時々のチャリティー・ショーでは世界は救われない! On charity

Socrates 知的な人間の道徳感情において、いわゆる「慈善」(チャリティー)に関してほど変化したものは他にない。乞食の窮乏状態が偽りないものであれば、乞食にお金をめぐむこと(喜捨)を拒否することは困難であるが、喜捨の行為は心地よいものではなく、また赤面を引き起こしがちである。つまり、そこには不可避的に、誰もが物乞いをする必要がないように社会は作られていなければならない、といった反省がある。(従って、)喜捨をすることによって自己満足を感ずるどころか、自分たちは他人をこのような窮乏と屈辱的な状態にしてしまう体制で利益を得ていると感じて、社会的良心が痛むのを感じる。

There are few ways in which the moral sentiments of intelligent people have changed more than as regards what is called ‘charity’. It is difficult to refuse money to a beggar if his need seems genuine, but the act of giving is uncomfortable and inclined to cause a blush: there is inevitably the reflection that society ought to be so organized as to make it unnecessary for anyone to beg. So far from feeling self-satisfied because of giving, we feel our social conscience pricked because we profit by a system which reduces others to such want and humiliation.
出典:Bertrand Russell: On charity,Nov. 2, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:http://russell-j.com/CHARITY.HTM

[寸言]
機会の均等」という謳い文句に安住してはならない。スタート地点に大きな差がある以上,「機会の均等」は最初から存在していない。今富んでいる人は努力した人(あるいは先祖が努力した人)だという都合のよい前提では,社会的弱者を救うことはできないし,そういった人々に対し説得力をもたない。

問題は,富(国民のすべての財産や総所得)の分配あるいは再分配の問題ではないか? 企業であれば(企業としての成長の糧は別にしておくとして,それ以外は)利益を社員にどのように分配するか,国家であれば税金をどのような割合で国民から徴収し,社会の進歩のためにどのようにお金を使うか,また困った人々(社会的弱者・経済的弱者)のためにどのようにお金を使うかという問題,,つまり,国の財産や国民総所得をどのように国民に使うか,また分配するかという問題に帰するのではないか?

最低賃金が低かったり,生活保護の水準が低かったり,生活保護を受ける資格がありながらいろいろな制約や障害から受給できていないとう状況に対してどのような手を打つか? 生活保護費をだまし取る一部の不心得者をなくすためという口実で,生活保護の認定を必要以上に厳しくしたりしているが,結局は弱者を堂々いじめることができる(弱い者いじめのための)「免罪符」として使っていないか?
現代においては,困窮する人々の問題は,社会の富の分配のあり方が適切でないところから生じているのであり,そのような社会制度や社会体制の問題を棚上げにして,時々「24時間愛は地球を救う」といったような番組を放送して気分を高揚させていい気持ちになっているのは,偽善ではないか? そういた番組をやらないよりやったほうがよいと安易に考えていないか? そういったショーをやり高揚感が得られれば普段は社会的弱者のことは忘れていられる,という隠れた気持ちがありはしないか?
時々の慈善ショーではだめだと考える人は,やはり社会制度の根本的な改革が必要だと考えるはずだが・・・?

より狂暴なものを望む人々を満足させること to satisfy those who want something more tigerish

gca_jolly しかし,私が激しい情動を好まないとか,情動以外の何かが行為の原因たり得ると考えている,とされているのならば,私はそういう告発を断固拒否する。私の期待する世界は,情動は強くても破壊的ではない世界,また,情動が情動として認められているので,それが自己をも他人をも欺くことにはならない世界である。そのような世界には,愛と友情があろうし,芸術や知識の追求が所を得るであろう。私には,より狂暴なものを望むひとびとを,満足させることはできそうにない。

But if it is supposed that I dislike strong emotion, or that I think anything except emotion can be a cause of action, then I most emphatically deny the charge. The world that I should wish to see is one where emotions are strong but not destructive, and where, because they are acknowledged, they lead to no deception either of oneself or of others. Such a world would include love and friendship and the pursuit of art and knowledge. I cannot hope to satisfy those who want something more tigerish.
出典:Human Society in Ethics and Politics, 1954, Preface
詳細情報:http://russell-j.com/cool/47T-PREF.HTM

[寸言]
より狂暴なものを望む人々っていうのは,具体的にはどんな人だろうか?
たとえば,橋本(徹)とか、石原(慎太郎)とか、百田(尚樹)とか,いっぱいいますね。こういった人たちは「他人を罵倒すること」を商売としているような感じでわかりやすいですが、もっと危険なのは、(悪いことを隠すために、わざと)良いことしか言わない人々(安倍総理その他大勢)かも知れないですね。

国民の生命を絶対守る(本音:無人島であれ他国による侵害は1ミリたりとも許さない、そのためには自衛官が多少死ぬこともやむえない)

安価な電源(ベース電源)を確保する、アベノミクスの成功のためには原発の維持は絶対必要、世界一の安全基準により・・・(本音:万一大事故がおこったら政府が責任を持つと言えばよい → 謝罪のために為政者の個人的なお金を費やすのではなくあくまでも税金(血税!)をできるだけ支出すると言っているだけ/有事の時には、大量のプルトニウムで核兵器を作ることができる;いざという時には作ることができる「可能性」だけでも,安全保障面で有効だ!)

国に殉じた人を「英霊の御霊に(えいれいのみたまに)・・・」とか呪文のように言えばどんな非難もかわすことができる。外国人によって殺された日本人より、外国人を殺した日本人(兵隊)のほうがずっと多くても数字を言わなければ誤魔化せる(戦争の実相・実態を隠そうとする政治家たち/本音:もしまた他国と軍事衝突が起こった場合には,死ぬことをおそれずに戦う自衛官=軍人が多数いないといけない。戦時において敵=外国人を殺すことは悪いことではない、いや善いことだ,という「錯覚」を持ってもらう必要がある。経済格差は貧しい人たちを自衛隊にいれさせるためには効果的だ)。

ラッセル曰く:
・「超大国(強国)は,今のところ,その気になればいつでも,他の(弱小の)国々の成員を殺す特権を持っている。この自由(人を殺す特権)は,正義と公正を守るために死ぬ英雄的特権として★偽装★させられている。」
・「愛国者は,国(祖国)のために死ぬとは言うが,国(祖国)のために外国人を殺すとは言わない。」

最善の人生-創造的衝動が所有衝動に勝る人生

GREEDY-S 最善の人生とは、創造的衝動が最大限に発揮され、所有衝動が最小限に現れる人生です。

The best life is the one in which the creative impulses play the
largest part and the possessive imuplses the smallest.
出典:Political Ideals, 1917, chap.1
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/2-IMPULS.HTM

[寸言]
所有衝動(所有欲)を最大限に発揮することが善い人生だと考える人間が少なくない世の中。また,(有権者の)所有欲や偏見・先入観に訴える政治家たち。

多くの偉人に見られる残酷的な要素 the happiness of the pig

Pig_roast 明らかにナポレオンが若い時に貧困のため屈辱を受けていなければ,あれほど俗物的にも,好戦的にもならなかったと思われる。ナポレオンが豚の幸福に満足するように導かれていたら,人類にとって幸いだったであろう。多くの偉人の理論と実践(実践と理論)に見られる残酷的な要素は,彼らの生涯(経歴)が,彼らには自覚されないが,若い時になめた不幸に対する世間への復讐に他ならぬという事実に,帰することができる。

Certainly Napoleon would have been neither so snobbish nor so bellicose if he had not in his youth suffered humiliation through poverty. If Napoleon could have been induced to be satisfied with the happiness of the pig, it would have been well for mankind. The element of cruelty in both the practice and the theory of many great men is attributable to the fact that their career, unconsciously to themselves, is their revenge upon the world for what it made them suffer in youth. 出典:hould children be happy? June 1932.
詳細情報:http://russell-j.com/CHILDHAP.HTM

ドンファン・タイプの男はマザー・コンプレックスの犠牲者

shohousen ドンファン・タイプの男(Don Juan type)は,自分では非常に男らしいと信じているが,実際はマザー・コンプレックスの犠牲者である。子どもは通例,母親のすべてを知ってはおらず,母親は大人の関心事を子どもには知らせないようにする。それゆえに,子供は(母親について)自分に献身的で,子ども抜きの生活は持たず,人間生活に不可欠な自我(エゴ)の中心が欠けている女性という概念を持つことになる。

The Don Juan type, while it believes itself very manly, is really the victim of a mother complex. Children do not know their mother as a rule at all completely – their mothers keep their adult concerns away from the children’s notice. Children thus get a conception of a woman wholly devoted to them, having no life apart from them, destitute of that core of egoism without which life is impossible.
出典:Our Woman Haters, May 25, 1932. In:Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:http://russell-j.com/HATE-W.HTM

立場の違いが際立つ,科学者と芸術家

JUSHO 科学者(政治的な)同志を必要としない。同僚(研究競争相手)を除いて、すべての人から良く思われているからである。これに反して、芸術家は、軽蔑されるかあるいは卑屈になるか、いずれかを選ばなければならない、という辛い立場に置かれる。彼の才能が第一級であれば、これらの不運のどちらかを必ず招くことになる。才能を発揮すれば前者を招き、発揮しなければ後者を招く

The man of science has no need of a coterie, since he is thought well of by everybody except his colleagues. The artist, on the contrary, is in the painful situation of having to choose between being despised and being despicable. If his powers are of the first order, he must incur one or the other of these misfortunes – the former if he uses his powers, the latter if he does not.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 10: Is Happiness Still Possible?
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA21-020.HTM

[寸言]
ここでいう「科学者」は,現代においては,少し限定して考えたほうがよいかも知れません。現代においては,大量の科学技術労働者が存在しており,ビッグサイエンスの場合は大規模な資金の獲得が重要ですので、(資金獲得競争において)政治的になる科学者も出てきます。
また,時の政府や権力者の御用科学者は,持ち上げられることはあっても,「尊敬」されることはそれほど多くはないと思われます。ノーベル賞級の科学者でさえ,功をあせって,研究不正にあまり頓着しないほどですので・・・。

科学者は仕事の上で幸福なので複雑な感情を持つ必要がない?

DOKUSHO2-300x372 科学者仕事の上で幸福であるが、その理由は、現代世界において科学は進歩的かつ強力であり、またその重要性は科学者自身にも一般人にも全く疑われていないからである。それゆえ--単純な感情は、障害物にぶちあたることがまったくないので--、科学者は複雑な感情を持つ必要がない。

In their work they are happy because in the modern world science is progressive and powerful, and because its importance is not doubted either by themselves or by laymen. They have therefore no necessity for complex emotions, since the simpler emotions meet with no obstacles.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 10: Is Happiness Still Possible?
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA21-020.HTM

[寸言]
このように言われると,自分の思想や感情はそんなに単純ではないと反発を覚える科学者がいるかも知れませんが、あくまでも他の職業や人文社会科科学者に比べて,相対的にそうだと言っており、あたっているでしょう。
れから、現代では,サラリーマンとしての科学技術労働者が膨大な数にのぼっていますので,ラッセルが「科学者」という言葉でイメージするものと,現代人がその言葉でイメージする内容はかなり異なっているかもしれません。

「素直でない」子供 = 大人が扱いにくい子供

gca_nincompoop 何らかの価値ある仕事を成し遂げる大人は、子供の頃ほとんど’協力的’ではない。一般的に言って、彼らは孤独を愛し、本を抱えて教室の片隅にこっそり移動し、野蛮な仲間(同時代人)の目を逃れることができた時が一番幸せな時であった。芸術家、作家、科学者として傑出した人たちのほとんどは、子供の頃、仲間の嘲笑と軽蔑の的(対象)であり、教師にとっては生徒が風変わりでは扱いにくかったので、残念ながらしばしば、教師も生徒集団(群衆)の味方をする場合が多かった。
出典:Of co-operation, May 18, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:http://russell-j.com/KYORYOKU.HTM

Adults who achieve anything of value have seldom been ‘co-operative’ children. As a rule, they have liked solitude: they have tried to slink into a corner with a book and have been happiest when they could escape the notice of their barbarian contemporaries. Almost all men who have been distinguished as artists, writers or men of science have in boyhood been objects of derision and contempt to their schoolfellows; and only too often the teachers have sided with the herd, because it annoyed them that a boy should be odd.

[寸言]
力がある者はたたいてもいずれ台頭してきて成功するから厳しくしてもよいのだと思う人が少なくないかもしれない。しかし,ラッセルが「天才について」で言っている次の言葉をよく味わったほうがよいであろう。

「天才はつねに自分の道を切り開く’という,耳に心地よい説があるが,この説に力を得て,若い才能を迫害してもそれほど害にならないと,多くの人が考えている。・・・。
 私たちが見聞している天才は,すべて逆境にうち勝っているが,若くして挫折した天才は,(過去)非常に多数は存在しなかった,と想定すべき理由はまったくない。」 

 ’協力の美徳’ = 服従の美徳’!? / 反抗的だ! = 非協力的だ!

VIRTUE 今日では、民主主義の影響の下、’協力の美徳’が’服従の美徳’が以前確保していた場所を代わりに占めている。昔流儀の男性教師ならば、少年に対し’あなたは反抗的だ(素直でない)’と言うだろうが、現代の女性教師(注:1930年当時)なら、幼い生徒に対し’あなたは非協力的だ‘と言うだろう。両者は同じことを意味している

In these days, under the influence of democracy, the virtue of co-operation has taken the place formerly held by obedience. The old-fashioned schoolmaster would say of a boy that he was disobedient; the modern schoolmistress says of an infant that he is non-co-operative. It means the same thing:
出典:Of co-operation, May 18,  1932.   In: Mortals and Others,  v. 1(1975)
詳細情報:http://russell-j.com/KYORYOKU.HTM

[寸言]
 民主主義の名を借りた横暴。多数決(単純な過半数)で決めてよいことと,よくないことがある。全体の4/5が賛成すれば1/5を搾取する体制をつくってよいということにはならない。麻生元首相が(ヒトラーのやり口をまねるとよいと)いみじくも言ったように,ヒトラーが政権をとったのも,多数決という民主主義的な手続きをとったものであり,国民(が選んだ代議士)が選んだものである。今の日本の国会も同様の状況にある。

「国民大衆は,小さな嘘よりも,大きな嘘の犠牲に容易になるものである。」(出典:ヒトラー『わが闘争』

 多数決の原理は,あくまでも少数意見を尊重することにある。ポーズだけ,意見を聞いたことにして,多数の原理でどんどん決めていけば,いずれ国民も後悔する時がくるであろう。

教育においても,同じこと。生徒が. 多様な意見を持つことは奨励されるべきことであるが,現実には「協力の美徳」が強調されすぎるきらいがないか? できるだけ効率的に,「国民として」必要な知識や技術を詰め込もうとしようとすれば・・・。

物の見方や感受性の変化、及びその得失

hamsters 多くの価値ある情緒や重要な思考は,長い静かな時間の結果としてのみ生まれてくる。過去の情緒的及び哲学的な物の見方にあったこの要素は,今や滅びつつある。
一方,過去において倦怠感と耐え難い単調さが生み出した残虐と狂気もまた,減少しつつある。従って,差し引きの結果,多分,得る方が勝っているだろう。
 けれども,事情がどうであろうとも,この物の見方の変化(や心理的変化)は明らかに深刻であり,また今後も進展するだろう。

Many valuable emotions, and much important thinking, can only grow up as the result of long periods of quiet. These elements in the emotional and philosophical outlook of the past are now decaying.
On the other hand, the cruelty and madness which in former ages were generated by boredom and unendurable monotony are also growing less. Perhaps therefore there is gain on the balance. However that may be, the mental change is certainly profound, and still only half completed.
出典:On locomotions, Mar. 11, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1957)
詳細情報:http://russell-j.com/IDO.HTM

[寸言]
早く結果を出すことばかり考える人間を大量生産しようという現代教育のありかた(たとえば,文科省から国立大学に最近出された通達)。成果主義,競争礼賛,格差の拡大への無関心,他者の痛みに対する無感覚

もちろん,昔に比べて改善されたものも多い。残酷さに対する無感覚は世界的に減りつつあり、人口問題や環境問題を解決できれば、世界がより豊かに暮らせるようになる「可能性」は高まっている。

しかし,気になるのは,経済成長のために現在行われている諸施策がますます格差(経済格差,教育格差, 非正規労働者の増加,その他いろいろ)を生み出していくことはほぼ確実だと思われるのに,為政者は知らない素振り