我々は感覚の奴隷であり、主体と客体とにわける考え方は間違いか?

McTaggart_John その頃私は,マクタガート(McTaggart, John McTaggart Ellis, 1866-1925,英国の哲学者)とスタウト(Stout, George Frederick, 1860-1944,英国の心理学者・哲学者)によって投げこまれていたドイツ観念論の’湯船(浴槽)‘から抜け出しつつあった。この(脱出)過程において私は,当時頻繁に会っていたムーア(George E. Moore, 1873-1950,英国の哲学者)から非常に助けられた。感覚世界は実在しないと考えたあとで,テーブルや椅子といったような物の実在を再び信ずることができることに,私はひどく興奮した。しかし,(問題のいろいろな側面の内)私にとって最も興味があったのは,論理学の側面であった。‘関係’が実在する(現実的なものである)と考えることは,非常に嬉しいことであった。そうして私は,命題は全て「主語-述語(主辞-賓辞)」からなるという考え方が形而上学の上に及ぼす甚大な影響(結果)を発見することに関心をもった。偶然の事情で,私はライプニッツを読むことになった。というのは,ライプニッツに関する講義はなされなければならなかったが,(担当の)マクタガートはニュージーランドに行きたいと望んでいたので,トリニティ・コレッジは私にこの科目だけマクタガートに代わって担当するよう依頼してきたのである。ライプニッツに関する調査研究と批評の中で,主にムーアの手引きにより,私が導かれた論理学に関する新しい見方を例証する機会を見いだしたのである。

I was at this time beginning to emerge from the bath of German idealism in which I had been plunged by McTaggart and Stout. I was very much assisted in this process by Moore, of whom at that time I saw a great deal. It was an intense excitement, after having supposed the sensible world unreal, to be able to believe again that there really were such things as tables and chairs. But the most interesting aspect of the matter to me was the logical aspect. I was glad to think that relations are real, and I was interested to discover the dire effect upon metaphysics of the belief that all propositions are of the subject-predicate form. Accident led me to read Leibniz, because he had to be lectured upon, and McTaggart wanted to go to New Zealand, so that the College asked me to take his place so far as this one course was concerned. In the study and criticism of Leibniz I found occasion to exemplify the new views on logic to which, largely under Moore’s guidance, I had been led.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-180.HTM

[寸言]
TP-PoM アリストテレル以来大きな進歩がないと当時言われていた論理学に、(フレーゲは別にして)ラッセルが最初に反旗を翻して Rivista di Mathematica 誌(イタリアの雑誌)に発表したのが関係の論理」(The relation of logic, 1900)であった。
http://russell-j.com/cool/ISHI5.HTM
http://russell-j.com/R1-WK-P4.HTM

それに続いて『数学の諸原理』(The Principles of Mathmatics, 1900/『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』とは別の本であることに注意)が出され、それを受けて、ホワイトヘッドとの共著である『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』執筆のための10年に渡る苦闘が始まった。

「(3は2よりも)’より’大きい」,「’より’温かい」,「’より’痛い」という(より~という)「関係」が、それぞれの対象(個物)の属性に含まれている(個物の属性である)ということは信じられない。(個物というものは存在せずに、それらは全体のなかの一部にしかすぎないという一元論的観念論はとうてい是認しがたい。)
もちろん、個物(例:一つの椅子)といっても、それらは原子で構成されており、その原子も原子核と電子でできており、そしてそれはさらに6つのクオーク・・・・、というように、我々が感覚によって認識できる個体とはとても異なったものである。しかし、だからといって、個物はなく全体しか存在しない、といった考え方をまともにとることはできない

TPJ-PoLP ラッセル『哲学の諸問題(哲学入門』(The Problems of Philosophy, 1912)を読み、ラッセルは「主客分離の観点」にたっており浅はかだと非難する哲学者(や哲学者を自称する人々)がいるが(例:西田幾多郎は西洋哲学における主客分離の哲学を否定し・・・、とかいったもの)、それはまとがはずれている(と思われる)。ラッセルは、(一般向けに書いた)この『哲学の諸問題(哲学入門』の不十分なところ『外界の知識』(Our Knolwdge of External World, 1914)で修正しており、認識論中心の『哲学の諸問題(哲学入門)』と異なり、「世界を論理的に構築する」(論理的原子論の哲学)という考え方を示している。(注:より進んだ形のものは、ちくま学芸文庫の一冊として、高村夏輝氏の訳『(ラッセル)論理的原子論の哲学』が出されています。これは一般向けの連続講義を本にしたものなので読みやすいと思われます。なお、ラッセルの哲学の発展について詳しく知りたい方は、高村夏輝・訳のちくま学芸文庫版のラッセル『哲学入門』巻末の解説や三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)等をお読みください。)