,彼が若い時に学んだことに限られるようになる。
大学教師は皆,サバティカル休暇(七年に一度の研究のための休暇)を与えられ,外国の大学へ行ったり,他の方法で海外で行なわれている研究に関する知識を得るために,この期間を過ごさなければならない。これは,アメリカでは普通に行なわれているが,ヨーロッパの国々は知的なプライドが過剰であり,その必要性を認めようとしない。この点,彼らはまったくまちがっている。・・・。
大学では,教育に最も意を用いる教師と,研究に最も意を用いる教師との間に,ある一定の対立が見られる。この対立は,ほとんど全てといってよいほど,(大学)教育についての誤った観念と,勤勉も能力も大学在学の条件として要求される水準を下回っている学生が多数いるせいである。旧式の学校教師の観念が,大学にもまだある程度生き残っている。学生たちによい道徳的な影響を与えたいという欲求と,旧式な無価値な知識  -そういう知識は,大半は誤りだとわかっていても,道徳向上にはためになると考えられてる。-  を学生たちにたたき込みたいという願望があるのである。学生たちに勉強をするように説き勧めるべきではない(注;自主性が大事ということ)。しかし,怠けるためか,能力不足のためか,いずれにせよ時間を浪費していることがわかった時には,大学に留まることを許して(認めては)はならない。
強要しても益のあるただ一つの道徳は,勉強するという道徳である。その他の道徳は,それ以前の時期(注:それ以前に教育が終了しているべきもの)に属している。そして,勉強するという道徳は,それを身につけていない学生たちを追放する(退学させる)することによって,厳しく要求するのがよい。(注:勉強するように説得するのではなく,勉強しない限り大学から追放する。) なぜなら,そういう学生は,明らかに,就職したほうがよいからである。教師は,長時間授業をすることを期待されるべきではない。また,研究のための十分な時間を持つべきである。だが,その余暇を賢明に使うことを期待される。

In university teaching, skill in pedagogy is no longer important ; what is important is knowledge of one’s subject and keenness about what is being done in it. This is impossible for a man who is overworked and nervously exhausted by teaching. His subject is likely to become distasteful to him, and his knowledge is almost sure to be confined to what he learnt in youth. Every university teacher ought to have a sabbatical year (one in every seven) to be spent in foreign universities or in otherwise acquiring knowledge of what is being done abroad. This is common in America, but European countries have too much intellectual pride to admit that it is necessary. In this they are quite mistaken….
There is in universities a certain opposition between those who care most for teaching and those who care most for research. This is almost entirely due to a wrong conception of teaching, and to the presence of a number of students whose industry and capacity are below the level which ought to be exacted as a condition of residence. The idea of the old-fashioned schoolmaster persists to some extent at universities. There is a desire to have a good moral effect on students, and a wish to drill them in old-fashioned, worthless information, largely known to be false, but supposed to be morally elevating. Students ought not to be exhorted to work, but they should not be allowed to remain if they are found to be wasting their time, whether from idleness or from lack of ability. The only morality which can be profitably exacted is that of work ; the rest belongs to earlier years. And the morality of work should be exacted by sending away those who do not possess it, since evidently they had better be otherwise employed. A teacher should not be expected to work long hours at teaching, and should have abundant leisure for research ; but he should be expected to employ this leisure wisely.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE18-070.HTM

<寸言>
学びたい学生はどんどん入学させればよい。しかし、入学後勉強しない学生は退学させるか、あるいは、(不勉強なために)留年した学生は、たとえ受ける講義数が少なくても、他の学生と同額の授業料を徴収すべきであろう。そうすれば、私学でも経営がたちいかなくなることはないであろう。
ただし、安易に不勉強な学生を卒業させないように、国家試験に合格しなければ大学卒業資格を与えてはいけないと法律で決めるのがよいかも知れない。

大学でも「詰め込み」教育?-自分の頭で考えさせると非効率?

 ・・・。 この国(英国)の新しい大学には,無数の講義を聴くことを強要する嘆かわしい傾向がある。ひとりで勉強するほうがよいという意見は,モンテッソーリ式の学校の幼児の場合には強く認められている(主張されている)が(allowed = admitted),二十歳の青年の場合は,私達が想定しているように,特に彼らが熱心で例外的な能力を持っている場合は,ずっと強く主張されてよい(認められてよい)。私が大学生であった頃,私も,私の大半の友人たちも,講義(を聴くこと)はまったく時間の浪費であると感じていた。疑いもなく,私たちは誇張していたが,誇張しすぎていたわけではない。講義を支持する真の理由は,それが(外部から見た場合)あきらかな労働(obvious work)だということにある。だからこそ,実業家たちは,講義のために(講義という教員の労働のために)喜んで金(寄付金)を支払うのである。
【安藤訳では “The real reason for lectures is that they are obvious work, and therefore business men are willing to pay for them”は「講義をする真の理由は,誰の目にもはっきりわかる仕事だということにある。だからこそ,実業家たちも講義のために喜んで金を出すのだ」と訳されている。この訳文を読んで理解できる人はどれだけいるだろうか。 実利目的第一の実業家から見れば,わかりやすい,情報量の多い講義は望ましいが,講義で馬鹿丁寧に説明しないでできるだけ学生に考えさせるようなやり方は「手を抜いていると見えてしまう,ということで,前者の講義なら進んで寄付をすると言っていると思われる(今で言えば,いわゆる,企業による冠講座)。即ち reason for lectures は「講義をする理由」ではなく,「講義を良しとする理由=講義を支持する理由」であろう。】
もしも,大学の教師たちが最上の方法を採用したならば(注:一方通行的な講義ではなく,学生に考えさせるような’一見不親切な’講義をした場合),実業家たちは,彼ら(大学教師たち)は怠けていると考え,教職員の数を減らすことを要求することだろうオクスフォード大学やケンブリッジ大学は,その威信のゆえに,ある程度正しい(講義)方法を用いることができる。しかし,(英国の)新しい大学は,実業家に抵抗することはできないし,アメリカの大学の大部分も同様である

In the newer universities in this country, there is a regrettable tendency to insist upon attendance at innumerable lectures. The arguments in favour of individual work, which are allowed to be strong in the case of infants in a Montessori school, are very much stronger in the case of young people of twenty, particularly when, as we are assuming, they are keen and exceptionally able. When I was an undergraduate, my feeling, and that of most of my friends, was that lectures were a pure waste of time. No doubt we exaggerated, but not much. The real reason for lectures is that they are obvious work, and therefore business men are willing to pay for them. If university teachers adopted the best methods, business men would think them idle, and insist upon cutting down the staff. Oxford and Cambridge, because of their prestige, are to some extent able to apply the right methods ; but the newer universities are unable to stand up against business men, and so are most American universities.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE18-060.HTM

<寸言>
昔に比べて,現代の学生は授業(講義の聴講)に熱心に出席していると聞きます。昔は,講義が教員の都合で中止(休校)になると学生の大部分が喜びました。しかし,現在では,頻繁に講義を中止した場合は授業料をその分、学生に返せという声がかなり出るそうです。

一見、現代の学生の態度のほうが大学及び学生のあるべき姿のように思われますが,昔の大学では、教師がルーズであった反面、学生に自分の頭で考える重要性を強調している教師がけっこういました。つまり、大学での授業(講義)は学ぶべきことのほんの一部にすぎないのであるから、一生自分で進んで勉強する(研究調査する)習慣を大学時代に身につけることのほうが、大学の授業を聞くだけ(余り考えずに覚えるだけ)という態度よりずっと優れている、という理屈です。

もちろん,職業教育の場合は、大量の知識や技術を身につける必要があります。しかし,すぐに成果があがらない学問を教える学部や学科はなどは廃止か改組するようにとの通達を出した文科省のような考え方が世の中に蔓延したら、自分の頭でいろいろ考えたい人間にとってとても生きづらい世の中になりそうです。(従順な国民が増えれば政府としては楽でしょうが・・・。)哲学科などは即廃止の対象となりそうです。

格差は世代を越えて引き継がれる-経済格差、教育格差、・・・

 現在のところ,弁護士や医者のような職業につくことは,親にある程度のお金がないかぎり,非常に困難である。なぜなら,それらの職業につくための訓練には金がかかるし,また,(卒業しても)すぐ稼ぎが得られるわけではないないからである(注:日本では,自治医科大学なら,卒業後一定年限僻地医療に従事すれば,学費が免除されるが,全体からすれば一部に過ぎない。)その結果,選択(入学者選抜)の原則は,その仕事に対する適性ではなくて,社会的かつ世襲的なものとなる(注:開業医の子弟は適性がなくても,また,能力があまりなくても,収入の良さのために医者になる者が多い。世間ではそれを揶揄し,よく「医者の馬鹿息子」と言う。)。医学を例にとってみよう。地域社会が医療(地域医療)を効果的に行ないたいと思ったら(注:wished 仮定)、(地域社会は),医者としての仕事(医療行為)に対して熱意と適性を最も示した若者を,医学訓練のために選ぶであろう。現在のところ,この原則は部分的に適用されて,医学的な訓練を受ける(経済的)余裕のある人たちの間から選んでいる(にすぎない)。しかし,将来最も優れた医者になれる人たちの多くは,非常に貧しく,医者になるためのコースをとれないということが,大いにありそうである(注:私立大学の医学部あるいは私立医科大学では,最低でも入学後,大学に1,000万以上の寄付をすることが常識化・常態化している)。これは,嘆かわしい才能の浪費をもたらす。
これとはいくらか異なった例をあげてみよう。英国は,人口密度が非常に高い国であり,食糧の大部分を輸入している。種々の見地からすれば,特に戦時における安全性という見地からすれば,もっと多くの食糧が国内で生産されれば,それは一つの恩恵(利益)だろう。しかし,このごく限られた国土を効率的に耕すための手段は,まるでとられていない。農民は,主として世襲によって選ばれている。概して,(新たに)農民になるのは(やはり)農民の息子である。それ以外は,農場を購入した人びとであり,農場を購入したということは,多少の資本を持っていることを意味するが,必ずしも何らかの農業の技術があることは意味しない。デンマーク農法は,わが国(英国)よりも生産性が高いことは知られているが,我が国の農民にその方法を教えるための処置はまったく取られていない。自動車を運転する者は免許証を持つことを要求されるが,それと同様に,小面積の農地よりも広い農地を耕すことを許される人の全てに,科学的農業の免状(履修証明書)を持つことを要求しなければならない。世襲の原則は,政治(の世界)においては廃止されているが,生活の多くの分野にいまだ居残っている(注:現代日本では政治の世界での世襲制が拡大している。)。この原則が存続しているところでは,以前公務において,世襲の原則がもたらした(導いた)非能率を助長している。私たちは,この原則を相互に関連する次の2つの原則で置き換えなければならない。即ち,第一に,必要な技術を身につけているのでない限り,何びとも重要な仕事につくことは許されてはならない(注:部下がその技術をもっていればよいということではいけない)。第二に,この技術は,親の財産(財力)とはまったく無関係に,それを望む者のうちで最も有能な人びとに教えられるべきである。この2つの原則が,効率をいちじるしく高めることは明らかである。
大学教育は,それゆえ,特別な能力(を持っている者)のための特典とみなされるべきであり,その能力はあっても金のない者は,在学中(の諸経費は)公費でまかなわれるべきである。能力テストに合格しないものはいかなる者も入学を許可すべきではなく,自分の時間を有効に使っていると大学当局を納得させないなら(納得させることができないなら),いかなる者も大学にとどまることを許されるべきではない。大学は金持ちの青年たちが3、4年間,のんびり遊んで暮らす暇な場所だという観念は,しだいに廃れつつある。しかし,チャールズ二世の時代と同様,現在も,そのことについては,非良心的な時代である。

At present, it is very difficult to enter upon such a profession as law or medicine unless one’s parents have a certain amount of money, since the training is expensive and earnings do not begin at once. The consequence is that the principle of selection is social and hereditary, not fitness for the work. Take medicine as illustrative. A community which wished to have its doctoring done efficiently would select for medical training those young people who showed most keenness and aptitude for the work. At present this principle is applied partially, to select among those who can afford the training ; but it is quite probable that many of those who would make the best doctors are too poor to take the course. This involve a deplorable waste of talent. Let us take another example of a somewhat different kind. England is a very thickly populated country, which imports most of its food. From a number of points of view, but especially from that of safety in war, it would be a boon if more of our food were produced at home. Yet no measures are taken to see that our very limited area is efficiently cultivated. Farmers are selected mainly by heredity : as a rule, they are the sons of farmers. The others are men who have bought farms, which implies some capital but not necessarily any agricultural skill. It is known that Danish methods of agriculture are more productive than ours, but no steps are taken to cause our farmers to know about them. We ought to insist that every person allowed to cultivate more than a small holding should have a diploma in scientific agriculture, just as we insist on a motorist having a licence. The hereditary principle has been abandoned in government, but it lingers in many other departments of life. Wherever it exists, it promotes the inefficiency to which it formerly led in public affairs. We must replace it by two correlative rules : first, that no one shall be allowed to undertake important work without having acquired the necessary skill; secondly, that this skill shall be taught to the ablest of those who desire it, quite independently of their parents’ means. It is obvious that these two rules would enormously increase efficiency.
University education should therefore be regarded as a privilege for special ability, and those who possess the skill but no money should be maintained at the public expense during their course. No one should be admitted unless he satisfies the tests of ability, and no one should be allowed to remain unless he satisfies the authorities that he is using his time to advantage. The idea of the university as a place of leisure where rich young men loaf for three or four years is dying, but, like Charles II, it is an unconscionable time about it.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE18-050.HTM

<寸言>
政治の世界では世襲制が広がっている。世襲する地盤がない人間は,名前が知られた人間(タレント,スポーツ選手ほか)でないと当選は難しく、国会議員の質はどんどん劣化している。

直接利益をうまない学術研究の重要性

 もしも,純粋な学問大学の目的の一つとして残しておくべきであるならば,純粋な学問は,単に少数の暇のある紳士の洗練された喜びと結びつけるだけではなく,社会生活全体と関連を持つようにしなければならない。私は,私心のない研究を非常に重要なものだと考えており,大学生活の中でその地位が低くなるのではなく,高まることを望んでいる(高まるのを見たい)。
英国において,また米国においても,純粋な学問を減らすおそれのある主な力は,(これまで)無知な富豪から寄付金を得ようとする欲求であった。これに対する治療法は,産業界の大物には理解することのできない目的のために公費を使うことを惜しまない(ような)教育された民主主義(educated democracy 機械的な民主主義ではなく,民度の高い民主主義)を創りだすことにある。これは決して不可能ではないが,そのためには知的レベルが一般的に向上する必要がある。もし,学者たちがもっと頻繁に金持ちの居候的態度(食客的態度)から解放されるならば,それは,ずっと容易になるだろう。そのような態度は,パトロンが学者の生計の自然な源泉(出所)であった時代から受け継がれたものであった。もちろん,学問と学者との区別がつかない(混同される)こともないわけではない。
(たとえば)まったく架空の例をあげるなら,ある学者が有機化学の代わりに酒(ウィスキー・ワイン・ビールなど)の醸造を教えることによって自分のふところ具合をよくすることができるかもしれない。彼は利益を得るが,学問は損害をこうむる。もしも,その学者がもっと本物の学問への愛を抱いているならば,酒の醸造の教授ポストを寄付する酒造業者に政治的に味方をするようなことはしないだろう(注:企業による寄附講座に対する態度)。また,もし,彼が(特定の権力者や金持ちではなく)民主主義の味方であるならば,民主主義は進んで彼の学問の価値を認めようとするだろう。
以上のような理由で,学術の諸団体(注:大学,研究所,学会,その他)は金持ちによる施しよりも,むしろ,公費に頼ってほしい,と私は思っている。金持ちに頼る弊害(注:企業から競争的資金を獲得すること,金持ちからの寄付に頼ること)は,英国よりも米国のほうが大きいが,英国にも見いだされるし,今後増えていく可能性がある。

If pure learning is to survive as one of the purposes of universities, it will have to be brought into relation with the life of the community as a whole, not only with the refined delights of a few gentlemen of leisure. I regard disinterested learning as a matter of great importance, and I should wish to see its place in academic life increased, not diminished. Both in England and in America, the main force tending to its diminution has been the desire to get endowments from ignorant millionaires. The cure lies in the creation of an educated democracy, willing to spend public money on objects which our captains of industry are unable to appreciate. This is by no means impossible, but it demands a general raising of the intellectual level. It would be much facilitated if our learned men would more frequently emancipate thernselves from the attitude of hangers-on of the rich, which they have inherited from a time when patrons were their natural source of livelihood. It is, of course, possible to confound learning with learned men. To take a purely imaginary example, a learned man may improve his financial position by teaching brewing instead of organic chemistry ; he gains, but learning suffers. If the learned man had a more genuine love of learning, he would not be politically on the side of the brewer who endows a professorship of brewing. And if he were on the side of democracy, democracy would be more ready to see the value of his learning. For all these reasons, I should wish to see learned bodies dependent upon public money rather than upon the benefactions of rich men. This evil is greater in America than in England, but it exists in England, and may increase.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE18-040.HTM

<寸言>
It is, of course, possible to confound learning with learned men.(もちろん,学問と学者との区別がつかない(混同される)こともないわけではない。)の一文はわかりにくいですが、次のような意味と思われます。ある学者が防衛省から委託された研究をしたり,企業から委託された紐付きの(しかし資金が多く支給される)研究をしたりする場合,学者がやっているのだから「学問」であるが,市井の(アマチュア)研究者が自分が知りたいことについて研究していても,学者ではないのでそれは「学問」とは認められない,ということ。もちろん、以前大学教授をしていたが大学をやめ名誉教授になれば、その人の研究は引き続き「学問」とされ,市井の人間が何十年と研究しても(学会で認められない限り)それは「学問」とは考えられない,ということ。即ち,「学問」=「学者」と思い込めば,「市井の人間の研究」は「非学問」ということになる。

専門職のための養成学校になりつつある大学

 こうして,大学は,中世において占めていた地位に類似した地位に逆戻りしつつある。即ち,大学は,専門職のための養成学校になりつつある弁護士,聖職者,医者は,通常,大学教育を受けている。上級公務員(一級公務員=高級官僚)も,同様である。(注:日本でも,お寺の跡取りを教育する仏教系の大学が多数ある。東大法学部も創設当時の第一の目的は,上級公務員=高級官僚の養成が第一であったし,現在でもそうである。/ civil service = 公務員)技術者(技師)や種々の業種の専門家(technical workers 岩波文庫の安藤訳では「技術者」となっているが,この technical は「専門の」という意味であろう。/a technical book = 専門書;a technical term = 術語,専門用語; technical schools = 専門学校) も,大卒者の数がいだいに増えている。世界がより複雑になり,産業がより科学的になるにつれ,ますます多くの専門家が必要になる。そして,主として,そういう人たちは大学から供給されるのである。古風な人たちは,専門学校が純粋な学問の場に侵入してくることを嘆くけれども,それにもかかわらず,この状況は続いている。なぜなら,「教養」などなんとも思わない金権主義者たち(plutcrats)がそれを要求するからである。純粋な学問の敵は,反乱を起こした(暴走した)民主主義ではなく,金権主義者なのである。「無用の」学問(直接的に利益を生まない学問)は,「芸術のための芸術」と同様,貴族主義的な理想であり,金権主義的な理想ではないのである。(つまり)この貴族主義的な理想が残っているところでは,ルネッサンスの伝統がまだ廃れていないからである。私は,この理想が廃れるのを非常に残念に思っている。純粋な学問は,貴族主義と結びついた最上のものの一つであった。しかし,貴族主義の弊害は,この長所を容易に凌駕するほど非常に大きかった。いずれにせよ,産業主義は,私たちが望んでも望まなくても,貴族主義を抹殺するにちがいない。それゆえ,私たちは,貴族主義に新しくかつより強力な理念を付与することによって,救うことができるものを救う決心をしたほうがよいだろう。即ち,単に伝統にしがみついているかぎり,負け戦さを戦うことになるだろう。

The universities are thus reverting to a position more analogous to that which they occupied in the Middle Ages ; they are becoming training schools for the professions. Barristers, clergymen, and medical men have usually had a university education ; so have the first division of the civil service. An increasing number of engineers and technical workers in various businesses are university men. As the world grows more complicated and industry becomes more scientific, an increasing number of experts are required, and in the main they are supplied by the universities. Old-fashioned people lament the intrusion of technical schools into the haunts of pure learning, but it continues none the less, because it is demanded by plutocrats who care nothing for “culture”. It is they, much more than the insurgent democracy, who are the enemies of pure learning. “Useless” learning, like “art for art’s sake”, is an aristocratic, not a plutocratic, ideal ; where it lingers, it is because the Renaissance tradition is not yet dead. I regret the decay of this ideal profoundly ; pure learning was one of the best things associated with aristocracy. But the evils of aristocracy were so great as easily to outweigh this merit. In any case, industrialism must kill aristocracy, whether we desire it or not. We may as well make up our minds, therefore, to save what we can by attaching it to new and more potent conceptions ; so long as we cling to mere tradition, we shall be fighting a losing battle.

出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE18-030.HTM

<寸言>
大学で教える内容が実利的な学問しか勉強・研究できない学問ばかりになったら,大変不幸な事態。大学であまりまともに勉強しなかった政治家が文学部などはいらないので組織を改正したほうがよいと言い出している。そう、政治家の諸君が学んだような文系の学問ならあまり存在意義はないであろう。

学校は通学制が良いか? 寄宿制が良いか?

 以上の寄宿制(全寮制)の学校に対する賛否両論の考察のうちで,本質的で変更不可能なものは二つしかなく,また,この二つは,相互に対立している。
一方の側には,田園と空気と広々とした場所という長所(benefit 利益)がある。他方の側には,家族の愛情と,家族内の責任を知ることから得られる教育(という長所)がある。
田舎に住んでいる親の場合には,寄宿制の学校を支持する別な論拠がある。即ち,自宅の近くに本当によい通学制の学校が見つかりそうにないということである。こういう対立する考慮点がある以上,一般的な結論を出すことが可能だとは思われない。子供が丈夫で活発なため,健康のことはあまり心配しなくてもよい場合には,寄宿制の学校を支持する一つの論拠がその効力を失う。一方,子供たちが両親を非常に深く愛している場合には,通学制の学校を支持する一つの論拠がその効力を失う。なぜなら,家族への愛情を生き生きと保つためには,休日だけで十分であろうし,学期中は愛情過多になるのをきちんと防いでくれるだろうからである。並みはずれた才能のある,感受性豊かな子供は,寄宿制の学校へ行かないほうがよい。また,極端に才能があり感受性が豊な場合は,まったく学校へは行かないほうがよい。もちろん,良い学校は悪い家庭よりも優っているし,良い家庭は悪い学校よりも優っている。しかし,学校も家庭も,共によい場合は,事例ごとに,その都度,それぞれの長所に基づいて決定しなければならない。
これまで,私は,(通学制か寄宿制か)どちらか一方を選択できる裕福な親の立場から書いてきた。しかし社会的な立場に立って,この問題を政治的に考察するときには,別に考慮すべき点が検討対象に入ってくる。
一方には,寄宿制の学枚の費用の問題があり,他方には,子供が家から離れていれば住居の問題が簡単になるという事情がある。私は,少数の稀な場合は別として,誰でもみな18歳になるまで学校教育を受けるべきであり,専門の職業訓練は十八歳以後に始めればよい,と強く信じている。
この問題(通学制が良いか,寄宿制が良いか)については,賛否両方の主張を大量にすることができるけれども,大半の賃金労働者の息子や娘の場合は,今後も長期にわたって,この問題は経済的な考慮によって,通学制の学校のほうがよいというふうに結論が出されることだろう。この決定は誤りだとする明確な根拠がない以上,たとえその決定が教育的な根拠に基づくものでないとしても,受け入れてもよいだろう。

Of the above considerations, both for and against boarding schools, there are only two that are essential and unalterable, and these two are on opposite sides. On the one side there is the benefit of the country and air and space ; on the other, the family affections and the education derived from knowledge of family responsibilities. In the case of parents who live in the country, there is a different argument in favour of boarding schools, namely, the improbability of a really good day school in their neighbourhood. I do not think it is possible, in view of these conflicting considerations, to arrive at any general conclusion. Where children are so strong and vigorous that considerations of health need not be taken very seriously, one argument for boarding schools fails. Where they are very devoted to their parents, one argument for day schools fails since the holidays will suffice to keep family affection alive, and term-time may just prevent it from becoming excessive. A sensitive child of exceptional ability had better not go to boarding school, and in extreme cases had better not go to school at all. Of course, a good school is better than a bad home, and a good home is better than a bad school. But where both are good, each case must be decided on its merits.
So far, I have written from the standpoint of a well-to-do parent, to whom individual choice is possible. When the matter is considered politically, from the point of view of the community, other considerations enter in. We have on the one hand the expense of boarding schools, on the other the simplification of the housing problem if children are away from home. I hold strongly that, apart from a few rare cases, everyone ought to have a scholastic education up to the age of eighteen, and exclusively vocational training should only begin after that age. Although much might be urged both ways on our present topic, the financial consideration will, for a long time to come, decide the question, in the case of most wage-earner’s sons and daughters, in favour of day schools. Since there is no clear ground for thinking this decision wrong, we may accept it, in spite of the fact that it is not made on educational grounds.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.17: Day schools and boarding schools.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE17-050.HTM

<寸言>
英国人は田舎(田園)が好きな人が多いが日本では都会を好む若者が多い,と思われるが・・・。

多数意見に同調できない子供(人間)は生き辛い

感受性の強い少年の場合,ほかの少年たちとばかり付きあわせたままにしておくことには,一定の危険がある。12歳前後の少年は,通例,かなり野蛮で無神経な(感受性の乏しい)段階にある。
 ごく最近,ある一流のパブリック・スクール(注:英国の支配階級の子弟が多数在学)において,ある少年が労働党に共感しているということで,(他の少年から)ひどい身体的な暴行を加えられたという事件(case)があった(注:いわゆる「いじめ」の問題)。平均的な少年たちと異なる意見や趣味を持っている少年は,(他の少年との違いによって)ひどく苦しむことになりがちである。現存の最も近代的で進歩的な寄宿制(全寮制)の学校においてすら,ボーア戦争の間,ボーア人びいき(の少年たち)(pro-Boers)はつらい目にあった。読書好きな少年や,勉強嫌いでない少年は,必ずといっていいほどいじめられる。
フランスでは,最も頭のよい少年たちは,高等師範学校へ行き,もはや平均的な少年とは交わらなくなる。このようなやりかたには,確かに,いろいろな長所がある。
(第一に)わが国でよく見られるように,知力の高い子供が神経を衰弱させたり,平均的な俗物たち(Philistine)におべっかを言ったりしなくても済むようになる。
(第二に),人気のない少年が味わずにはいられない緊張と不幸を避ける事を回避できる。
(第三に),頭のよい少年たちに,彼らに適した教育,つまり,それほどできない少年たちの場合よりもずっと速いペースで進められる教育を授けることができる。
一方,そういう制度では,知能の高い子供は,後年,社会の他の人びとから孤立してしまい,もしかすると,平均的な人たちを理解しにくくなるおそれがある。こういう短所をはらんでいるにもかかわらず,全体的に見れば,この制度は,特別すぐれた頭脳と特別すぐれた道徳的資質に恵まれた少年たちが,たまたま競技(games)にも秀でている場合は別として,例外なくいじめられるイギリスの上流階級の慣行よりも優れている,と私は考えている。

In the case of sensitive boys, there is a certain risk in leaving them to the exclusive society of other boys. Boys of about twelve are, for the most part, at a rather barbarous and insensitive stage. Quite recently, at a leading public school, there was a case of a boy suffering grave bodily injury for being sympathetic to the Labour Party. Boys who differ from the average in their opinions and tastes are likely to suffer seriously. Even at the most modern and progressive boarding schools in existence, pro-Boers had a bad time during the Boer war. Any boy who is fond of reading, or does not dislike his work, is pretty sure to be illtreated. In France, the cleverest boys go to the Ecole Normale Superieure, and do not mix any longer with the average. This plan certainly has advantages. It prevents the intellectuals from having their nerve broken and becoming sycophants of the average Philistine, as happens to many of them in this country. It avoids the strain and misery which an unpopular boy must suffer. It makes it possible to give to clever boys the kind of teaching which suits them, which goes at a much more rapid pace than is possible for the less intelligent. On the other hand, it isolates the intellectuals from the rest of the community in later life, and makes them, perhaps, less able to understand the average man. In spite of this possible disadvantage, I think it on the whole better than the British upper-class practice of torturing all boys who have exceptional brains or exceptional moral qualities, unless they happen also to be good at games.
offset great advantages.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.17: Day schools and boarding schools.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE17-040.HTM

<寸言>
自分の意見や考えの多くが社会の多数意見と同じ場合は「快適に」世の中を渡っていける。一方そうでない場合はいじめられることが多く、「生き辛く」なる。従って,多くの人は、それを察知し、本能的に多数意見と同じ意見を抱きがちになる。

権力者にとってもそのような状態は「生き辛い」はずであるが、権力者の考えに同調する(権力者の意向を忖度し、権力者の気に入られそうな発言をする)者が多くでてくるので、権力者は「生き辛い」などということはなく、知らず知らずのうちに弱者を無視しても気づかず、「痛みをあまり感じない」人間が少なくない。

世の中はそうなっているので、たとえば、自民党の支持者が多ければ、自然と、自民党の支持者となる人が少なくない(積極的支持ではなく、気にいる政党がないので消去法による支持だと言っている人が多いが・・・。)。

寄宿制(全寮制)の学校の長所を帳消しにする短所

 ・・・。ある意味で,家族は有機的であるが,同質的な個人の集団はそうではない。両親がわが子を愛するのは,主として,彼らが非常に多くの面倒をかけるからである。(一方,)もし両親が子供たちにまったく面倒をかけなければ,子供たちは親のことを真剣に考えなくなるだろう。しかし,親がかける面倒は,正当なものでなければならない。それは,親が自分の仕事をし,自分の生活を営もうとするならば必要であるものだけに限定しなければならない。他人の権利を尊重することは,若い人たちが当然学ばないといけない事柄の一つであり,それは,他のどこにおいてよりも,家族の中において学ぶのが,いっそう容易である。父親がいろんな心配事で悩むこともありうるし,母親が多数かつ多様なこまごましたことで疲れ果ててしまうこともあることを知る(理解)することは,少年少女にとって,良いことである。また,子としての愛情が思春期の間生き生きと保たれるのも,よいことである。家族的な愛情のない世界は,他人にいばり散らそうとし,それに失敗するとへつらいはじめるような人間から成る,ぎすぎすしかつ機械的な世界になりがちであるこういう悪い結果は,ある程度,子供たちを寄宿制(全寮制)の学校に入れることから生み出されるのではないかと思う。そして,こういう悪い結果は,寄宿制(全寮制)の学校の大きな長所を帳消しにしてしまうほど深刻なものだと私はみなしている

it is organic, in a way in which a collection of homogeneous individuals is not. Parents love their children largely because they give so much trouble ; if parents give no trouble to their children, their children will not take them seriously. But the trouble they give must be legitimate ; it must be only such as is necessary if they are to do their work and have any life of their own. Respect for the rights of others is one of the things young people ought to learn, and it is more easily learnt in the family than elsewhere. It is good for boys and girls to know that their father can be harassed by worries and their mother worn out by a multiplicity of details. And it is good that filial affection should remain alive during adolescence. A world without family affection tends to become harsh and mechanical, composed of individuals who try to domineer, but become cringing if they fail. I fear that these bad effects are to a certain extent produced by sending children to boarding schools, and I regard them as sufficiently serious to offset great advantages.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.17: Day schools and boarding schools.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE17-030.HTM

<寸言>
全寮制の学校がその生徒にあっているかどうかは,もちろん、個人によって異なります。しかし,。体や知能だけでなく,精神的にも成長しなければいけない青年期の期間全体を、同質的な人間だけからなる全寮制の学校で長い間(3年以上)過ごすことの弊害も見逃すわけにはいきません
イギリスの全寮制の高校であるイートンハーローをほめたたえる日本人がけっこういます。しかし、ラッセルは、両校での厳しいエリート教育がどのような心性を人間に植え付けてきたか、たとえば、その結果どのような心性や考えを持つ政治家を生んできたかと、その実態を指摘し、規律に厳しい全寮制のエリート教育の弊害を厳しく指摘しています。

熱心に吸収された知識は永遠の所有物となる

 全学年を通じて,知的冒険の感覚がなければならない。生徒たちは,決められた課業(事前に準備された授業内容)を終えたあとは,他人の力を借りないで(独力で)わくわくするものを見つけ出す機会を与えられるべきである。それゆえ,決められた課業は多すぎてはいけない褒める価値があるときには,必ず褒めてあげなければならない。また,誤りは指摘しなければならないが,その場合,非難が含まれていてはならない。生徒(たち)に,決して,自分の頭の悪さを恥ずかしく思うようにさせてはならない。教育において大きな刺激になるのは,(物事は)達成可能だと感じることである。退屈だと感じられるような知識はほとんど役に立たないが,熱心に吸収された知識は永遠の所有物となる。知識の実生活に対する関係を生徒たちによく見えるようにする(可視化する)とともに,知識によって世界を一変させることができることを理解させると良い。教師は,生徒の天敵ではなく,つねに生徒の味方だと思われるようにしよう。幼年期に十分な訓練(good training)が与えられていれば,知識の獲得を大多数の少年少女にとって楽しいものにするには,以上の戒め(precepts 教訓)で十分であろう

Throughout the whole of the school years there should be a sense of intellectual adventure. Pupils should be given the opportunity of finding out exciting things for themselves after their set tasks were done, and therefore the set tasks should not be too heavy. There must be praise whenever it is deserved, and, although mistakes must be pointed out, it should be done without censure. Pupils should never be made to feel ashamed of their stupidity. The great stimulus in education is to feel that achievement is possible. Knowledge which is felt to be boring is of little use, but knowledge which is assimilated eagerly becomes a permanent possession. Let the relation of knowledge to real life be very visible to your pupils, and let them understand how by knowledge the world could be transformed. Let the teacher appear always the ally of the pupil, not his natural enemy. Given a good training in the early years, these precepts will suffice to make the acquisition of knowledge delightful to the great majority of boys and girls.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.16: Last school years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE16-110.HTM

<寸言>
 中学以上になると(大学院まで)、常にできるだけ社会的評価の高い上級の学校にあがるための準備のような詰め込み教育が行われるきらいがある。じっくり考えていると落ちこぼれになるといった強迫観念を与えるかのごとく・・・。

子供に科学的精神を養いたい

 私が言っているのは,こういうことにすぎない。即ち,科学的な精神を養いたい,ということである。著名な科学者も,自分の専門領域以外では,この精神を持っていないものが多い。私は,あらゆる領域にこの精神を広げたい。科学的な精神は,まず,真理を発見したいという願いを要求する。この願いは,強ければ強いほど良い。科学的な精神は,さらに,ある種の知的な良い性質(qualities 特質)を必要とする。まず不確かさがあり,ついで,証拠に基づく決定がなければならない。私たちは,証拠によってこれから証明されることをすでに知っているのだ,などと前もって想像してはならない。(また,)客観的な真理は到達不可能だとか,証拠は全て決定的なものではない(決定的な証拠など一つも存在しない)とか考えるような惰な懐疑主義に満足してはならない。私たちは,最も確かな根拠のある信念ですら,おそらく,いくらかの修正を必要とする,ということを認めなければならない。しかし,真理は,人間が到達可能なものに限れば,程度問題である。(つまり,たとえば)物理学に対する我々の信念は,ガリレオの時代以前よりも,現在確かに誤りがより少ない。児童心理学に関する私たちの信念は,アーノルド博士の信念よりも確かにより真理に近い。どちらの場合も,進歩は,先入観や情熱の代わりに観察を用いることで生じている。最初の不確かさが非常に重要なのは,まさに,こういう前進のためである。それゆえ,このことを教え,さらに,証拠を整理するのに要する技術を教えることが必要になる。敵対する宣伝家たちが,絶えず我々に向かって嘘を燃え立たせ(火炎のようにのように吹き付け),我々に毒薬を飲ませようとしたり,互いに毒ガスで殺しあうように誘っている世界においては,こういう批判的な精神の習慣は,はかり知れないほど重要である。目の前で断定をくりかえされると簡単に信じてしまうのは(軽信は),現代世界の悪弊の一つであり,学校は,それを防ぐために,できることは全てやらなければならない。

What I am saying is no more than this : that I should cultivate the scientific spirit. Many eminent men of science do not have this spirit outside their special province ; I should seek to make it all-pervasive. The scientific spirit demands in the first place a wish to find out the truth ; the more ardent this wish, the better. It involves, in addition, certain intellectual qualities. There must be preliminary uncertainty, and subsequent decision according to the evidence. We must not imagine in advance that we already know what the evidence will prove. Nor must we be content with a lazy scepticism, which regards objective truth as unattainable and all evidence as inconclusive. We should admit that even our best founded beliefs probably stand in need of some correction ; but truth, so far as it is humanly attainable, is a matter of degree. Our beliefs in physics are certainly less false now than they were before the time of Galileo. Our beliefs as to child psychology are certainly nearer to the truth than Dr. Arnold’s were. In each case, the advance has come through substituting observation for preconceptions and passions. It is for the sake of this step that preliminary uncertainty is so important. It is necessary, therefore, to teach this, and also to teach the skill required for marshalling evidence. In a world where rival propagandists are perpetually blazing falsehoods at us, to induce us to poison ourselves with pills or each other with poison gases, this critical habit of mind is enormously important. Ready credulity in the face of repeated assertions is one of the curses of the modern world, and schools should do what they can to guard against it.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.16: Last school years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE16-100.HTM

<寸言>
科学教育以外は,日本の教育においては、「正しい」ことを教えようと思う為政者(教育行政担当者)や教師が少なくない。そういう教育でそだった子どもたち(人間)は,「目の前で断定をくりかえされると簡単に信じてしまう軽信性」を身に着け易い。