三浦俊彦による書評

小倉脩三『夏目漱石 -ウィリアム・ジェームズ受容の周辺』(有精堂)

*『比較文学』第32巻(1990年3月刊)掲載


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 日本の文学者が欧米の哲学・思想にインスピレーションを求めるということは、近代以降たえず繰り返されてきた。ただ、情報過多の現代に比べて、ビッグネームが二・三に絞られ、受容も作家自身が原典を丁寧にあたっていく他なかった明治・大正期の状況は、特定の作家への特定の思想家の影響ということを明確に論じやすい(し、また論ずるべき)状況であると言える。本書にふんだんに引用されている諸論考をみても、例えばこの漱石に対するジェームズの関係というのも、問題のありかがきわめて明らかな、確固たる論題となっていることがわかる。
 本書は、発表時期のまちまちな九つの論文から成る。が、そのうち二編は書きおろしで、短い「補説」なども書き足され、全体の論旨が整然と通じるよう配慮されている。九編のうち、漱石へのジェームズの影響を主題的に論じているのは五編である。
 まず、本書全体を概括した「序にかえて」。漱石のジェームズ、受容の第一期というべき『心理学原理』『宗教的経験の諸相』との関わりを「文芸の哲学的基礎」「創作家の態度」に明示された方法意識にあとづけ、受容第二期である『多元的宇宙』との関わりを「思ひ出す事など」に探るわけだが、いずれの場合も漱石は、ジェームズの基本的な「意識の流れ」説を受けいれつつ、意識を超えた無意識領域にジェームズが認める大いなるもの(神)を一貫して拒否した、という観察が述べられる。よって漱石は主知主義的にとどまりながら、個的意識を超える領域を理解しそこに安心して身をよせることができないがゆえに、彼の文学には無意識的要素が「はかり知れない恐ろしさ」を孕んで潜んでいるという。漱石論の常識を確認したものといえようが、彼の作品に感知できるあの乾いた中にも暗く深い翳を蔵した複雑な性格を、心理学・形而上学との関わりから説明するものとして、納得のゆく見方である。漱石は、科学者ジェームズの心理学説に共感するとともに、宗教者ジェームズの形而上学を斥けつつその洞察を恐れてもいたというわけだ。ジェームズ受容第一期を、二つの講演と『坑夫』に探り、論じたのが第一・二・三章である。第一章の主題は、『坑夫』の特異な心理描写の背景となっているのが、ジェームズの『心理学原理』であったのかそれとも『宗教的経験の諸相』であったのかということである。重松泰雄氏の論考を引用しつつそれに反対して、著者は、『坑夫』は依然『原理』の主たる影響下にとどまっていると解釈する。実をいえば評者には一見、これはどちらでもよい問題のように思われた。しかし読んでいくと、ここにはいくつかの他の問いが絡んでいることが察せられた。まず、ジェームズ解釈そのものにまつわる問題(「原理」にはすでに「諸相」の本質的思想が多く含まれていたのではないかという問題)。また、漱石のジェームズ受容が、『坑夫』の段階でどこまで成熟していたかという問題(著者によれば、『坑夫』はジェームズ理解が熟さない段階で方法的適用だけが「木に竹をつぐ不自然さ」でなされた、「実験的」作品にすぎない)。しかしいずれにしても、『坑夫』という世界の解釈自体にこうした考察がどれほど意義あるものかということは、『坑夫』に捧げられた一・三章を読みおえたあとでも一概に納得しがたい気がした。本書の諸論文は全般に、ジェームズ受容を枕にしながらあくまで基本は作品論に据えられているので、影響関係の吟味に終始したとくに一・二章が全体から浮いた印象が否めなかったということもある。ただ第三章で、次のような結論に至る論証は、本書中最も明断であり、作品論として興味深いものを含んでいると感じた。「『坑夫』という作品は、急に作品を書かなければならなくなった状況下で、当時、たまたま作者自身の心にうっ積していた煩わしい現実脱出の願望と、大いなる関心を寄せつつあったジェームズの思想と、きわめて即席の結びつけによって成立った作品であったと思う。ジェームズの未消化状態をうらづけるのは、語り手の心境として語られる、作者の肉声といってよいモチーフの表出部分と、ジェームズを引用して綴られるストーリー部分との分離分裂である。」(九八頁)小気味よい論証の過程を紹介する余裕がないのが残念だが、こうした『坑夫』観に至る著者の論理には、評者は全面的に賛成である(ただし、結論が『坑夫』という作品への価値判断-とくに否定的な-を含んでいないという条件つきで)。
 第七章は、漱石のジェームズ受容第二期の頂点をなす、『彼岸過迄』と『多元的宇宙』との関係を論じている。個人の生の流れが孤立した多元の宇宙を形づくり、それが全て大いなる存在の中に包摂される、というジェームズの宇宙観から「大いなる存在」を剥ぎとり、「さまざまな人物の多元な生の流れを、多元なまま、敬太郎を視点に相対化した世界」(一八八頁)が『彼岸過迄』だというのだが、これについては、例えば本書が論及していない最近の見解では、「『彼岸過迄』における漱石の主意は多元を多元のままに打ち出そうとするところにはなかった・・・人物構造からみても、この作品は端的に言って<一峰>型の作品であり、けっして<多峰>型、<複峰>型のそれではない」とし<主峰>は須永市蔵だとするものもあり(重松泰雄「<趣向>としての須永市蔵」『文学』一九八九年一月号)、論議はまだまだ続くところであろう。ただ、『彼岸過迄』の構造解釈に対して、『多元的宇宙』の関与を云々することがどれほど貢献しうるか、意義をもつかについては、これまた本論を読んだ上でも評者は確信することができなかった。結局全く別の問題なのかもしれない。
 ジェームズの介入を主題として論じた章は以上である。実は、評者にとっては、漱石-ジェームズ関係を論じていない純然たる作品論の部分の方が面白かった。副題を意識して、また比較文学の書評ということで前者の範疇をもっぱら評してきたが、第四・五・六章の『三四郎』論、第八章の『こころ』論の方が本当はずっと面白い。影響研究という形での作家・作品評釈は、著者自ら気遣わしげに言いかけているように「ジェームズに重きをおきすぎて、漱石の独創を看過している印象を与える」(一九四頁)ことにどうしてもなるからかもしれない。むろん、漱石のジェームズ受容が単なる学説の無批判的応用でなかったことは、すでに垣間見てきたように、本書が十分説き明かしてはいる。
 『三四郎』を論じた三つの章についての評者の疑問を述べて、稿を終えよう。第四章では、美禰子の愛がかりにも三四郎に向けられたことがあったのかどうか、というお定まりで単純だが重要な問題設定がなされる。「森の女」の絵を美禰子の三四郎への愛の記念とする三好行雄氏の読解と、この絵は美禰子が三四郎に出会ったときすでに制作にかかっていたものであるがゆえにその読みは成り立たない、ひいては美禰子の三四郎への愛もない、という酒井英行氏の立論とを対照させた上で、著者はこの対立そのものが問題の本質にとって実は的外れだとする。「この場面は、画がどのような主意で描かれたかが問題なのではなくて、画に託して何が語られたかが問題なのである。明らかに美禰子は、画に託して二人の出会いを、記憶に残すものとして語ったのだといえる。」(一二〇頁)絵自体が「愛の記念」かどうかは問題ではなく、絵についてその場で女が男に語った言葉そのものが重要だという著者の見解は全く正しいと思われる。こうして争点そのものは消去されるが、結論としては三好氏と同様、美禰子は三四郎を現に愛していたということとなり、それに対する三四郎の半信半疑の反応があのエンディングの「迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)」というつぶやきだということになる。
 しかし著者は、この第四章の論旨を別の角度から確認した第六章への「補説」(書きおろし)を次のように締めくくっている。「『三四郎』の世界は、三四郎という特殊な視点によって、極度にデフォルメされて成立つ世界なのだ。…筆者が本論考で、三四郎という視点がとらえたものが何であったかを明らかにしようとしたことの意図も、けっしてそれを唯一のストーリーとして束縛するところにはなく、作品世界が、三四郎の特別な思い込みによって成立つ世界であることを明らかにすることによって、その背後に、読者の自由な想像力の働く世界を解放しようとするものである。」-ジェ一ムズの唯心論的現象主義を不意に思い出したかのような書き方である(「われわれにとって、われわれが経験したと信じた経験以外のいかなる経験もありえない」(一七三頁)。だが、こうした注釈は、右にみた第四章結論部に至る論調とは相容れないように感じられた。第四章では、美禰子は三四郎を愛していた、という命題の真偽が、実在的なレベルで問われ、答えられていたのである。文学解釈の課題としては、視点たる人物(主人公、語り手…)の意識に当該世界がどう映ずるか、その視点の「思い込み」の不確定さに託して読者の想像力をどこまで安全に許容できるかということではなく、現にその世界がどうあるのかをやはり一義的には論ずるべきだと思われるのだが、あの補説および第六章においては、(ジェームズ学説を大事にしすぎたあまり研究対象と方法を混同して?)本来の力強いアプローチから一歩後退する姿勢を徒らに衒っているようである。これは確かに残念なことである。が、第四章をはじめ本書の他の部分を眺めるに、大半が、作品世界の実在的解釈を基本的に貰いていることに間違いはなく、これが著者の意図(「意識の内容」)どおりかどうかはともかく、幸いなことであると思った。

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