「記述理論」と「タイプ理論」の発見ーあとは『数学原理』を執筆するのみ!

 1905年になって,事態は好転しはじめた。アリスと私は,オックスフォードの近くに住むことを決め,バグレイ・ウッド自分たちの家を建てた。(その当時,そのあたりには一軒も家が建っていなかった。) 私たちは,1905年の春,そこに移り住み,入居してすぐに,私は「記述理論」を発見した。記述理論は,長い間私を困惑させた(私の研究の進展を阻んでいた)諸困難の克服へ向けての第一歩であった。この発見の直後にセオドール・デービスの死があったが,それについては前の方の章で述べている。
Principia_mathematica 1906年に,私は「タイプ理論」を発見した。あとやらなければならないことは,(本として出版するために)詳細に書き上げるだけであった。ホワイトヘッドは学生の教育で忙しく,この機械的な仕事をする十分な時間がなかった。(そこで)私は,1907年から1910年まで,毎日10時間から12時間,毎年約8ヶ月間,この(執筆の)仕事にあたった。原稿(の量)は,しだいに膨大になっていき,散歩に出るたびに,私は,家が火事になって原稿が焼失してしまわないかと,いつも心配になった。その原稿は,当然のこと,タイプライターで打ったり,また複写さえもできない類のものであった(注:ほとんど論理記号の羅列であったため)。原稿ができ上がって,最後にそれをケンブリッジ大学出版部にもっていく時,あまりに膨大なため,運搬用に旧式の四輸馬車を雇わなければならなかった。困難はそれで終わらなかった。大学出版部は,その本の刊行によって(出版に要した費用と売り上げ利益の差は)差し引き600ポンドの損失があるだろうと見積もった。ケンブリッジ大学の特別評議員会の委員たちは,300ポンドの欠損は喜んで負担するが,それ以上大学が負担することはできないだろうと考えた。英国学士院は寛大にも200ポンドを寄付してくれたが,残りの100ポンドば私たち二人で工面しなければならなかった。私たちは,このようにして,10年間の労働によって,一人あたりマイナス50ポンドずつかせぎ出した(注:10年間共同作業をやった結果,利益を得るどころか,一人あたり50ポンドの負債を負うことになってしまったということ。)。これは,ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-1674:イギリスの詩人)のパラダイス・ロスト(失楽園)の記録を破っている。

priniipia_textIn 1905 things began to improve. Alys and I decided to live near Oxford, and built ourselves a house in Bagley Wood. (At that time there was no other house there.) We went to live there in the spring of 1905, and very shortly after we had moved in I discovered my Theory of Descriptions, which was the first step towards overcoming the difficulties which had baffled me for so long. Immediately after this came the death of Theodore Davies, of which I have spoken in an earlier chapter. In 1906 I discovered the Theory of Types. After this it only remained to write the book out. Whitehead’s teaching work left him not enough leisure for this mechanical job. I worked at it from ten to twelve hours a day for about eight months in the year, from 1907 to 1910. The manuscript became more and more vast, and every time that I went out for a walk I used to be afraid that the house would catch fire and the manuscript get burnt up. It was not, of course, the sort of manuscript that could be typed, or even copied. When we finally took it to the University Press, it was so large that we had to hire an old four-wheeler for the purpose. Even then our difficulties were not at an end. The University Press estimated that there would be a loss of £600 on the book, and while the syndics were willing to bear a loss of £300, they did not feel that they could go above this figure. The Royal Society very generously contributed £200, and the remaining £100 we had to find ourselves. We thus earned minus £50 each by ten years’ work. This beats the record of Paradise Lost.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB16-140.HTM

[寸言]
Logicomix_Principia20 「1907年から1910年までの5年間,毎日10時間から12時間,毎年約8ヶ月間、論理記号ばかりの学術書の執筆に専念」なんていう根気や知力は、せちがらい現代の学者・研究者にはとうてい無理であろう。
今はコンピュータを活用でき論理計算の部分は瞬間的に処理可能であるために、ラッセルの知力があれば、5年間を1年間くらいに大幅に時間短縮できるであろう。実際、後の学者がそれを実行して、下記のページにあるように、そのことについて、ラッセルに手紙を出している。
http://russell-j.com/beginner/DBR4-45.HTM 「プリンキピア・マテマティカ 対 コンピュータ」
しかし、勘違いしてはいけないが、重要なのは機械的に論理計算する部分ではなく、問題意識を持つことであり、また、その問題を解くための発想力や創造力である。
(なお、この手紙の主も「博識な人間と賢者とは、必ずしも同一ではないということを示している我々のこの論文の証拠に興味をもたれることと思います」と,ラッセルに敬意を評している。)