論理学は人間の推理の間違いをなくすためには効果的。しかし・・・

SOCRATES 科学的推理はそれが正当であるためには経験によっては確からしいとさえ言えない諸原理を必要とするということは,確率の論理からの不可避の結論である,と私は信じる(注:帰納法の限界及び絶対的真理でないものの確からさは確立が高いか低いかの問題)。それは,経験論(経験主義)にとっては,やっかいな結論である。しかし,私は,この結論は本書(Human Knowledge, 1948)の第二部で行う「知識」の概念の分析によって,もう少し快適な(←味の良い)ものにすることができると考える。「知識」は,私の意見では,一般に考えられているよりずっと不精確な概念であり,大部分の哲学者が進んで認めようとしてきた以上に,言語化されない動物の行動のなかにずっと深く根をおろしているものである。(注:チョムスキーの生成文法の理論に通じるところがある!) 我々の分析が導くところの論理的に基本的な諸仮定は,心理学的には,「ある種の臭いをもったものは食べられる」というような動物に見られる期待の習慣から出発する,一連の長い洗練過程の終端に存在するものである。それゆえ,我々が,科学的推理の要請(基本仮定)を「知っている」かどうかを問うことは,見かけほど確定的な問題ではない。その答は,ある意味では我々は知っており,ある意味では知らない,といったものに違いない。しかし,「知らない」というのが正しい答とするならば,その意味においては,我々は,何であれ何も知らないのであり,この意味では「知識」は幻覚である。哲学者たちが困惑するのは,かなりの程度まで,彼らが幸福な夢から覚めたがらないためである。

That scientific inference requires, for its validity, principles which experience cannot render even probable, is, I believe, an inescapable conclusion from the logic of probability. For empiricism, it is an awkward conclusion. But I think it can be rendered somewhat more palatable by the analysis of the concept of “knowledge” undertaken in Part II . “Knowledge”, in my opinion, is a much less precise concept than is generally thought, and has its roots more deeply embedded in unverbalized animal behaviour than most philosophers have been willing to admit. The logically basic assumptions to which our analysis leads us are psychologically the end of a long series of refinements which start from habits of expectation in animals, such as that what has a certain kind of smell will be good to eat. To ask, therefore, whether we “know” the postulates of scientific inference, is not so definite a question as it seems. The answer must be: in one sense, yes, in another sense, no; but in the sense in which “no” is the right answer we know nothing whatever, and “knowledge” in this sense is a delusive vision. The perplexities of philosophers are due, in a large measure, to their unwillingness to awaken from this blissful dream. From: Human Knowledge, its scope and limits, 1948, introduction. http://russell-j.com/cool/39T-0102.HTM
出典: Human Knowledge, its scope and limits, 1948, introduction.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/39T-0102.HTM

[寸言]
知っていると思っていても、いかに確実な知識と言えるものが少ないことか? そうは言っても、できるだけ間違いを少なくして、確からしい推論をしたい。論理学(記号論理学)は,我々の推論や思考が間違っている場合はそれは間違っているということを示してくれる。しかし、論理学が正しいと言っている(保証する)ものは、A=A(同語反復)ということにすぎず、それ自体は無味乾燥なもので思ったほど実際の役にたたず、論理学だけでは不十分である。人間に役立つ、間違いの少ない科学的な推理を行うための基本的な原理は何だろうか。ラッセルは、そこで、『人間の知識』(みすず書房)において、科学的推理のための5つの公準をあげる。

長くなるのでこれでやめておきます。興味のある方は、みすず書房刊の『人間の知識』を公共図書館で借りてお読みください。なお、ウィキペディアにもこの5つの公準が簡単に紹介されています。『人間の知識』の方を読まないとよくわからないだろうと思われますが・・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB

哲学と科学と神学との関係 - 三すくみ?

sansukumi_3way 我々が「哲学的」(philosophical)と呼んでいるところの,人生や世界に関する諸概念は,2つの要因から産み出されたものである。1つは,過去から受け継がれてきた宗教的,倫理的概念という要因であり,もう1つは,最も広義の意味で「科学的」(scientific)と呼んでよい種類の研究という要因である。個々の哲学者は,これら2つの要因が彼らの哲学体系に入りこむ割合に関して,非常な相違があったが,とにかくなんらかの程度で,この2つがともに存在していることが,哲学を特徴づけているのである。
「哲学」という語は,ある者は広義な意味で,ある者は狭義の意味でというように,これまで多様な意味で使われてきた。私はそれを非常に広い意味で使うことを提案する。これからその説明を試みよう。
私がその言葉で理解したいところの「哲学」は,神学と科学との中間に位置するものである。神学と同様に,哲学も,これまで明確な知識を主張し得なかったような事柄に関する思弁から成り立っている。しかし,また,哲学は、科学と同様に,伝統という権威であれ,啓示という権威であれ,とにかく権威というものに訴えるよりは,人間の理性に訴えるものである。すべての明確な知識は,科学に属すると,私は主張せざるを得ない。明確な知識をこえる事柄に関するすべての独断は,神学に属している。しかし神学と科学との間には,この両方からの攻撃にさらされている未踏の領域がある。この未踏の領域が哲学である。思弁的な人々にとって最も興味ある問題のほとんど全ては,科学が解答を与え得ないようなものであり,神学者たちの自信に満ちた解答というものは,もはや過去何世紀に渡って持ち得たような説得力を有していないように思われる。

The conceptions of life and the world which we call ‘philosophical‘ are a product of two factors: one, inherited religious and ethical conceptions; the other, the sort of investigation which may be called ‘scientific’, using this word in its broadest sense. Individual philosophers have differed widely in regard to the proportions in which these two factors entered into their systems, but it is the presence of both, in some degree, that characterizes philosophy.
‘Philosophy’ is a word which has been used in many ways, some wider, some narrower. I propose to use it in a very wide sense, which I will now try to explain.
Philosophy, as I shall understand the word, is something intermediate between theology and science. Like theology, it consists of speculations on matters as to which definite knowledge has, so far, been unascertainable; but like science, it appeals to human reason rather than to authority, whether that of tradition or that of revelation. All deflnite knowledge- so I should contend- belongs to science; all dogma as to what surpasses definite knowledge belongs to theology. But between theology and science there is a No Man’s Land, exposed to attack from both sides; this No Man’s Land is philosophy. Almost all the questions of most interest to speculative minds are such as science cannot answer, and the confident answers of theologians no longer seem so convincing as they did in former centuries.
出典: A History of Western Philosophy, 1945, Introduction
詳細情報:http://russell-j.com/cool/38T-0101.HTM

[寸言]
あなたの好む哲学の立場や傾向は?

それが何であるかによって、あなたの欲求や思考傾向がわかる。哲学によって倫理的欲求を満たしたい人、たとえ人間に(あるいは自分に)不利であってもこの世の真実について知りたい人(ただし、何の意味もないというのが結論かも知れない)。あるいは、哲学によって実利を得たい人。それから、哲学を人を支配する道具として使いたい人。

あなたは哲学に何を求めますか?!

哲学者は’真空の中’に存在する(時代の影響を受けない)わけではない!

(ラッセル『西洋哲学史』の序文から)

TPJ-ABR3 多くの哲学史が執筆され存在しているが,私の知る限り,そのいずれも,私が自分に課した目的をもっているとは言えない。哲学者は,結果であるとともに原因である。すなわち哲学者は,彼らが生きた時代の社会的環境及び政治や制度の結果であり,また(もし哲学者が幸運に恵まれれば)後世の政治や制度を形成してゆく諸信念の原因となる。大部分の哲学史においては,個々の哲学者は,真空地帯に現われる。各哲学者の意見は,せいぜい先行する哲学者の意見と関連づけられる以外は,まったく他のもの(社会環境その他)と無関係に著者によって述べられてゆく。それに反して,私は,真実の許す限り,各哲学者を彼らが置かれた環境の所産として提示するように試みた。また各人の属する社会というものに,アイマイに拡散した形態で共通している思想や感情が集中し結晶したところの人間として,哲学者を呈示しようと努めた(のである)。

There are many histories of philosophy, but none of them, so far as I know, has quite the purpose that I have set myself. Philosophers are both effects and causes: effects of their social circumstances and of the politics and institutions of their time; causes (if they are fortunate) of beliefs which mould the politics and institutions of later ages. In most histories of philosophy, each philosopher appears as in a vacuum; his opinions are set forth unrelated except, at most, to those of earlier philosophers. I have tried, on the contrary, to exhibit each philosopher, as far as truth permits, as an outcome of his milieu, a man in whom were crystallized and concentrated thoughts and feelings which, in a vague and diffused form, were common to the community of which he was a part.
出典: A History of Western Philosophy, 1945, preface.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/38T-PREF.HTM

[寸言]
個々の哲学者の思想は,その哲学者の思想の発展・展開の歴史の形で,あるいは哲学者間の相互影響という観点で,記述され,説明されることが多い。つまり,固有・特有の時代に生きた一人の人間の思想ではなく,あたかも時代を超えた真空状態で,思想が形成されたかのような記述や説明が多い。個々の哲学者は時代の産物という側面もあるので,時代から影響を受けるとともに,(力のある哲学者の場合は)時代に影響を与えた,というように両側面から見る必要がある,というラッセルの指摘
その思いが『西洋哲学史』として結実し,今でも世界中で読み継がれている。

ラッセルのやり方を気に入らない哲学者や哲学研究者は,ラッセルの哲学史は「読み物」であり,独断的な決め付けが多いと非難するが,無味乾燥かつオリジナリティの乏しい論文を書くことが「学術的」だと考える人は、大学でのみ生き残ることができる。彼らは哲学研究者であっても哲学者ではない,というのは言い過ぎだろうか?

人間の五感がまったく関与しない「客観的な」科学など存在するだろうか?

ANDROMED科学の聖典は -その最も正典として(規準的なものとして)認められた形で- 物理学(生理学を含む)の中に具体的に表現されている。物理学は我々に次のことを保証している。即ち,「対象物の知覚」とは,対象物から出る(始まる)長い因果の連鎖の終端における出来事であり,せいぜい,非常に抽象的な意味で似ていると言えるかもしれないが- 対象物(自体)とは似ているとは思えないものである。我々は, 素朴実在論 -即ち,事物は見える通りのものであるという学説- から出発する。草は緑色をしており,石は固く,雪は冷たいと思っている。しかし,物理学によれば,草の緑,石の固さ,雪の冷たさというものは,われわれが経験から知っている緑や固さや冷たさではなく,それとはずっと異なったものである。観察者は, 自分では石を観察していると思っている時, 実際は -物理学を信ずべきとすれば- 彼自身に対する石の影響を観察しているのである。そうだとすると,科学は,それ自身と戦っているように思われる。つまり,科学は,最大限客観的であろうとする時,意に反して主観に陥ってしまっていることがわかる。素朴実在論から物理学が導かれるが,その物理学に従って考えると,物理学が真なら,素朴実在論は偽だということになる。すると,素朴実在論は,それが真であるなら,同時にそれは偽であるような代物ということになるので,結局,素朴実在論は偽である。ここから考えると,★行動主義者は外的世界について観察を記録していると思っていても,実は,自分自身の中で起っていることを記録しているのである★。

Scientfic scripture, in its most canonical form, is embodied in physics (including physiology). Physics assures us that the occurrences which we call “perceiving objects” are at the end of a long causal chain which starts from the objects, and are not likely to resemble the objects except, at best, in certain very abstract ways. We all start from “naiive realism“, i.e., the doctrine that things are what they seem. We think that grass is green, that stones are hard, and that snow is cold. But physics assures us that the greenness of grass, the hardness of stones, and the coldness of snow, are not the greenness, hardness, and coldness that we know in our own experience, but something very different. The observer, when he seems to himself to be observing a stone, is really, if physics is to be believed, observing the effects of the stone upon himself. Thus science seems to be at war with itself: when it most means to be objective, it finds itself plunged into subjectivity against its will. Naive realism leads to physics, and physics, if true, shows that naive realism is false. Therefore naive realism, if true, is false; therefore it is false. And therefore the behaviourist, when he thinks he is recording observations about the outer world, is really recording observations about what is happening in him.
出典: An Inquiry into Meaning and Truth, 1940,Introduction.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/37T-INTRO02.HTM

[寸言]
外的世界についての観察を(客観的に)記録していると思っていても,実は,自分自身の中で起っていることを記録している」。つまり、「観察者は, 自分では石を観察していると思っている時, 実際は -物理学を信ずべきとすれば- 彼自身に対する石の影響を観察しているのである。」
いや、一人の人間の観察ではなく、非常に多くの人間の観察によっている、と反論する人がいるかも知れない。しかし、その場合でも、やはり、(たとえば、人間よりもっと高等な宇宙人への効果=観察ではなく)、人間に対する効果に基礎をおいていることには代わりはない。
人間の五感がまったく関与しない「客観的な」科学とは何か!? そんなものがあるのだろうか?

ラッセルの「世界五分前創造仮説」

sekai-sozo_gofunnmae 記憶-信念について詳しく調査研究する際に,心に留めておかなければならない要点がいくつかある。第一の要点は,記憶-信念を構成するすべてのものは,いま起こっているのであって,その信念が言及していると言われる過去の時に起こったのではない,ということである。想起される出来事が起こったということは,あるいは,そもそも過去が存在したということでさえ,記憶-信念の存在にとっては論理的に必然的なことではない。世界は五分前に,正確にその時そうあった通りに,まったく実在しない過去を「想起する」全住民とともに,突然存在し始めたという仮説に,いかなる論理的不可能性もない。異なった時に起こる出来事の間には論理的に必然的な関連はない。それゆえ,いま起こっている,あるいは,未来に起こるであろう,いかなることも,世界が五分前に始まったという仮説を反証することはできない。従って,過去の知識とよばれる出来事は,過去とは論理的に独立である。それらの出来事は現在の内容に完全に分析されうるのであり,そしてその現在の内容は,理論的には,かりに過去が存在しなかったとしても,ちょうど現にあるようなものであるかも知れないのである。
私は,過去の非存在をまじめな仮説として受け入れるべきだと示唆しているわけではない。すべての懐疑論的仮説と同じように,それは論理的には主張することができるが,興味のあるものではない。私がしようとしていることは,論理的にそれが主張できるということを,われわれが想起するときに起こることを分析する際の助けとして用いることだけである。

In investigating memory-beliefs, there are certain points which must be borne in mind. In the first place, everything constituting a memory-belief is happening now, not in that past time to which the belief is said to refer. It is not logically necessary to the existence of a memory-belief that the event remembered should have occurred, or even that the past should have existed at all. There is no logical impossibility in the hypothesis that the world sprang into being five minutes ago, exactly as it then was, with a population that “remembered” a wholly unreal past. There is no logically necessary connection between events at different times; therefore nothing that is happening now or will happen in the future can disprove the hypothesis that the world began five minutes ago. Hence the occurrences which are CALLED knowledge of the past are logically independent of the past; they are wholly analysable into present contents, which might, theoretically, be just what they are even if no past had existed.
I am not suggesting that the non-existence of the past should be entertained as a serious hypothesis. Like all sceptical hypotheses, it is logically tenable, but uninteresting. All that I am doing is to use its logical tenability as a help in the analysis of what occurs when we remember.
出典:The Analysis of Mind, 1921, chap. 9:Memory.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/16T-0901.HTM

[寸言]
suzumiya-haruhi_yuutu ラッセルの「世界五分前創造仮説」は、 「涼宮ハルヒの憂鬱」他、内外のSF小説で利用(使用)されています。
ラッセルはこの仮説は論理的に言えること(論理的には重要なこと)であるが、「実際問題として」重要かつ真実であると言っているわけではない、と説明しています。
どうもそこのところを誤解している人がいて、「実際問題として」重要だと(ラッセルは考えていると)主張する人がいます。最近、評論家の保阪正康氏がどこかで(筑摩書房のPR誌『ちくま』だったか?),ラッセルの世界五分前創造仮説はフザケており嫌いだと述べているのを目撃しました(その部分だけ読みました)。
ラッセルの「世界五分前創造仮説」は、人間の思考の特徴や限界を考える上で意義のあるものであり、そういったことに価値を見出さない人の視野の狭さは残念です。

中立一元論の立場-ラッセル『心の分析』(the Analysis of Mind, 1921)

kokoro_no_bunseki 本書(『心の分析』)は,,一見したところ互いに両立しないようにみえるかも知れないが私自身は共鳴点を見出している、心理学における傾向と物理学における傾向という,2つの異なった傾向を調和させようとする試みから産まれたものである。
一方において,多くの心理学者,特に行動主義学派の人々は,形而上学上の問題としてではないとしても,方法上の問題として,本質的に唯物論的立場に属するものを採用しようとする傾向がある。彼らは,心理学をますます生理学や外部の観察に依存させ,そして精神よりも物質をずっと信頼できる,疑うことのできないものであると考える傾向がある。一方,物理学者たち,特にアインシュタインや他の相対性理論の代表者たちは,「物質」をますます物質的ではないものにしてきている。彼らの(考える)世界は「出来事」(events)から成っており,「物質」はそれらから論理的構築によって導きだされるのである。たとえば,エディントン教授の『空間,時間,及び重力』(Space, Time and Gravitation [Cambridge University Press, 1920])を読む者は誰でも,古風な唯物論は現代物理学からは支持を受けられないことが分かるであろう。行動主義者たちの物の見方のなかで永続的価値のあるものは,物理学が現存する最も基本的な科学であるという感情であると私は考える。しかし,もし ―そしてこれが事実だと思われるのだが- 物理学が物質の存在を想定してないのあれば,この立場を唯物論的ということはできない。
心理学の唯物論的傾向を物理学の反唯物論的傾向と調和させることができると私に思われる考えは,ウィリアム・ジェイムズおよびアメリカの新実在論者たちの考えである。これによると,世界を作っている「素材」(stuff)は心的でも物的でもなく,「中性的な素材」であって,両者は(心的なものも物的なものもどちらも)これから構成されるのである。私は本書において,心理学が扱う現象に関して,この考えをある程度まで詳しく述べようと努力した。

This book has grown out of an attempt to harmonize two different tendencies, one in psychology, the other in physics, with both of which I find myself in sympathy, although at first sight they might seem inconsistent. On the one hand, many psychologists, especially those of the behaviourist school, tend to adopt what is essentially a materialistic position, as a matter of method if not of metaphysics. They make psychology increasingly dependent on physiology and external observation, and tend to think of matter as something much more solid and indubitable than mind. Meanwhile the physicists, especially Einstein and other exponents of the theory of relativity, have been making ‘matter’ less and less material. Their world consists of ‘events,’ from which ‘matter’ is derived by a logical construction. Whoever reads, for example, Professor Eddington’s Space, Time and Gravitation (Cambridge University Press, 1920), will see that an old-fashioned materialism can receive no support from modern physics. I think that what has permanent value in the outlook of the behaviourists is the feeling that physics is the most fundamental science at present in existence. But this position cannot be called materialistic, if, as seems to be the case, physics does not assume the existence of matter.
The view that seems to me to reconcile the materialistic tendency of psychology with the anti-materialistic tendency of physics is the view of William James and the American new realists, according to which the ‘stuff’ of the world is neither mental nor material, but a ‘neutral stuff,’ out of which both are constructed. I have endeavoured in this work to develop this view in some detail as regards the phenomena with which psychology is concerned.
出典:The Analysis of Mind, 1921, preface.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/16T-PREF.HTM

[寸言]
br_gendai-tetugaku 1927年に出した『物質の分析』(The Analysis of Matter, 1927)と対をなす著作です。 ラッセルは,1927年に『哲学概論』(An Outline of Philosophy, 1927/邦訳書名は『現代哲学』)を出していますが、これは中立一元論の立場で書かれた哲学の概論書(入門書)です。1912年に出された『哲学の諸問題』(邦訳書名は『哲学入門』)とは、考え方がかなり変化していることに注意する必要があります。それについては、ちくま文庫版の邦訳書の高村夏輝氏の詳細な解説を参照してください。)

哲学研究の動機?ーホワイトヘッドが哲学に求めたもの

WHITE-HD 第一次世界大戦の最後の数ケ月の間に、当時18歳になったばかりの彼(ホワイトヘッド)の下の息子(次男)が戦死した。これは彼にとって耐え難い深い悲しみであり、彼が自分の仕事を続けることができたのは、彼の道徳規律(精神的抑制)の非常な努力があってこそ可能なことであった。息子を失った苦痛は、彼の思想を哲学に向けさせ、単なる機械論的な宇宙を信ずることから抜け出す道を探求させることに、非常に大きな関係があった。彼の哲学は非常にわかりにくく(明瞭ではなく)、私がどうしても理解できないことが多くあった。彼はつねにカントに傾いていたが、私はカントをよく思っていなかった。そうして、彼が独自の哲学を展開しはじめるにあたって、ベルグソンの影響をかなり受けた。彼は、宇宙における統一の様相に印象づけられており、この統一の様相があるからこそ科学的推論が正当化されると考えていた。私の気質からして、私はホワイトヘッドと正反対の方向に進んだが、(カントの)純粋理性’がはたして私たち2人のうちどちらがより正しいか決めることができたか、私は疑わしく思う。ホワイトヘッドの物の見方を好む人々は、彼が普通の人に慰めをもたらそうとしたが、私は哲学者に不快をもたらそうとした、と言うかもしれない。私の見解に好意をもつ人々は、カントは哲学者を喜ばせたが、私は普通の人を楽しませたと言い返すかもしれない。しかしそれはどうであれ、お互いの情愛は最後まで変わらなかったが、私たちは別々の道を歩んだ。

In the last months of the war his younger son, who was only just eighteen, was killed. This was an appalling grief to him, and it was only by an immense effort of moral discipline that he was able to go on with his work. The pain of this loss had a great deal to do with turning his thoughts to philosophy and with causing him to seek ways of escaping from belief in a merely mechanistic universe. His philosophy was very obscure, and there was much in it that I never succeeded in understanding. He had always had a leaning towards Kant, of whom I thought ill, and when he began to develop his own philosophy he was considerably influenced by Bergson. He was impressed by the aspect of unity in the universe, and considered that it is only through this aspect that scientific inferences can be justified. My temperament led me in the opposite direction, but I doubt whether pure reason could have decided which of us was more nearly in the right. Those who prefer his outlook might say that while he aimed at bringing comfort to plain people I aimed at bringing discomfort to philosophers; one who favoured my outlook might retort that while he pleased the philosophers, I amused the plain people. However that may be, we went our separate ways, though affection survived to the last.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-080.HTM

[寸言]
 個々の哲学者がどのような哲学的見解(哲学観や世界観)を持つようになるか。単なる知的興味(や真理探求の欲求)ではなく、その哲学者に大きな影響を与えた出来事が原因している場合がある。ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead、1861 –1947)が機会論的な宇宙観に我慢できなかったのは、第一次世界大戦で次男を失ったつらい経験が影響していると思われるというラッセルの指摘。

 

哲学における倫理的中立性の重要性

iromegane_de_sekaiwomiru 哲学において,倫理的中立性はこれまでめったに追求されず、またほとんど達成されてこなかった。人々は自分たちの望みを思い出し,それと関連させて諸哲学(=哲学者たち)を評価してきた。善悪の観念が世界を理解する鍵を与えてくれるにちがいないという信念は,個別科学の世界から追い出されると,哲学に避難所を求めるようになった。しかし,この最後の避難所からさえも,もしいつまでも哲学が’心地よい夢の集合’であってはならないと考えるならば,この信念は追い出されなければならない。
幸福は,それを直接追いかける人たちによっては最もよく手に入れられるものではない,とはよく言われることである。,これは,についても真理であると思われる。ともかく,思想においても,善悪を忘れて事実だけを知ろう求める人たちのほうが,世界を自分の望みという歪んだ媒介物を通して眺める人たちよりも,より善を実現する見込みがありそうである。(写真:色眼鏡で世界を見ないように!?)

In philosophy, hitherto, ethical neutrality has been seldom sought and hardly ever achieved. Men have remembered their wishes, and have judged philosophies in relation to their wishes. Driven from the particular sciences, the belief that the notions of good and evil must afford a key to the understanding of the world has sought a refuge in philosophy. But even from this last refuge, if philosophy is not to remain a set of pleasing dreams, this belief must be driven forth.
It is a commonplace that happiness is not best achieved by those who seek it directly; and it would seem that the same is true of the good. In thought, at any rate, those who forget good and evil and seek only to know the facts are more likely to achieve good than those who view the world through the distorting medium of their own desires.
出典: Our Knowledge of the External World, 1914, chap. 1)
詳細情報:http://russell-j.com/R601.HTM

[寸言]
哲学はいろんな意味で使われており,立場によってまったく違う容貌をもっています。ここでは,あくまでも「理論」哲学のことを言っており,人生観や世界観や通俗哲学(経営の哲学とか,あらゆるものに冠せられる◯◯の哲学)や社会哲学等は対象外です。
日本でも理論哲学は育ってきていると思われますが,巷でよく売れている哲学の本の大部分は,理論哲学というよりも,独仏の観念論や倫理哲学や社会哲学といったものが大部分です。日本の書店はそういった本であふれているために,多くの人が哲学に対して間違ったイメージを持ってしまっていると思われますが,いかがでしょうか? また,英語圏では分析哲学が主流で,特に英米では哲学と言ったら分析哲学のことを指し,大学の哲学の教科書の7割くらいが分析哲学関係のものだそうですが,日本の哲学者や哲学好きな読者はどれだけそういった事実をご存知でしょうか?

哲学の価値 - 独断論を廃し普段なれ親しんでいるものを・・・

TPJ-PP5 (今回は、松下訳ではなく、生松敬三氏の訳を掲載します。)

哲学の価値は,実際上,多くはまさにその不確実性のなかに求めるべきものである。哲学の素養のない人は,常識,あるいは年齢または国籍による習慣的信念,あるいは慎重な理性の協力または同意なしに自分の心に生い育ってきた確信等に由来する偏見にとらわれて生涯を送る。そのような人にとっては,世界は明確で有限で明白なものとなってしまい易い(く),ありふれた対象は問題を呼び起こすことなく,未知の可能性は軽蔑的に拒否される。ところが反対に,我々が哲学的思索を始めるや否や,始めの方の諸章で見たように,我々はごく日常的な事物でも極めて不完全な答えしか与えられないような諸問題に導いてゆくものであることを知るのである。哲学は,それが提出する疑問に対して真の答えが何であるかを確実性をもって教えることはできないが,我々の思考を拡大し,習慣の専制から思考を解放する多くの可能性を示唆することはできる。従って,事物が何であるかということについて,我々の確実性の感じを低減させるのではあるが,事物がなんでありうるかという知識は大いに増大させてくれる。それは人を自由にする懐疑の領域に足を踏み入れたことのない人々のいささか尊大な独断論を除去し,普段なれ親しんでいるものを見慣れない相貌において示すことによって,我々の驚異感を生き生きと維持してくれる。

The value of philosophy is, in fact, to be sought largely in its very uncertainty. The man who has no tincture of philosophy goes through life imprisoned in the prejudices derived from common sense, from the habitual beliefs of his age or his nation,and from convictions which have grown up in his mind without the co-operation or consent of his deliberate reason. To such a man the world tends to become definite,finite,obvious; common objects rouse no questions,and unfamiliar possibilities are contemptuously rejected. As soon as we begin to philosophize,on the contrary,we find,as we saw in our opening chapters,that even the most everyday things lead to problems to which only very incomplete answers can be given. Philosophy,though unable to tell us with certainty what is the true answer to the doubts which it raises,is able to suggest many possibilities which enlarge our thoughts and free them from the tyranny of custom. Thus,while diminishing our feeling of certainty as to what things are,it greatly increases our knowledge as to what they may be; it removes the somewhat arrogant dogmatism of those who have never travelled into the region of liberating doubt,and it keeps alive our sense of wonder by showing familiar things in an unfamiliar aspect.
出典: The Problems of Philosophy, chap. 15(1912)
詳細情報:http://russell-j.com/R601.HTM

[寸言]
「自分の頭で考えることがめんどくさい」と思う人が多い。自分の頭で考えるためには,不明な点はいろいろ自分で調べたり,(飛躍なしに)論理的に考える必要がありますが,現代人は多忙だったり,多忙でなくても,他のもっと楽しいことに時間を使いたいと思う人が多い

誰も疑うことができないほどの確実な知識?

BR-REVRS 理性的な人間なら誰も疑うことができないほどの確実な知識というものが,この世にあるであろうか。この問いは,一見難しくないように思われるかもしれないが,実は,あらゆる問いのなかで最も困難な問いの一つである。この問いに真っ向から,確信のある答えを得ようとする途上でぶつかるさまざまな障害に気がついたら,われわれは立派に哲学の研究をはじめていることになる--なぜなら,哲学とはそういう究極的な問いに答えようとする試みにほかならず,(哲学とは)日常生活において,さらには科学においてさえやるように,不注意に独断的な仕方によって答えるのではなく,その問題を紛糾させわからなくしているすべての事情をしらべ,我々の日常的観念のうちにひそんでいるすべてのあいまいさや混乱を自覚したのちに,批判的に答えようとする試みだからである。

Is there any knowledge in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it? This question, which at first sight might not seem difficult, is really one of the most difficult that can be asked. When we have realized the obstacles in the way of a straightforward and confident answer, we shall be well launched on the study of philosophy — for philosophy is merely the attempt to answer such ultimate questions, not carelessly and dogmatically, as we do in ordinary life and even in the sciences, but critically after exploring all that makes such questions puzzling, and after realizing all the vagueness and confusion that underlie our ordinary ideas.
出典: The Problems of Philosophy, chap. 1 (1912)

[寸言]
何を,どういったことを「あいまい」とかんがえるか,「あいまいさ」の自覚」は人によって異なる。日常言語があいまいだからということで,日本人なら日本語の分析を,英語国民なら英語の分析をしてあいまいさをなくす努力をするだけで,それが哲学的営為だとする哲学者(グループ)もある。しかし,それは出発点(基礎作業)にすぎない。そういった人は,ウィトゲンシュタイン礼賛者に多い?