科学(の活用)と人類愛 - 科学は「善用」も「誤用」もできる

人間にかかわる他の事柄と同様に,教育においても,進歩への道はただ一つしかなく,それは,即ち,愛に支配された(掌握された)科学である。科学がなければ,愛は無力である。(また)愛がなければ,科学は破壊的なものとなる。・・・中略・・・。

abe_under-control 科学によって現在私たちが手に入れつつある幼児の心を形成する力は,とても恐ろしい力を有しており,致命的な誤用(悪用)の可能性があるものである。もしも,その力が悪人の手に落ちたとしたら,気まぐれな(人間が制御できない)自然界よりもさらに残忍で残酷な世界を生み出すかもしれない。子供たちに宗教や愛国心や勇気,あるいは,共産主義やプロレタリア主義や革命的情熱を教えているとかの見せかけのもとに,子供たちは,頑迷で好戦的で残忍であるように教えこまれるかもしれない。教育は,愛によって鼓舞されなければならず,子供たちの中にある愛を解放することを目指さなければならない。さもなければ,教育は,科学的な技術の進歩とともに,より効果的に有害になっていくであろう(有害さを効率的に増していくだろう)。

子供への愛情は,有効な力として社会の中に存在している。このことは,幼児死亡率の低下や,教育の改善によって示されている。この愛情は,いまなお,あまりにも非力である。そうでないとしたら(子どもたちに対する愛情が強ければ),我が国の政治家たちは,彼らの流血と抑圧という非道な計画のために,無数の子供たちの人生と幸福をあえて犠牲にするようなまねはしないだろう。しかし,子どもへの愛情は,確かに存在しており,また,増しつもある。

aikoku-yochien だが,おかしなことに,別の形の愛情は欠けている。(即ち)子供たちのために面倒(世話)を惜しまない当の人びとが,その同じ子供たちを,大きくなった時に,集団的な狂気にほかならない戦争において死にさらそうとする情熱を育んでいるのである。子供のときから大人になるまで,愛情がしだいに広がっていくように願うのは,あまりにも多くを望むことになるのだろうか? 子供を愛する人びとは,子供が大人になっていく様子を,変わらない親としての配慮をもって見守ることを学ぶであろうか? 子供たちに強い体と活発な精神を与えたあとで,私たちは,彼らがこの強さと活力を使って,より良い世界を創り出せるようにしてあげるだろうか。それとも,彼らがこの仕事にとりかかるとき,私たちは,怖がってしりごみし,彼らを(昔のように)再び,隷属と(軍隊の)教練の中に陥れるのだろうか。

科学は,そのどちらの道にも利用できる。(即ち)愛を選ぶか,憎しみを選ぶか,である。ただし,憎しみは,職業的な道徳家たちが敬意を表しているあらゆる美辞麗句の裏に隠されている

There is only one road to progress, in education as in other human affairs, and that is : Science wielded by love. Without science, love is powerless; without love, science is destructive. …
The power of moulding young minds which science is placing in our possession is a very terrible power, capable of deadly misuse; if it falls into the wrong hands, it may produce a world even more ruthless and cruel than the haphazard world of nature. Children may be taught to be bigoted, bellicose, and brutal, under the pretence that they are being taught religion, patriotism, and courage, or communism, proletarianism, and revolutionary ardour. The teaching must be inspired by love, and must aim at liberating love in the children. If not, it will become more efficiently harmful with every improvement in scientific technique. Love for children exists in the community as an effective force; this is shown by the lowering of the infant death-rate and the improvement of education. It is still far too weak, or our politicians, would not dare to sacrifice the life and happiness of innumerable children to their nefarious schemes of bloodshed and oppression ; but it exists and is increasing. Other forms of love, however, are strangely lacking. The very individuals who lavish care on children cherish passions which expose those same children, in later life, to death in wars which are mere collective insanities. Is it too much to hope that love may gradually be extended from the child to the man he will become? Will the lovers of children learn to follow their later years with something of the same parental solicitude? Having given them strong bodies and vigorous minds, shall we let them use their strength and vigour to create a better world? Or, when they turn to this work, shall we recoil in terror, and plunge them back into slavery and drill? Science is ready for either alternative ; the choice is between love and hate, though hate is disguised beneath all the fine phrases to which professional moralists do homage.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-080.HTM

[寸言]
科学の現代社会に対する影響は非常に大きなものとなっている。しかし、科学は「善用」できるとともに「誤用」の恐れもある。科学は価値や目的については何も語らない。人間が、地球や自分たちのことをどんなにすぐれている(例:神が人間を創造した)と思ったとしても,科学(特に宇宙論)の視点から見れば,地球は宇宙の中のひとつのかけらにすぎず、個々の人間は塵の一つにすぎない。地球が50億年後に太陽に飲み込まれ燃え尽きようとも、それは良いとも悪いとも、何も語らない。

しかし、善い悪いは別にして、我々人類は、自分たちがどうなろうとも(どんなに苦しもうと)たいしたことではないと考えることはできない。これは科学の問題ではなく、我々人類の感情の問題である。

abe_rekisi-netuzo_self-deception 即ち、人間にとって、愛なき科学も、科学(合理的思考)なき愛も、(人類にとって)どちらも危険である。狭量な国家主義の立場に立って、愛国主義を子供たちに吹き込み、子供を国家のためにつくす一兵卒としてはならない。

その人(たとえば政治家)がどのような人間観国家観をもっているかは、教育に対する考え方によく現れる。「正しいこと」を子供に吹き込み、国家(実際は少数支配層)に尽くす国民に育てたいと思うか、「自分の頭で考える」「個性をもった」人間(従って、簡単に代替できない価値をそれぞれが保有している者)を育てたいと思っているかで、その人(政治家)の人間観や国家観を推し量ることができる。
また、「国民のため」「国民の生命を守る」といった言葉を連呼する政治家も自分の子どもに対しては特別な愛情を持っていても、国民一般、あるいは抜きん出た才能を持っている人間以外については、国家のための一つの駒ぐらいにしか考えていないことはよくあることである。